水蛭子(ひるこ)の恋患い 【魚鱗癬】
00
日本海は濁っている。と言った偏見、先入観の所以は、今は昔の演歌などで日本海の荒々しい描写が枕詞宜しく一緒にされていた事や、太平洋側と比べると晴天が少ない、また、向こう側に大陸が控えているなどの閉塞感を原因としているのかも知れない。とは言え、所詮は海、綺麗な所は綺麗だと思う。最近は少しばかり波が高い日が多かったものの、漸く晴れた今日は夏休みに向けて海の家を建てる目途が立った都合、僕達は未だ解放されていない海辺へと着ていた。
大学の受験に失敗し、浪人生となった僕こと……和泉博隆は、勉強を続けるモチベーションも減り、また祖父母がオーナーとして経営する海の家の手伝いをする為、気分転換も兼ねた小旅行でひと夏の体験を楽しもうとしていた。勿論、勉強を疎かにするつもりはないものの、一か月くらいは息抜きをしても罰は当たらないだろう。が、バイトを塾の費用に充てようと考えている状況で、そんな余裕があるかどうかは分からなかった。
「じゃぁ、今日は家の骨組みを作りますから」
祖父母がオーナーとは言え、実質的な営業と経営は地元で庶民的なフレンチ料理を出すレストランの店長でもある坂崎洋二に一任されている。ネットでは海の家らしからぬ料理も出すと噂にもなっているそうだ。見た目は浅黒く、髪もやや茶色。一見すると、サーファーだが、れっきとした元フランス料理のシェフである。
「アルバイトの人は分からなかった事があれば経験者でもある先輩方に聞いてください。ちょっと今週は天候が優れなかったので進捗は遅れ気味ですが、急いで作業して、怪我をしたら元も子もありませんから、兎に角、安全第一でお願いします」
流石に曲がりなりにも家を建てる以上、三人ほどの大工が参加していた。支柱を立て、梁を通す、床板、壁と続き、屋根を張る。内装を整え、家具を揃え、装飾を施し、水を引く。冷蔵庫、シャワー、トイレと水回りを確認しつつ、水漏れがない事も入念にチェックする。ガスボンベを置き、火を灯し、火力と相談しながら今年の夏に出す料理の出来を確かめると、一通りの作業は終わった感じだろうか。結局、作業期間中は終日晴天の日が続いたものの、結局、完成まで一週間ほど要してしまった。
「少し遅れてしまいましたが、海開きは来週の火曜日、夏休みは再来週です。皆さん、今年もよろしくお願いします」
準備が終わり、仲間達との親睦を深める為と、坂崎の提供する海の家のメニューを食べる会が開かれた。聞けば、殆どが昨年から引き続きバイトしている地元に住む大学生らしい。当然、お酒も飲めない僕は、彼らが年上と言う事もあり、なかなか輪に入る事が出来なかった。
最初こそ気を遣ってくれたが、お酒が入ると、無礼講を履き違えた態度で接してくる大学生らのノリに、僕は終始困惑した。気付けばホールの片隅でひとり落ち着かないまま、ジュースを飲み、時々、盗み食いするようにオードブルの品を食べ、兎に角、時間が早く過ぎる事を祈るばかりとなっていた。
「こういうのは慣れない? 初めて?」
ホール全体がほのかにアルコールの匂いで満たされた頃、酔っていない者など誰もいないのではないかと思われた頃だ。そろそろお開きだろうかとホッとした僕に、ひとりの女子大生が声を掛けてきた。
嶋野裕子と名乗った女子大生――この場で数少ない素面の人物だ。誰だとか、何だとか聞く前に、嶋野はバイトする動機について語り始めた。どうやらお酒は殆ど口にしていないようだが、雰囲気に酔っているらしい。とは言え、完全に場の雰囲気に呑まれている訳ではないようだ。しかしながら、どこぞの大学に入っている。何々課を専攻している。将来の夢は何だとか。高校までは陸上部だったけど……などと聞いてもいない事を饒舌に語ったかと思えば、嶋野は不意に雑談に転じた。
「オーナーさんのお孫さんなんだってね。学生さん? 浪人生か。すごいな」
僕の返事に適当な相槌を見せながら、気持ち舌を巻くように質問してきた嶋野の意外な言葉に僕は困惑した。
「だって、言い換えれば、安易に滑り止めの学校に行かず、尚且つ一年も勉強するモチベーションを保つなんて、私には無理だよ」
少しだけフルーティーな匂いのする赤いお酒を飲み干した嶋野が本当に何の前触れもなく、唐突に口走った。
「ねぇ、知ってる?」
「ふぇ?」
仄かに赤い顔を突き付けた嶋野は、僕に囁くように問い掛けた。
「私、昔、この辺で、目撃された、って言う、人魚を、探し、てる、の」
呂律の回らない、舌足らずの声を敢えて出すように、そう言った嶋野の言葉で、僕は昔に見た半魚人の事をふと思い出した。
01
頭が痛い。人はこれを二日酔いと言うのだろうか。疲労感と片頭痛。軋む身体は、運動過多の末に小さな炎症を起こしている――ような感覚だ。兎に角、初めての経験に対処も分らないまま、ベッドから足を放り投げた僕は、ふと違和感を覚え、その正体に戸惑った。
裸だ。しかも見た事もない部屋にいる。シンプルながら明らかに女性的な装いも見付けられ、僕は、まさか、の一言を呟きそうになった。漫画か。とひとりツッコミながら、背後に感じた気配に一瞥した僕は、取り敢えず相手が男ではない事にホッとした。
確か……と昨晩の事を思い出そうとするも、何やらアルコールで記憶が飛んでいる。相手が誰であったのかを理解するのと同時に、初体験が無自覚だった事に後悔した。ただ、前後が思い出せない。何時、どのタイミングでお酒を飲んだのかさえ分からなかった。
脱ぎ捨てたパンツを履き、少しだけ汗臭いシャツを着ると、小ぢんまりとしたキッチンに置かれたコップに注いだ。顔も洗いたい衝動にも駆られたが、何となく他人のタオルなどを勝手に使う事は躊躇われ、何杯かの水を呷り、口の中を漱いだ。
いたたまれない心持ちのまま、起きてこない相手を覗いた。まだ寝ている。誂えられた小さな机の脇に正座し、取り敢えず相手が起きるまで僕は待つ事にした。相手……今は彼女と言う代名詞を使って置こう。昨晩の飲み会で遇った事は覚えているものの、記憶違いの可能性もあるからだ。
手持無沙汰とは言え、他人の家を物色するほど邪な気持ちも度胸もない。ただ落ち着かずに視線を回らせるのが精一杯の僕は、少しばかりの罪悪感を覚えつつも、彼女の部屋を観察した。
如何にも一人暮らしの大学生らしい小奇麗、且つ洗練された女子の部屋には、何枚かの絵画が飾られている。薄っぺらいコピーながら大事そうに額縁に収められている物もあれば、画鋲で止められているものも見付けられた。画風やデザインは多様で、素人目にも複数の画家やイラストレーターを違えている事が分る。ただそのモチーフは共通していた。人魚である。
「そ、人魚」
項を舐めるような声音にゾッとした。
「おはよ」
振り返った僕の目の前には半裸の女性の笑顔があった。
「……てか、他人行儀に畏まらないの。昨日はあんなんだったのに」
クスリと微笑んだ嶋野裕子に僕は返す言葉もなく、やはりこんな可愛い人と一晩を共にした事実について何も覚えていない事に後悔の念を募らせた。
「まぁ、良いか」
恐らく昨晩は見惚れ、遂には見飽きたかも知れない嶋野の胸を僕は一瞥した。
「朝ごはんを作るよ。募る話もその後で」
古めかしい漫画やアニメのキャラクターのように、アナログな投げキッスに戸惑う僕を他所に嶋野はショーツだけで隠されたお尻を向けると、タンスの中を物色し始めた。
人魚。と云う言葉に僕の記憶の中、思い出の中の何かが引っ掛かった。ボンヤリと昔の出来事を検索する僕の向こうで、嶋野は淡々と朝食の準備をしていた。意外にもテーブルに並んだのは、純粋な和食の数々。そう言えば、祖父母への連絡はどうしたのだろうか。と僕は気付いた。
「さ、頂きましょう」
僕は両手を合わせると、黙々と食事を口に運び始めた。テレビの有り触れたニュース番組の淀みない風景が在り難いほどに沈黙の続く食卓である。
「昨日は勢いでヤっちゃった訳だけど」
「ぶっ!」
唐突だ。臆面もない報告に僕は吹き出した。
「可愛い年下の筆おろしだと思ってるから。だからと言って、誰でもって訳じゃないから安心して」
何を安心して。と言う事なのだろうか。ついさっきまで童貞だった自分には想像も出来ない、経験豊かな女子の発言と想像する以外に冷静さを保てそうになかった。
「で、昨日の話に戻るんだけど?」
何処か懐かしくも感じる味噌汁を飲み干そうとした僕に嶋野が然も当たり前の話題だと言わんばかりに話をふってきた。
「君も人魚を見た事があるんでしょ?」
「あ――はい?」
そう言えば、昨日の懇親会の席で嶋野が人魚を探しているなどの話を耳にした記憶がある。けれど、僕が見たのは半魚人だ。と釈明しようとした僕に、「良いのよ」と告げた嶋野が何故か人魚の蘊蓄について語り始めた。
「日本に於ける人魚って西洋の流れを組んで色々と変わってるのよ」
アジの開きを突きながら嶋野が、「見て」と言って促した先には壁に掛けられた何枚かの絵が飾られている。下に誂えてあるカラフルな収納ボックスの中には文化圏を問わずに様々な美術史や宗教の本などが仕舞われていた。よくよく見れば女子の部屋には似つかわしくない、おどろおどろしい画風の絵もあった。
「人魚ってどんなのをイメージする?」
嶋野の質問に触発され、無意識に幾つかのイメージが僕の頭の中で浮かび上がって来た。とは言っても上半身が半裸の女性に、魚の下半身が繋がっているオーソドックスなものしか思い出せない。強いて言えばディズニーのアニメ映画に登場する人魚姫のアリエルがぼんやりと浮かんだという事くらいだ。
あとは超常現象やミステリーの特番などでたまに目撃する人魚のミイラだろうか。確か、猿の上半身に何かの魚をくっ付けただけのイミテーションだったと記憶している。勿論、本物とは思ってはいないが、記憶の中に焼き付いたイメージでは、まるで叫ぶような格好だったような気がする。他はジュゴンと言う海獣が人魚のモデルになったと聞いた事があるくらいだ。
「多分、足が鰭の女の子を想像したんじゃないの?」
まるで下心を見透かすように、ニヤニヤと口角を僅かに釣り上げながら微笑んだ嶋野は人魚の造形について説明した。
「きっとそのイメージはアンデルセンの人魚の姫やディズニーのリトルマーメイドのイメージが強いからでしょうね。でもね、元来、人魚の姿は複数あるの。例えば、そもそも人魚と言えば姫、雌、女性のイメージが強いけど、英語では男と女で異なる名詞を宛がってるよ。腰から下が魚だったり、足がそれぞれ一本ずつの尾ひれだったり、と複数あるの。種類としてもローレライ、メロウ、セイレーン、ハルフゥなんかもあるんだよ」
「はぁ」
僕は困惑するまま嶋野の話に耳を傾けた。何故、唐突に人魚の話が出てきたのかは分からない。だが、室内の飾りから嶋野が人魚に拘りを持っている事は想像出来る。確か文化人類学とかに関係する学科を専攻しており、芸術や歴史、民俗や宗教などを総合的に勉強していると言っていたような気がするからだ。
「一方、日本の場合は人面魚としての趣が強いの。古い物では『日本書紀』、『古今著聞集』や『今昔百鬼拾遺』などにその記述が見られるけど、江戸後期には西洋のイメージが広まったと言われているんだって」
「はぁ」
そうなんですか。と答えるしかない僕はやや冷めた味噌汁を飲み干した。
「あぁ~どうしてこんな話をするんだって思ってるでしょ?」
「ぇ――まぁ、そ、……ん」
耳は傾けるが、興味の薄い話である事は否定出来ない僕は、取り敢えずイエスと答えた。
「覚えてないかも知れないけど、私はそもそも君が言った半魚人の話を改めて聞きたかったから、誘ったんだよ?」
そう言った嶋野は、人魚というファクターの伝播と変遷に伴う歴史的、且つ文化的なパラメータの定式化が研究のテーマだと語った。簡単に言えば、情報が伝わる際、各地で受けてきただろう文化的な影響を体系化するものらしい。が、浪人生である僕は、大学の研究テーマなど馴染みがない。本当にそのようなテーマが有るのか、在っても研究テーマとして許される内容なのか、はたまた生産性のある研究になるのか僕には分からなかった。
「で、話を戻すけど、人魚を見たって話の事なんだけど?」
テーブルの上に乗り出した嶋野が詰め寄る。酔いの席だ。勢いと強制の結果、アルコールを飲む事となったが、一応、その辺りの記憶が僕にはあった。ただ誤解のないように説明すると、人魚ではなく……と説明しようと僕を遮り、嶋野が言った。
「半魚人でしょ?」
酔ってはいたが、決して聞き間違えたり、ボケてはいない。と言った嶋野が不敵に笑い、半魚人でも構わないのだと告白した。
「そう言えば、小さい頃の話で、おじいさんやおばあさんの方が覚えてるって言ってたんだっけ?」
どうやら、そのときの話をきちんと覚えているようだ。昔、こっちへ来た時に海で溺れた事があった僕は、その時に半魚人みたいなのもを見た覚えがあった。と言うか、見たという印象が強く残ってるだけで、実際はどうだったか、じいちゃんばあちゃんに訊かないと分かんない処ところがあるのだと、僕は繰り返した。ただ、じいちゃんとばあちゃんは僕に気を遣っているのか、当時の事についてあまり話したがらない節があった。
「溺れたの?」
「えぇ」と頷いた僕は、夢か幻だったのかも知れない。と釈明した。
何故か申し訳ない気持ちになる僕を見つめ、嶋野は「ふ~ん」と小さく頷いた。
「それってあれ? 半魚人に襲われたの? それとも助けられたの? どっちだと思ってるの?」
「えぇ~~っと」
正直なところ分からない。溺れたのだ。何らかの心理的なストレスやトラウマが海や魚など、或いは聞きかじっただけの話と混じり合い、奇妙な印象を記憶に焼き付けたのだろうと考えた方が無難だろう。若しくは、海から救い上げてくれた誰かをそう誤解してているのかも知れなかった。
「ま、いっか」
努めて明るく言った様子の嶋野が「じゃぁさ」と提案した。
「君のおじいちゃんとおばあちゃんに会わせてよ。バイト先の海の家のオーナーみたいな人でしょ。だったら挨拶するのも変じゃないし。別に一夜の恋人と紹介しても良いけど?」
02
広い土地。平屋の家は見た目は伝統的な造りに見える。が、老夫婦が暮らす都合、使い勝手の良いリフォームが施され、和風のテイストを残しつつも、内装とその機能はモダンなものとなっている。
「ここが和泉君の家……」
嶋野はやや圧倒された様子だ。柳井と言えば、地元では有名な資産家である。が、当人らからすれば先祖から引き継いだ使い道の少ない土地が余っているだけらしい。財産も殆どが土地であり、何回か繰り返された好景気や不景気のあおりで大した資産にはならないとのことだ。細々と農業を続ける傍ら、終活の一環で土地の整理も進めているそうだ。
確かに広い土地ではあるが、整備が行き届いているかと言えば疑問がある。庭園らしい庭園はなく、雑種地と山林、田畑が境目なく続いている感じだ。汚くはないが、自然のまま。と言ったところである。奥にビニールハウスが幾つか建ててあり、僕はそこに向かって歩き始めた。
多分、今の時間だと畑で仕事をしているだろう。僕らは畑の方へ向かった。嶋野は大学の研究の一環で取材するのだ、と言った手前、少しばかり小奇麗な格好をしている。足元はスニーカーではない。ファッションには疎いので、なんと呼べば良いか分からないが、少なくとも畦道を歩くには不便そうな代物だ。
人の気配が漂うビニールハウスを覗き込んだ僕は、少しだけ罰の悪い心持ちのまま先ずは挨拶を口にした。
「いやぁ、おかえりぃ」
汗だくの顔を上げた僕の祖父である柳井次郎がニンマリと笑う一方で、僕の後ろに立つ嶋野に目を向ける。
「誰だい?」と訝しげに応じながら農作物の草むらから顔を出したのは祖母の柳井キヨだ。次郎とは対照的な好奇な視線が窺える。
「飲み会があるってのは聞いてたけど、連絡くらい入れなさいな」
土で汚れた軍手を脱ぎ捨て、汗を拭くキヨは、露骨な猜疑心を表情に描きつつ、威嚇するような面持をぶら下げた顔で嶋野に近づいて行った。
「うちに何か用かい?」
「あ、っとそのですね」
朝帰りした孫が突然見知らぬ女性を連れて帰ってきたのだ。美人局くらいの邪推も仕方ないのかも知れない。が、飽くまでも今の嶋野はフィールドワークの一環でここを訪れているのだ。その辺りの誤解はないよう、僕は祖父母に説明した。身振り手振りを交え、ただ昨晩の一件がある以上、どこかバツの悪さを覚える中、僕は人魚……もとい、半魚人を見たと言った幼いころの話を嶋野は聞きたいのだとフォローした。
「へぇ、ヒロがそんな話をするなんてね」
一応、納得した様子のキヨだったが、恐らく昨日の僕は気付かぬ間にアルコールを飲み、饒舌になっていた可能性が高い。元より口下手な方だ。何よりも自分の事を話すのは苦手な上、得意ではない。むしろ、嫌いだと言っても差支えない事をキヨは知っていた。
「んで、話を聞きたいと?」
次郎が訊いた。
「あ、はい」
「ま、昨日は何があったのか訊かないけど、上がっていきな」
キヨはぶっきらぼうに言うと、嶋野を邸宅へと招き入れた。リビングと居間は別に設けられていた。居間は昔ながらの装いを残しており、囲炉裏もある。隣の土間には、年末にもち米を焚くくらいしか用の成さない窯もあった。水場はやや大きく、畑で収穫した作物を洗う姿がよく見られた。
僕は土間から居間へと上がり、次郎も長靴を脱ぎ捨てから後に続いた。キヨは収穫した野菜を水の張った桶に放り込んでから、ヤカンに水を入れ、次郎が火を灯した囲炉裏の上に置いた。一方で嶋野はと言うと、どうやら未だ警戒心を見せるキヨの許可を待っているようだった。
「突っ立てないで、アンタも上がんなさ」
嶋野をまともに直視せず、横顔でそう促したキヨは、居間に置かれた茶箪笥から急須やら茶碗を取り出すと、お茶を淹れる準備に入った。
「失礼します」と断りを入れた嶋野は居た堪れない様子で靴を脱ぐと、乱れた僕と次郎の靴の位置を正してから囲炉裏の横へ用意された座布団の上に腰を下ろした。
「で、何の話が聞きたいんだって?」
胡坐の上に手を突いた次郎が早速と話題を振ってきた。
「あ、はい。実はですね」
嶋野は次郎とキヨに、僕が溺れた当時の記憶……印象について聞きたいのだと改めた。当然、理由が投げ掛けられたものの、流石に老人である二人に同様の答えは憚れるのか、嶋野は掻い摘んで、だが、要領よく説明した。
「つまり、何だ?」
やはり理解出来ていない様子の次郎は案の定首を傾げている。キヨも分かったような、分からないような微妙な表情だ。
「好奇心で聞きたいって訳じゃぁないの?」
「はい。この辺にはエビスや八百比丘尼の伝説も聞かれる福井県の一角です。大学の研究で歴史を専攻しているのですが、人魚と言うものが広く伝わっていく際に、どのような誤解や偏見を取り込んでいくのか……、それを紐解いてくのが、卒業研究のテーマなんです。いず、じゃなくて博隆君から半魚人の話を聞いたとき、この地域の慣習や口承を知れると思い」
「要は変な好奇心から知りたい訳じゃないってのは分かった」
「アタシもその辺は分かった」
一応でも理解したと告げる次郎にキヨも倣った。
「それじゃぁ、話して頂けるんですか?」
僕も当時の詳細については興味がある。物心が付いてたかどうかも怪しい頃の話だ。半魚人を見た、助けられたなどと告白した経緯もあり、僕は少なくないイジメを受けた事がある。が、真相を求めてじいちゃんやばあちゃんに尋ねても、答えははぐらかせるばかりった。嶋野の勝手に付き合っているものの、僕にも僕なりの都合と動機がない訳でもない。どうして僕は溺れたのか。誰に助けられたのか。実は僕も知りたかった。
03
回顧録は理由から始まった。どうして話したがらないのか。答えは明白だった。今は昔の半世紀以上前、戦後からの復興も漸く軌道に乗った頃、僕が溺れた場所の辺りは穢土と呼ばれ、村八分にされた一家が住んでいたからだった。勿論、じいちゃんばあちゃんが小さい頃には慣習的な醜聞が残り、近付かないだけの場所となっていただけである。また、今のような防波堤の設備が整っていなかった同地は切り立った、潮に削られた崖が続いてた事もあり、当時は既に子供を近付かせない為の方便として使われる方が多かったようだ。
「だがな、昔からその辺には化物がいると言われていてな」
「アタシはホントに信じてたよ。誰が言ったか分からないけどね、人魚を見たとか言う輩も多かったしね。幼心に怖かったのを覚えてるよ」
キヨが嶋野を前に漸く猜疑心以外の感情を露にした。
「では、単に因習が口を重くさせていただけと言う事ですか?」
「ちいせぇ頃の慣わしってのは、じじぃになっても治せないもんだよ」
ひとり納得した様子の次郎が深々と頷いた。
「一応、この辺の資料は調べているので、そのような事実があった事は確認しています。でも、実際のところはどうでしたか?」
「どう……とは?」
質問の先が曖昧で要領を得ないらしい次郎が聞き返した。
「資料が完全に残っているとも思っていませんが、村八分にされた家族、と言いますか家系の人がどの時点から迫害されたのかは分かりません。それに何時まで住まわれていたのかも曖昧です」
「へぇ」と頷いたキヨと次郎だったが、元より与太話を教戒として聞かされていただけの二人には思い当たる節もないようだ。
「どうして博隆くんは半魚人に助けられたと思ったとお考えですか?」
僕自身はじいちゃんやばあちゃんから溺れた場所が不可侵である事を聞いていない。少なくとも自覚していない。若しかしたら物心が付く前に、そのような教戒と一緒に昔話を耳にしている可能性も考えられた。とは言え、だとしたら、どうして村八分にされたような人を善人として意識したのか疑問が残る。
「さぁ、どうかな……」
「確かに、ひろ君は地元の方に助けられたけど、ねぇ」
取り立てて気になる事はないらしいキヨが首を捻った。
「あ、でも……誰だっけかな」
「助けた人? もう亡くなった葛西さんとこの」
「あぁ、そうそう。その葛西さんのとこのかず坊がさ、前から言ってたじゃないか」
「何でしたっけ?」
「俺は拾っただけだ。海から来た奴から受け取っただけだって」
「あぁ――思い出した。それで、その助けた人を探したんだった」
流石のじいちゃんばあちゃんも年なのだろう。孫が溺れ、死にかけた出来事も曖昧で、仔細を欠いているようだ。葛西和正と言う人は知っている。三年くらい前に亡くなっており、小学校の中学年くらいまでは礼も兼ねた年賀状とお歳暮を毎年贈っていたように記憶している。が、別の誰かが僕を海から拾ったと言う話は初耳だった。
「それが半魚人だったのでしょうか?」
「さぁ、分からんよ」
次郎は唸った。キヨも頬を手に、頭を支え、昔のことを思い出そうとしている。
「その厚かましいお願いにもなるんですが」
これ以上は期待される話もないだろうと思ったらしい嶋野が畏まりつつも、言葉通りに勝手なお願いを申し出た。
「他に当時か、もっと昔を知っているかもしれない方がいれば紹介して欲しいのですが」
「他に……そうさなぁ」
視線を泳がせた次郎が暫く考え込んでいると、キヨが「おじいさん」と言いながら膝を叩いた。
「そうだ。あの辺にエビス様を祀っている小さな社があってな。そこを管理しているきくばぁってのがいて、90を超えるんだけども、その時、孫が溺れたときに世話になったんだよ。昔からあの付近に住んでて、村八分のそれも知ってるんじゃないか」
「そうなんですか?」
嶋野は興味深そうに目を見張ると、知りませんでした、と告白した。
「教授を介して役場の人とかの話も聞いていたんですけど、その方の名前は初耳です」
「噂じゃ、村八分にされた家族の面倒を看てたって話もあるしな。古い話だし、そう言う経緯もあるし、忘れてたか、無意識に憚ったんじゃないか?」
尤もな憶測だ。と思う一方、僕も嶋野が調べている件について興味が湧いてきた。無関係ではないと言うところも大きいが、人魚、村八分、エビスなど昭和の匂い漂う探偵小説のサスペンスドラマを連想させる面白いキーワードに好奇心を刺激される。
「会えますかね?」
「多分、会えるさ。近所に住んでるし、表札もあるし。近くに安形なんて家もないし、間違えないだろうよ」
「ただ、話してくれるかは分かんないわよ」
キヨの忠告に嶋野は微笑んで返すと、出されたお茶を飲み干した。
「いえ、大丈夫です。ダメ元でも」
そう言った嶋野がぎこちない足取りで座布団から立ち上がると、僕は要らぬお節介かも知れないと思いつつも、気付けば支えるような手を彼女の方へと差し出していた。
04
防空壕のような横穴の奥に、放り投げこまれたような小さな社が傾きつつも誂えてある。七福神と同じ呼び名の恵比寿ではなく、海から来た寄り神の蛭子を祀っているらしい海神様の彫り物は、風雨に曝されたそのシルエットを残すのみで、何を描いていたのかは分からなくなっていた。
「これが海神様――?」
もはや石像でさえない瓦礫が社の奥に祀られていた。スマートフォンのライトに照らし出された像は凹凸が激しく、その上、苔が生えている事もあり、やや不気味な印象さえ漂わせている。
「えぇ。母も掃除はするのですが、海神様の像は触れないと言ってまして」
嶋野の不意の訪問にも関わらず快く対応してくれたのは、きくばぁこと、安形きくの子供である安形丈治だ。背丈は高く、顔の彫りも深い。老齢も近い男性だが、若い頃はまるで外国人のように端正な顔立ちだったと連想させる。
「写真とか撮っても大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。大したものが撮れるとは思いませんけど」
謙遜の一言だが、実際、目の前の瓦礫には価値を見出せそうにない。と思いながら、僕はスマートフォンのカメラを向ける嶋野に合わせ、スマートフォンのライトを灯した。
「あの、先程の話ですけど」
結局は瓦礫を映しただけの、一見すると意味の分からない写真しか撮れなかったようである。
「あ、えぇ――。ですが、母は訛も酷いですし、今は若干の痴呆も出てますから、取材したとしてもご希望に沿えるような話が聞けるとかどうか」
困っていると言うか、遠回しに遠慮している様子が見て取れる。が、矛盾して母の小言を代わって聞いて欲しいというような雰囲気も感じられた。
上っ面ながら交渉は意外なほどスムーズに進んでいる。予め嶋野から目的や大学名などを明らかにしていた他、その所属する研究所の教授名も出していた事が信用を買ったようだ。確かに地元の出身者であり、昔の町長も勤めていた家系の人物の名前がその教授だと知れば、少しばかり年老いた地元民は頭が上がらないのかも知れない。じいちゃんやばあちゃんの柳井家と同じく、萩生田は市議や町長などを歴任した事もある家系だった筈だ。
「???」
ふと、頭の上に何か浮かんだような気がしたものの、その閃きは像を成さなかった。僕は何に気付いたのか、何を仮説に閃いたのか、分からない。それでも、その閃きはとても重要な事だと言う余韻だけは確かに感じられる。
「まぁ、会うだけ会って見ますか」
確認と言うよりは妥協を含んだ、諦めも感じられるその口調で先を促した丈治の案内の下、僕と嶋野は改めて安形家の門をくぐる事となった。
「ばぁ、ばぁ!」
丈治は自身の母を婆と呼んだ。だが、奥から返事はない。人の気配もない。ただただ線香に特有の臭いがする。まるで何かを隠すように立ち込めていた。
「寝てるのか……?」
待ってて欲しい、と言い残した丈治が家の奥へと上がっていくのを見ながら、一方で嶋野は玄関先から窺える調度品や写真などを無作法に観察しているようだった。如何にも漁師の家といった物が飾られている。だが、不釣合いなシュールな絵画も飾られており、隅には流れるような筆で英語らしき文字も書かれていた。
「すみません」
暗い所為もあったが、やや青褪めた表情の丈治が玄関へと戻ってきた。
「ばぁ――、じゃない、母が、母がいないんです」
「出掛けてるんですか?」
そう言う嶋野が遠まわしに、徘徊しているのですか、と尋ねている事は想像に容易かった。
「すみません。多分、また」
電話を取った丈治が何処かの番号に掛け始める。
「探してきましょうか?」
「あ、っと、大丈夫です。何時もの事ってわk」
嶋野の提案を手の平で遮った丈治が電話口の相手に集中する。どうやら役所のようだ。そう言えば、何度か町内の放送で行方不明者捜索願いを聞いたことがある。
「はい、……えぇ、すみません。また、はい。お願いします」
丈治は頭を下げると、嶋野の願いを新たに断りに入れる。
「すみません。母がまた徘徊したようで、今回の話はなかった事に。また、後日にでも」
「あ、いえ。こちらこそ大変なときに」
慌てて礼を述べた嶋野も頭を下げた。外では町内放送の捜索願の声が上がっている。丁寧な口調、慣れた様子で安形きくの特徴らしい特徴を繰り返した。そのキーワードに誘われ、会った事のない安形きくの姿が連想されるも、平均的で、表情のない老婆が僕の脳裏に浮かんだ。ただ丈治の口ぶりから過去にも何度か徘徊しているだろう彼女の姿を知る、或いは祖父母の言ったとおりに多少の有名人である安形きくを知る人は存外多いのかも知れない。願わくば早くに見つかって欲しいと、他人事のように思う僕に声を掛けた嶋野は、再び丈治に礼を述べると、安形家を後にした。結局、収穫と呼べるだけの話が聞けなかった。無駄骨とは言わないが、徒労だった。と辛うじて伝えた僕に、嶋野は言った。
「ある程度の予想はしていたから」
まるで見透かしたような、一方で諦めとは違う憂いを見せた嶋野。どのような意味を含んでいるのか分からないものの、彼女が期待した結末ではなかった事が伺える。僕を助けたモノは何だったのか。村八分や海神様とは何だったのか。人魚の変遷と何が関係していたのか――、僕では知る由もない物語が過去にあったのかも知れない。と言う想いを馳せつつ、僕は夏の眩しい日差しに目を細めた。
05
三日が経った後、安形きくの行方が分かった。どのような経緯で辿り着いたのか、安形きくは海神様が立つ祠の近くで倒れているところを発見された。直前に起きた地震の影響か、崩れた祠の天井に頭を打ち、気絶した彼女はそのまま衰弱死したと思われる。驚くべきは、その近くに別の死体が転がっていた事だ。祠が過去に防空壕として使われていた名残か、今は閉じられていた横道に死体があったものと推測される。原型を止めないほどに風化していたものの、幸いにも特徴的な形状を残す欠片から、それが人骨である事は程なく判明した。
刑事的な手続きの都合から、安形きくの検死とは別にその原因を明らかにする処置が行われた。いわゆる司法解剖である。遺された肉親の安形丈治は、崩落事故に伴う負傷から衰弱死したのは明らかだろう。と言う検察の所見と同様に、改めて司法解剖する不要はないと訴えた安形丈治に対し、警察は不審な点があると主張した。白骨死体は誰なのか。本当に安形きくは徘徊の末に亡くなったのかなど、状況ではなく憶測に偏った意見も多く呟かれているようだ。
今、嶋野裕子は、和泉博隆と共に地元の図書館を訪れていた。古い新聞記事を探しての事である。マイクロフィルムに焼き付けられた半世紀ほど前の記事には、戦後も居座ったと思われるある米兵が婦女を暴行した末、逃走したらしい内容が書かれている。当時の時代背景を考えれば、戦勝国でもあろう米国を痛烈に非難する文章は、なかなか過激なものと推測された。
図書館を訪れた理由は明らかだ。安形丈治……いや、彼の証言を全面的に採用するならば、George・Agutterとなるのだろうか。彼が話した、出来過ぎた物語を確かめる為の資料が見たかったからだ。とは言え、確かな記録を見たところで言葉の裏にある真実が見抜ける訳でもなかった。
語る事は容易い。が、信じるには難しい。けれど、物語として受け入れるには出来過ぎている。それが嶋野の素直な感想だった。和泉はどう感じたのだろうか。尋ねてみると、彼は相変わらず拙い手振りで誇張しつつ、メモに書いた簡単な言葉で今の気持ちを説明した。半漁人はいたんですね、とか。恩人は自殺したんでしょうか。などと他人事のように述べていたが、嶋野と比べれば事の顛末に納得出来た様である。
「ごめんね、変な事になった上、最後まで付き合せちゃって」
謝罪の言葉を口にしたものの、和泉は首を横に振った。気にしていない。と言いたかったようだ。
「ねぇ、今度さ、デートしようか」
お礼とは言えないまでも、何らかの形で労いたかった嶋野はデートを提案した。酔いの勢いとは言え、和泉の童貞を奪った後にも関わらず、その提案には妙な緊張感を覚えた。改めて。と言う体裁が何故か気恥ずかしさを連想させる。
「あ、……ぁい」
小さな相槌に和泉の初心さを見た嶋野は、年下の彼氏も良いかも知れない、と微笑んだ。せめて次の試験で大学に受かって欲しい――が、ハンディキャップのある和泉にはなかなか厳しいだろうか。自分を棚に上げて。と思うと失笑もこぼれるが、だからこそ通じるものもあった。
「私も……さ、手話を覚えるわ。和泉君と、もっと、ちゃんと話したいもん」
ぎこちない手振りながらそう宣言した嶋野が和泉に握手を求める。どういう意図か分からず、単に席を立つように促されていると思った和泉は、差し出された嶋野の手を握り返すと、徐に立ち上がった。
資料を片付け、図書館を後にする二人。次の目的地は安形きくが亡くなった祠である。別の白骨死体が見つかった経緯と、背景は簡潔ながら地方紙に掲載され、どうして安形きくが村八分にされていたのかも凡その検討が付き、化け物がいたと言う和泉の曽祖父母の戒告の理由も説明される形となった。
祠から規制線はなくなっていた。先の地震で天井が崩落した都合、代わりに危険を報せ、立ち入りを禁止する看板と、取って付けたような有刺鉄線が張られている。誰が備えたか分からない花が置かれ、十字架も傍らに立てられていた。その横に線香が煙を上げているのは不思議な光景だ。
嶋野と和泉は両手を合わせ、数秒の黙祷を捧げてから、安形の生家に向かった。最初に訪れたとき、嶋野が気になった平屋には不釣合いな西洋画も、その出所などが分かると生活感に沿ったもののように見える。
「ようこそ。待っていました」
薄明かりの居間の奥から徐に登場した安形丈治の出迎えに思わず身構える和泉の僅かな機微を嶋野は敏感に覚った。人伝に聞こえた十年前の事件のあらましは聞いているとは言え、直接、半漁人の正体について聞く事にはやはり躊躇いもあるのだろう。怖い、とかそんな単純なものではない。これからひとりが自殺するに至った話を聞かなくてはならないのだ。緊張するのも当然だ。況してや自身がその引き金となったと知った中では、他人事と聞き流す事も出来ない筈である。
「まぁ、上がって下さい」
誘われるまま居間へと上がった二人は、捧げてから間もないだろう長い線香のある仏壇の前に両手を合わせてから、草臥れた座布団の上に腰を下ろした。
「先ずは写真を見て頂けますか?」
机の上に置かれた古ぼけた写真。白と黒の濃艶が映し出す何十年も前だろう風景は、恐らく先の祠と同じ岬と思われる。一組の男女がぎこちない笑顔を作り、初々しい感じで他方の腰へ腕を回している。女性は着物と洋服の間のような格好だが、男性の方は洋服だ。スーツ、とは言えないものの、その堅苦しく、何処か厳つい印象も伺える服装は、強いて挙げれば軍服が近いように思われた。いや、注目すべきではそこではない。男性の見た目である。
「これは……」
嶋野は口を噤んだ。息を呑んだ訳でもない。ただ、差別的な表現が口を衝いて出そうになったからだ。まるで半漁人。色白の肌は鱗で覆われ、罅割れてさえいる。全身が、と言う訳でないが、露出している部分の多くに異常が見受けられる。
「はい。父の、Johnn・Agutterです」
06_過去01
魚鱗癬と言う病気がある。皮膚が硬化し、まるで魚の鱗のような状態になり、剥がれ落ちたりする病気だ。遺伝子の異常が原因だとされている。その見た目の異常から差別か、好奇の目にさらされる事も多い。結論から言えば、和泉博隆を助けたのは魚鱗癬に罹った男性だ。彼の名前は、Johnn・Agutter、Kiku・Agutter(きく・安形)の夫であり、行方不明の米兵であり、防空壕跡に見付かった白骨体その人である。
第二次大戦後、荒れ果てた日本で女性が簡単に日銭を稼ぐ方法は、身体を売る以外にあまり多くの選択肢はなかった。敗戦国と戦勝国。元より白人を優勢種と見る傾向の強い一部の米兵の横暴は、その関係性故か、悪い方へ増長している所もあった。Kiku・Agutter……旧姓、的場きくもそのような女子のひとりだった。身寄りもない戦災孤児でもある彼女はそうでもしなければ生きていけなかったのが当時の地方社会の有り様だった。
恥辱の中、暴力を受け、陵辱を繰り返し、乱暴からは逃げられず、屈辱に耐え、乱交に身を投じる。それでも得られる日銭は少ない。戦勝国にとって敗戦国の劣等種など、言葉が通じない点ではサルと同列に扱われる。ただ、姿だけは獣ではない為、慰めものとしての価値があった。そんな中でも幸いだったのは、当時の不衛生な環境に於いても重大な性病に罹らなかったくらいである。将来、平和な時代が来れば子供がまだ産めるかもしれないと言う希望は唯一の救いだった。
身体を売る事にもはや罪悪感も快感もない。況してや苦痛もない。口に銃を入れられようとも、イチモツを突っ込まれようと、その区別もなく頬張れるほど、きくは生に固執していなかった。ただ空腹を覚える。だから、食べる。結果、まだ生きている。と言うだけの事だった。
その日は慣れない酒を飲まされ、空ろなまま犯され、二束三文の報酬しか得られなかった。気付いたときには事は終わっており、下腹部は元より、全身が汚れていた。手には僅かな小銭が掴まされていた。足元がまだ覚束なかったので、夜道を川沿いに歩き、家へと向かった。
家と言ってもあばら屋だ。雨風が防げるだけで、強盗からきくを守る力もない家である。強盗に入られても金目の物はない。強姦されても守る操もない。命を奪われて後悔するほど、未来に期待もない。遅いか、早いか。自然に死ぬか、殺されるか。戦時中は死にたくないと思っていたのに、今は不思議と生き死に気持ちが向く事はなかった。
だが、その日、きくは違和感を覚えた。人の気配がある。生き死に執着はなくても、目の前の危険には身構えてしまう。無駄に痛いのは避けたく、苦しいのも遠慮したい。弄ばれるのには慣れていても、徒に拷問された上で殺されるのは嫌だった。
野犬か、猫か。願わくは人ではない事を望みつつ、きくが家の中を覗くと、大きな影が蠢いた。地域がら熊か猪かと思ったきくの前で、大きな影はするりと上へ伸び、奇妙な声を上げた。耳に馴染まない。それでいて不愉快な声。一定のリズムと抑揚もある、だが、捲くし立てるようなそれが、身売りのときに何度も聞いた英語だと気付いたきくは、何時ぞやの乱暴な客が来たのだと思った。
「forgivemedonotbeafraiddonothingjustbeinglookingforbed!」
言葉の意味は分からない。何度、身売りをしてもその言葉をあまり理解した事がないきくでも、どうやら男性らしいアメリカ人が何かを訴えている事だけは感じ取れる。行為を要求する彼らの口調とは違う。下品さがなく、必死さが見て取れる。
「ひッ!」
両手を上げ、無抵抗を態度で表した男性がゆっくりと家の奥から出てきた。家に蝋燭のような灯火はなくとも、今日は月明かりが眩しい。玄関まで出てくれば男性の正体が知れる。一体、どのような人物なのだろうか。近付く男性の気配に思わず声を上げ、半歩ほど下がったきくが見たのは、人ではなかった。妖怪、或いは化け物と呼ぶ他ない異形の姿を持つ何かだった。
やや禿げ散らかした頭皮を含め、顔の半分以上を覆うだろう部分の皮膚がささくれ立ち、鱗のようなものを生やしていた。目は月明かりの所為もあってか、異様なほどに青く輝いている。唇は腫れぼったく、赤みも強い。歪んでいるのか、笑っているのか、口角のあたりが吊り上っており、例え難い表情を男性の顔の上に作り出していた。
「forgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgivemeforgiveme」
男性が繰り返す言葉の意味は相変わらず分からない。だが、男性が見せる所作には馴染みがあった。土下座。白人ほど大きい体が小さく蹲っている。いや、よく見れば震えてさえていた。
「あんた、何なんだい?」
きくの質問に男性は答えなかった。答えていたかも知れないが、きくにはやはり理解出来なかった。ただ、目の前で蹲る半漁人のような男性の姿に、きくは生まれて初めて他者への哀れみを覚える。
「helpme」
恐らく蔑んだ視線を向けていただろうきくの耳にふと届いたその言葉は、きくが初めて覚えた英語でもあった。
自分は社会の最底辺に這い蹲っている。と思っていたきくにとって、自分の足元に跪くモノがいる事に驚いた。初めて覚える優越感……いや、それに連なる得体の知れない気持ちがきくの口元に卑屈な笑みを浮かび上がらせる。相変わらず英語で助けて欲しい、許して欲しいと繰り返す声が聞こえるも、もはやただの悲鳴にしか聞こえなかった。
なんて惨めな姿だろうか。頭をまるで地面にこすり付け、体を小さく丸めている。懺悔か土下座か。きっと、自分も暴力的な客に買われたときは同じように体を萎縮させていたかと思うと、恥ずかしくなってくる。もう口には出さなくなったが、最初の頃は痛いのも気持ち良いのも恥ずかしいのも苦しいのも汚いのも――与えられる全てが嫌だった。
「ぅうあぁああ」
きくは顔を覆った。涙が出てくる。止めなく、止まらない。壊れたように溢れてくる。そうか、自分はこんなにも惨めな業を背負っていたのか。矮小なそのモノの姿に自分の今を重ねたきくは、いまだ助けて欲しいとばかり呟く男にそっと手を差し出すと、月明かりの下、精一杯の優しい笑顔を作った。
07_過去02
戦後、戸籍を焼失した者も多い。謀り、嘯き、誤魔化し、或いは死んだ者が生き返るなんて事もあったかも知れない。きくが故郷に戻ってきたとき、知った土地で生まれ、聞いた事のある名前の、空似でもない誰かを目撃する事も珍しくなかった。
風貌が先天的な病気の所為で異常だったジョンも、喋りさえしなければ包帯を巻いた負傷者と同じように振舞う事が可能だった。原子爆弾の放射能汚染に、空襲による火災で顔を爛れさせた者もいたからだ。きくは戸籍を再発行し、ジョンは少しでも本名に近い響きを持つ、安形慈音と言う名前の僧侶の籍を貰った。
とは言え、ただの元米兵に出来る事は少なかった。きくと共に籍を入れ、夫婦として焼け野原を開拓し、細々と農業を始めるのが関の山だ。だが、人目を憚らず、顔を出せるだけでも慈音にとっては幸運な事だった。戦中、……戦前も見世物として買われ、蔑まれてきた日々。恋人は疎か、妻が出来るとは想像もしなかった。
「子供が、出来たかも知れない」
月経が止まり、体調に変化が生じた。お腹の中に子供がいたとしてもほんの指先ほどの大きさかも知れないが、妊娠したと言う確かな違和感がきくにはあった。初めてではあったが、間違いないと言う確信があった。ほどなく、町医者の診断から確証が得られ、二人は喜ぶ一方で、慈音のような病気を持つ子供が生まれたらどうしようと言う不安も覚えていた。
妊娠が分かってから何ヶ月か経ち、お腹が大きくなったきくは動く事も難しくなってきた。代わって外に出歩くようになった慈音だったが、きく以外の誰かに素顔を見られる事はまだ耐え難いものがある。同じ村に放射能に汚染され、自分と同じように醜くなったものがいる所為か、同情される事もしばしばあった。が、その原因を作った国の生まれである事を思うと、非常に心苦しいものもあった。一方で往々にして優しい村の人々には感謝する事も多かった。
そんな折、慈音は米兵らしき大柄な強盗が目撃されたとの情報を耳にする。どうやら戦後のPTSDから麻薬などの覚せい剤に手を出したらしい。闇市ではそのような代物が出回ってると聞く。局地的ながら犯罪が凶悪化し、増加している背景には理由があって事だ。自身やこの村に被害が出なければ良い。と願う以外に今の慈音に出来る事はなさそうだった。
きくの陣痛が酷くなるに連れ、お腹の中の子供も活発な動きを見せ始めた。と同時に慈音もきくに代わって村へと出かける事が多くなった。付き合いを持つ人は限定されていたものの、慈音も昔に比べて随分と社交的になり、また明るくなったように思える。日本語も流暢に喋れるようになり、今はただの戦災者として見られていた。
幸せな日々。今までの不幸が嘘のように思えてくる。過去の不幸せと言う負債が清算されていくような感覚だった。一方で不安もあった。若しかしたら何時か幸福を取り立てられるような事件が起きるのではないだろうか。過去の不幸は、今の幸福で帳消しになった。では、未来の幸福を得る為に、少なくない不幸が今まさに襲ってくるような、幸せだからこそ覚える予感が慈音にはあった。所詮は杞憂だ。不幸も幸福もこちらの都合も鑑みずに襲ってくる。日に日に大きくなる不安を、ふとした日に思い立った慈音はきくに相談しようとした。
だが、帰った家にきくはいなかった。そこには薄汚れた大柄の男が立っていた。体格や骨格、風貌から白人系と直ぐに分かる。一体、誰なのか。恐る恐る近付き、様子を伺う。物取りだとしても、大した金品はない。まだまだ復興の途中、開拓の半ば、物々交換が主流である。食料の蓄えを盗まれるくらいは大丈夫だ。
そう思った矢先、空ろな目の男が振り返った。慈音に気付いた訳ではない。ただ、周囲の様子を伺っただけのようである。しかし、その足元にチラリと見えた影に、慈音は絶句した。きくが倒れている。血こそ流していないが、動いていない。気絶させられたのか。襲われたのか。ならばお腹の子供は……と思うが先か、動き出したのか先か、気付けば慈音は男に襲い掛かっていた。
馬乗りになり、顔面に何度も拳を叩きつけた。相手の鼻が砕け、唇が裂ける。折れた歯が慈音の拳を傷付けた。顎が砕けたのか、急に男の顔が歪み始める。抵抗しようと下から伸びた腕が慈音の首に絡み付く。指が肉を押し込み、爪が皮膚に突き刺さる。気道が絞められ、慈音の顔も歪む。呼吸が難しくなり、苦しくなる。慈音は拳を叩き付けた。骨が砕けたそれが自分の指か、相手の顔面か分からないまま、慈音は左右の手の平を重ねた拳を男へと振り下ろした。
08 エピローグ
結末は聞かなかった事にした。結局、和泉博隆が溺れた事件と、慈音やきくの生死はまるで関係なかった。たまたま魚鱗癬の帰化したアメリカ人に助けられたと言うだけの事だった。だが、慈音がきくを襲った元米兵らしきアメリカ人を殺した事。きくはそのアメリカ人に襲われたとき、第一子を流産していた事などを知ると、きくが海神様……を、蛭子と同一視される恵比寿として見ていたらしい背景が自ずと理解出来た。あの祠を掘り返せば、若しかしたら半世紀ほど前に死んだ何者かの証拠を見付ける事が出来るかも知れない。いや、もはや何も残ってはいないだろう。飽くまでも安形丈治の証言と状況の辻褄があっているだけである。ただひとつ残された問題は、どうして丈治が話してくれたのか。その一点に限られそうだ。
「父は言っていました。自分は人をひとり殺した。戦争とか、そう言う大義もない中。もしその罪を清算出来る事があったのなら、或いはそれが人生の最後の日になるかもしれないと」
そして本当に亡くなった。と言う事なのだろう。きくは、再びその理由か、きっかけとなった和泉が訪れた事に何か……虫の報せのようなものを感じ取ったのかも知れない。結果的に地震を原因とする事故で死亡した形となったが、やや呆けていたきくが臨終の際に何を思ったのか、それこそ分かりそうになかった。
「ありがとうございました」
和泉に代わり、嶋野裕子が礼を述べた。丈治もまるで憑き物が落ちたような表情をしている。慈音の言葉を借りれば、全てを清算した気持ちなのだろうか。幸福も不幸も、罪も罰も、贖罪も懺悔も。不可解な点は少ない。だからと言って全てに納得出来た訳でもない。だが、嶋野にも一つだけ共感出来る点があった。
「あの、大丈夫ですか?」
立ち上がろうとした嶋野に丈治が声を掛けた。
「大丈夫です」
ややバランスを崩しかけたものの、和泉の肩を支えに立ち上がった嶋野は、丈治からの気遣いを遠慮した。再び、過去の事件について話してくれた事に感謝を述べた嶋野と和泉は、安形の家を後にする。
丈治がきくや慈音の心根を代わって話しているのかは分からない。出来過ぎた話だという印象も拭えない。三流か、一流かは別として、どこかの小説にも描かれていそうな話である。邪推すれば色々と不愉快な物語だって出来るだろう。それでも自分達が知り得た情報を綺麗にまとめるとするなら、このくらいの方が耳には心地良かった。
「傷の舐め合い、同情、哀れみ」
慈音を見、きくは自分の惨めさを理解した。多分、自分も同じような同情や哀れみ、同類故の親近感を覚え、近付き、触れ合い、今は隣を歩いているのだろう。和泉は話せない。話さないのか、話せないのか。機能的な障害があるかまでは流石に質問出来ない。手話の拙さを考えれば、最近になって話せなくなった可能性もある。生まれ付きか、何年もこの状態ならもう少し手話を会得している方が合理的だからだ。
何となく理由が聞きたかった。自分は傷の舐め合いを求めて、今の、或いは将来の親密な関係を和泉に求めているのではない。きくとは違い、自分は普通の恋愛の末、和泉と親しくなりたいと思ったのだ。と言いたかった。きっかけこそ理由があっての事――だが、自分は普通だと強く訴えたかった。障害者だから。と言うレッテルは、自分にも彼にも必要ない筈だ。
「ねぇ――」
そう質問を掛けようとして、自分を棚に上げている事に気が付いた。砂が入り込んだのか、潮に痛んだのか。義足が軋む。歩幅が不思議と小さくなり、躓きそうになる。――だが、自然と和泉の手が伸ばされ、嶋野はハッとした。
「ううん。ありがとう」
言葉に詰まった。真っ直ぐな和泉の顔から逃げ、嶋野は言った。
「ねぇ、デート、……どこに行こっか?」
もはや自分だけでは走る事も儘ならない足。中学のときに事故に遭い、失った足。高校時代も陸上をしたいと、頑張っていたが、友人からの何気ない「まだ、やるの」と言う一言に絶望した事を思い出した。だから、自分は心地良い言葉を求めていたのだろうか。否定されない、拒絶されない、蔑まされない、そんな自分にとって都合の良い言葉。喋れない和泉は格好の相手だったのか。心の底で燻るトラウマの発端となった些細な事件がいまだ嶋野を迷わせていた。
障害と言う個性やマイノリティは、結局のところ他者の同情に繋がる。優しさは差別から生まれる。哀れみは侮蔑にも通じる。元々は五体満足だっただけに、今の自分に不満があるのは理解出来る。あぁ、そうかも知れない。初めてジョンに会ったときのきくと同じように、自分は、自分よりも弱い何かを見て、安心を得たいだけのかも知れない。最低だ。
「??」
和泉の顔には困った表情がぶら下がっていた。嶋野の瞳からは止め処なく涙が溢れてくる。声を出しても、涙の勢いが強まるだけ。誰もいない沿岸をまだ歩いていた所為もあり、誰も憚らずに泣ける事は幸いだった。
「ごめんなさい、ごめん……少しだけ、少しだけ」
少しだけ泣かせて欲しい。と訴えた嶋野は急に生まれてきた罪悪感に耐え切れず膝を折ると、ただ無言を貫くしかない和泉の顔を指の隙間から睨み付けた。そこには否定も、拒絶も、蔑視もない代わりに、慰めの言葉もない聾者がやはり困ったように佇んでいるだけだった。
今回はなんか趣が違う。初期のプロットからは逸脱したが、まぁ、予定した結末に近いところに着地したから良いけど。時代考証やその他の設定は好い加減なので、戸籍の再発行とかなりすましとかが可能かどうかは分かりませんので、悪しからず。