雨のち、虹。
私が、人を好きになれなくなったのは、いつからだろう。
ふとそんなことが、脳裏を掠めた。
大学に入って、実家から離れて暮らすようになってから? いや、もっと前? いっそ、生まれた時から? いや、違う。きっと、好きになれる人が現れないからだ。……なんて思って、これじゃあまるで、結婚できない人の言い訳みたいじゃないかとぞっとする。
「えー! 絶対そうでしょ!」
「違うんだって! ちょ、お前らマジで」
あぁ、うるさい。
男と女が寄り集まったら、どうしてこんなにうるさくなるんだろう。研究したら、何か新しい物質でも見つかるだろうか。例えば、興奮作用があるやつとか。
馬鹿みたい。
ちょっと女の子に優しくされたからって、あんなだらしない顔しちゃって。
どうせ、「そう」なのか「違う」のかも、どうでも良いんでしょ。
中身のない会話をだらだら続けちゃう作用なんかも、もしかしたら含まれているのかも知れない。
「好きなんでしょー。早く言っちゃいなよー」
通り過ぎても、まだ声が聞こえる。
聞きたくなくて、少し足を速める。
次の授業は、5号館だ。遠い。
そう、聞きたくないとかじゃなくて、遠いから。遠いから急いでるだけ。
と、頭に何か冷たいものが落ちてきた気がした。
見上げると、分厚い雲。灰色のそれは、初めは我慢しながら少しずつ、でもすぐに我慢の限界を超えたかのように、滴を落とし始めた。
……泣きたいのは、こっちだし。
突然の雨でさえ何かのイベントにしてしまう周りの人たちは、歓声だか悲鳴だか分からないような声を上げて、一目散に建物に入って行った。
5号館は遠い。
「あの、」
「え?」
急に声を掛けられて、私は慌てて振り向く。
「びっくりさせたならすんません。えっと……濡れますよ?」
例えば、男と女が寄り集まったら出来る何かの物質があるとして、でもそれはきっと、新しいものなんかじゃない。
「あ、あの、そんなにびっくりしましたか?」
昔からあった物質で、それを、ただあいまいな言い方でごまかしてるだけ。
「ごめんなさい、大丈夫」
「濡れてますよ。このままじゃ、教室はエアコン入ってるし、風邪ひきます」
大きな影が、私を雨から守ってくれている。
「あの、でも、」
「この傘折りたたみで狭いですけど、良かったら」
とりあえず屋根あるとこに行きませんか。という彼の提案により、私たちは、庇のある棟の前まで来た。
「着きましたね」
「着きましたけど……」
互いの姿を見て、どちらからともなく噴き出す。
私は雨の中立っていたせいで、彼は私を傘に入れてくれたせいで、どちらもびしょ濡れだ。これじゃあ中に入れない。
「すみません、私のせいで」
「いや、俺が好きでやっただけだから」
好き、という単語。
それを耳にしただけで、こんなに固まってしまうなんて。
「あの。俺ら、たまに授業被ってますよね?」
はい、と言えなかった。
あんなにたくさん人がいる教室で一緒かどうかなんて、知っていて不自然じゃないか、なんて、そんなことが気になった。
「あー、ごめんなさい、知らないか。知らないよな。あんな大勢いる中で」
「知ってる」
「え」
「あなたと同じ授業があるのも、あなたに好きな人がいることも」
言ってから、しまった、と思った。
これじゃあただの不審者だ。気持ち悪いストーカーだ。
「聞こえてたのか……」
居心地悪そうに頭を掻く彼に、私はどこかが痛むのを感じた。
そう。彼には好きな人がいる。
華やかなグループの、あの中の、誰か。
「ごめんなさ……」
「待って」
逃げたかった。この場から、彼の前から、一刻も早く逃げ出したかった。
「待って」
落ち着いた、彼の声が届く。
「俺……その、嫌われてんのかな」
「へ?」
嫌われ? 誰に? 人気者の、この人が?
「いや、君に、嫌われてるのかな、って」
「そんなことないっ」
自分でも驚くほど早く、声が出ていた。
「……いや、だって、聞こえてたんだよね?」
「何が?」
「俺の好きな人が、君だって」
え?
「ちょ、ちょっと、冗談やめてよ。励まして欲しいとか誰も頼んでないし」
「本気なんだけど、俺」
本気なんだよ、と呟くように言った彼の目は、確かに真剣だった。
「私、でも、私……」
どうしたら良いのか、分からない。
私は彼が好き。そんなの、随分前から分かってたこと。
人気者の彼がこっちを向くなんて、ありえないと思ってた。だから、私に恋は出来ない、って、私に好きな人なんかいないって、
「嫌いかな、俺のこと」
「きらいじゃ、ない」
「そっか」
良かった。
そう呟く彼の目は、しかし下を向いていた。
濡れた前髪から、滴が落ちる。
「好き」
「……え?」
「ずっと前から」
「嘘」
「本当」
私は、濡れた髪を振り払うようにして、顔を上げた。
「好き」
不思議だった。
この、たったひとつの単語を口にするだけで、今まで抑え込んでいた気持ちが、放たれていくのが分かった。
「ありがとう」
彼は照れたように私から顔を背け、空を見上げた。
雲の隙間から、光が真っ直ぐに差し込んでいる。
「へっくしょい!」
「だ、大丈夫?!」
彼の盛大なくしゃみに、慌ててハンカチを取り出すと、それも雨でびしょびしょになっていた。
「ふふふ」
「あははっ」
何もないはずの日常が、こんなに楽しくなるなんて。
「とりあえず、中入ろっか」
折りたたみ傘を畳んで、彼が言う。
「うん」
きっと、もうすぐ虹が出る。