平和
目覚まし時計が鳴る前に、朝の日差しで目が覚めた。コーヒーのにおいがして、下の階から妻と子供たちの声が聞こえた。
‘ハンナ、パパを起こしてきて’
と、妻デボラがいうと、階段を元気よく駆け上る足音がして、娘のハンナがおはようの挨拶代わりに私の腹に飛び乗り
‘パパ起きて!!’
と叫んだ。
私はハンナを抱き上げ彼女の鼻を軽くつまむと、そのまま階段を下りていった。
デボラは私のもとへ来るとハンナをキッチンへ向かわせ、私に声をひそめて話した。
‘お隣のクインランさんの家から、昨日も男の怒鳴り声が聞こえたのよ。女の人の声も聞こえていたんだけど、そのうちぱったり聞こえなくなったの。もしかして、クインランさんの奥さん、DVでも受けているんじゃないかしら。私、それも心配だけど、ハンナにもその声が聞こえてしまうんじゃないかって気が気じゃなくて・・’
私もその事に関しては前から知っていた。しかし、クインラン夫妻はいつ見ても仲むつまじそうであったし、どちらかといえば夫人の方が強い印象さえあった。
‘ところであなた、最近食欲がないみたいだから、朝食は軽めでいいかしら?’
‘ああ、今日はコーヒーだけでいいよ’
‘そう?もう少ししても食欲が出ないようなら、一度お医者様にみていただいた方がいいんじゃない?’
‘大丈夫だよ、ありがとうデボラ。でも僕は医者だから平気さ。自分で診察でもなんでもできるよ。そうは言っても、僕は外科医だけどね。’
デボラは笑って、そうね、でも心配だからどこかおかしいところがあればすぐに言って、と言った。
デボラとハンナからいってらっしゃいのキスをもらい、私は仕事場へ向かった。
‘フェリス先生、診察の方が見えたのですが・・・’
看護師の様子がおかしかったが、私はいつものように患者を診察室へ通した。
患者を見ると、顔がこわばり、攻撃的とも怯えたともとれる表情をしていた。特にどこも怪我をしているようではなかった。私は彼女に尋ねた。
‘どうなさいましたか?’
彼女は少し震えていたが上に着ていたものをすべて脱いでみせた。
全身がアザだらけで、切り傷、その他火傷の跡、化膿した部分もあった。
その時、ふと私はこの女性に見覚えがあることに気づいた。
‘ヴォリスさんですか・・・?’
彼女は小さく頷いた。
ヴォリス一家は、私たちフェリス家の隣に住むクインラン家の使用人である。
夫のゲイリーは、多少うさんくさそうではあるが陽気な男で、妻モイラは物静かな女であった。
私は今朝デボラが言った事を思い出した。DVを受けていたのはクインラン夫人ではなく、使用人のヴォリス夫人であるかもしれない。
私はヴォリス夫人に詳しく事情を聞き出そうと思ったが、隣人の使用人のことにクインラン夫妻に相談もなく口を挟むべきでないと思ったし、次の患者が控えているので、今は一度治療をして帰すことにした。
家に帰ると、またデボラが今朝の話を持ち出した。今日の病院での事を話そうか迷ったが、
‘本当にDVかもしれない。でも、まだはっきりしたことではないから、よそではその話をしないほうがよい’とだけ言い、後は他愛のない話をした。
実は、あまり関わりたくなかったのだ。たかが使用人のこと、と思っていたわけではない。まして、関心がなかったわけでもない。今日見たヴォリス夫人の傷があまりにも生々しすぎたのだろうか。彼女の傷は何故か私を不安な気持ちにさせた。外科医であるのに情けないことだ。
数日後
娘が、私たちの寝室へ入ってきた。
‘パパ、ママ、眠れないの。’
‘どうしたの?ハンナ。怖い夢でも見たの?’
‘うん、男の人がね、怒鳴りながら追いかけてくる夢を見たの。’
私はデボラと顔を見合わせた。泣きながら私にしがみつく娘を見て、私は、クインラン夫妻にヴォリス夫妻の問題を伝えてみることにした。愛娘の安らかな眠りを妨げられては、もはや知らぬふりはできない。デボラもそれに賛同した。
私たちは、その週末にクインラン夫妻を食事に誘った。万が一の時に備え、私たちの自宅で夕食会を開いた。また怒鳴り声が聞こえたらすぐに駆けつけられるだろう。
楽しい談笑の後、私は改まってクインラン夫妻にヴォリス一家について話した。
‘あなたたちにも聞こえただろうか、ゲイリーの怒鳴り声とモイラのすすり泣く声が。もう何週間と続いている。何か知らないかい?’
クインラン夫妻は一瞬凍りついた。夫人はわざとらしくワインを自分のドレスへこぼし、
‘カーペットが汚れていなければよいのだけれど・・あぁ、ごめんなさい。’
と、ことさら慌ててみせた。夫君の方はというと、違和感のあるほどに無反応であり、まったく彼らはよく働く、君も使用人を雇えばどうかね、などと違う話を持ち出した。
なぜクインラン夫妻がこのような態度をとるのかは私の知るところではない。何にせよ、私はただヴォリス一家の言い争う声さえなくなればよいと考えた。娘にはその声を聞かせたくない。
‘私には詳しい事情はわからない。でも、私の娘がその声に怯えているんだ。もしその声がいつまでも止むことがなければ、嫌でも警察に相談しなければならない。とにかく、早く止めさせるようにしてくれ。頼んだよ。’
少し強い口調で言った。
クインラン夫妻はわけがわからぬという顔をしたが、最後には‘わかったよ、僕の方でも調べてみるさ。’
と言った。
クインラン夫妻の態度が不思議であった。妻も違和感を覚えていた。妻はぼそりと言った。
‘本当は、クインラン夫君が婦人を・・。’
私は聞かぬふりをした。クインラン夫君が、学生の頃より弟のようにかわいがっていたあの素直なスティーブが、女性を殴るなどということは信じられなかった。
ハンナが階下へおりてきた。
‘声がして眠れないの。’
私はハンナを抱き上げ、デボラがハンナのおでこにキスをした。‘大丈夫、パパとママと一緒に寝よう。それなら怖くないだろう?’
声が聞こえてきた。男の怒鳴り声と女の泣く声が。
その声をなんとかハンナに聞かせまいと、私はデボラとともに昔話を読んでやった。午前3時ごろ、ハンナはようやく眠りについた。その寝顔は、私がどうしても守りたいものであった。
金曜日の午後、ハンナが学校から帰ってくるころ、私の病院に電話があった。ハンナが右腕に大きなあざを作って帰ってきたのだそうだ。私は大急ぎで家に帰った。だいぶ落ち着いた様子であったが、ハンナの目には、まだ涙が残っていた。
‘一体何があったんだ、ハンナ?誰かにやられたのか?’
‘あなた、さっきから何度も聞いてみたのだけれど、この子なんにも答えないの。何があったかはわからないけれど、たぶんショックだったのよ。今はそっとしておいてあげましょう。’
ハンナは最後まで口を閉ざしたままだった。しかし、目は怯えたようにカッと見開いたままであった。
その夜、私は珍しく夢を見た。おぞましく、生々しい夢であった。夜であるのに、部屋の中は昼のような明るさで電飾かなにかがキラキラしていた。奥にあるハンナの部屋だけが妙にくすんで見えた。ハンナの部屋からは、不気味なほど何者の気配もせず、むしろ誰かが息を殺して無理くりに気配を消しているような、不自然な静けさがあった。私は扉を開けようとした。その時後ろから突然頭を殴られ、動けなくなっている横を誰かが通り過ぎ、同時にハンナの部屋の扉が開いた。ハンナは椅子に縛り付けられ、口を塞がれていた。腕にはあざがあった。男はハンナの頭に銃口を向け、ゆっくりとこちらを向いた。
影で奴の顔が見えない。
‘誰だ!娘を解放しろ!’
叫んではみたが、声も出せず体もぴくりとも動かなかった。
男は、まず娘の腕を、次に脚を、耳を、肩を、顎を撃った。娘はとうに意識を失っているようすであるのに男は娘をいたぶり続けた。男は泣いているようであった。
そこで目が覚めた。尋常でないほど気分が悪かった。今日は仕事を休もうかとさえ思った。
相変わらずヴォリス夫妻、もしくはクインラン夫妻の争う声に怯えて、ハンナは私の隣で眠っていた。
私はキッチンへ行き、薬を飲んだ。まだ午前3時であった。
次の朝、重い気分と体をなんとか奮い起こし仕事へ出かけた。妻も昨夜はよく眠れなかったらしく、少し顔色が悪かった。
‘あなた、今日もお仕事頑張ってね。私、ハンナを連れて公園にでも行ってくるわ。良いお天気だし、土曜日だしね。’
‘そうだね、あんなことがあった後だから気分転換させてやろう。’
その時、ハンナくらいの年頃の少女がこちらを見ていることに気づいた。クインラン家の庭から無表情で見ていた。
‘パパ!今日はママとピクニックなの!’
‘いっぱい楽しんでおいで。パパにもピクニックのお話を聞かせておくれ。’
ふと横を見ると、もうその少女は消えていた。クインラン夫妻には子どもはいないはずだ。では、あの子はヴォリス夫妻の子だろうか。
仕事から帰ると、妻が怒り狂いながら私に何かを話した。興奮しすぎていて、何を言っているのわからなかった。
‘落ち着くんだ、デボラ。何があった?’
デボラによると、ハンナを公園へ連れて行った時に、ハンナがまた怪我をしたというのだ。ハンナは滑り台で遊んでいた。デボラはランチボックスを取り出そうとし、ハンナから一瞬目を離した。突然、ハンナの叫び声が耳に入り、デボラがかけつけると、額に切り傷を作ったハンナが滑り台の下で泣いていた。誰か周りに人がいないか確認すると、一人の少女がこちらを見ていたが、デボラと目が合った瞬間彼女はまるで逃げるかのように駆け出したというのだ。デボラはとっさに、ハンナの額の傷はあの少女の仕業だと考え、彼女を追いかけた。すんでのところで逃げられたそうだが、デボラは、その少女がクインラン家の敷地内に逃げ込んだかもしれないと思った。その少女が着ていたワンピースのオレンジ色が、ちらりとクインラン家の植木の影に見えたからだそうだ。
幸い、額の傷は数日もすれば消えてしまうような小さなものであった。私は、その少女はハンナと同じくらいの歳かどうかをデボラに確認しようとした。前に見た、クインラン家からこちらを覗き込んでいた少女を思い出したのだ。しかし、デボラは頭に血がのぼっていた。
‘もうたくさんよ!あそこの家は絶対におかしいわ!クインラン夫人がDVを受けているなんてどうでもいいの。でもうちのハンナに危害が及んでるのよ!あなたどうにかして!’
私はまず妻を落ち着かせようとした。だが、私も妻と同感だった。DVの疑惑があるヴォオリス夫妻、それを隠そうとしている様子のクインラン夫妻、さらに、得体の知れないハンナと同じくらいの歳の少女・・・。
私は妻にも言わず、隣のクインラン家とヴォオリス家をしばらく観察することにした。