第十六話
SAN値30%まで低下! DANGERゾーンに突入です。
いかん、これ以上は本当にまずい!
なんだかホラーになりかかっているね……
エレイシアの深い眠りには紅玉が大いに関係している。
紅玉は伝承に伝えられているような形質ではあるが、その本質は魔力の流れを操ることにある。
まず一つ、大気中に漂う魔素を魔力へと変換し、体内へと無尽蔵に取り込んでいく。なので魔力が自然に体外へと発散される量より多いために大抵は目を閉じていなければならない。
つまり睡眠だ。こうすることでエレイシアは本能的に自分の身体を守っているのだ。
もう一つの能力、それは取り込んだ魔力の記憶を『読み取る』。
取り込んだ魔力がどういった経緯で使われたかを理解する力が紅玉の恩恵。魔力の過剰摂取は単なる副産物に過ぎないように思えるほどの力。
クリムでさえ賛美するに値する能力。
眠れる小さな獅子は今ここでゆっくりと瞼を開ける。
感じるのは親しみ慣れた母の温もり。視界に映るのは自分にとって仲間であり母と同質に親愛をもてる友達。その友達に脅威を振おうとする悪意の塊そのものな女性。
友達が一匹、傷を負い苦しそうな顔をしている事に胸を痛めつつ、エレイシアは静かな怒りを胸へ膨らませていく。
その感情に呼応したのか、エレイシアの胸から熱い力が湧きあがってくる。状況を全て理解した訳ではないが、エレイシアにとって目の前の『嫌な奴』を懲らしめるべく、感情のまま念じた。すると胸に秘める熱い力がさらに輝きを増していく。
小さな獅子からの助けに応じた『彼ら』は一斉に敵と見なした存在へと迫っていった。
◆◇◆◇
私は目の前の光景をそのまま見ていた。それは妖精達がカサンドラによってこま切れにされる物ではありません。
「…なによ、これ?」
爪が振われる直前の体勢でカサンドラは止まっている。いえ、止められていた。
カサンドラの右手にはきつく巻きついていく樹の根があった。それは突如として地面から意思があるように生えてきて一瞬にしてカサンドラの右手を拘束したんです。
「エレイ、シア…?」
私は抱いているエレイシアの顔を覗いてみる。ここでようやく気付いたのですが、何故だかとてつもなくエレイシアが『熱かった』。まるで産着で包んだ焼き石を持つくらいにとてもではないですが熱いんです。
そうして覗いてみたエレイシアの顔は目を見開いており、じっとカサンドラの方を見つめている。
「あら? あらあら? もしかしてその子――」
対して、カサンドラはこの状況を作り上げている存在がエレイシアと感覚的に理解したのか、同じようにエレイシアへと視線を向けた。ここでエレイシアに関して何かに気付いたらしく、言葉を呟こうとした次の瞬間――
「だっ!」
――エレイシアが一言、赤ん坊なりの力強い叫び声を上げるや、カサンドラの周りから複数の樹の根が生えてくる。生き物のように蠢く樹の根は一つ、また一つとカサンドラへと向かっていき、身体の箇所を縛り上げていく。
「えっ、ぁ…ちょっとまっ――!!」
さすがのカサンドラも予想外な出来事になす術なく、樹の根に体中を縛り上げられていく。
「あぁんひどおい! でもこれはこれで――っ!!」
幾重にも樹の根は重なり合い、拘束を続けていくや、最後にはとぐろを巻いた樹の根によるオブジェが完成した。拘束されたカサンドラにとっては牢屋ではありますが…。
これに私は唖然とした。ですが、はっと意識を取り戻して立ち上がり、妖精達の元へと駆け寄った。
「ヤン、しっかりして!」
エレイシアを落とさず、ヤンを手で掬い上げる。妖精は人間と違って血は無い。その代わり、何か煌く物が靄のように傷口から止めどなく流れ続けている。
クリムさんから聞いたことがある。妖精は精霊の一種であり、その構成物は霊的物質であると。恐らくヤンの身体から漏れ出しているのが霊的物質なんでしょう。
これがすべて無くなってしまえばどうなることか…。魔術と魔導の知識に疎い私でさえその結末は容易に想像できた。
「あぁ、どうしよう…」
人間の怪我に対する応急手当程度ならば知っているのですが、妖精の治し方など皆無だ。ましてや、あからさまに重症と判断できる怪我に私はなす術がなかった。
「クリム知ってる!」
「クリム治せる!」
同じく心配そうに見守っていたボーとキキが口々に言った。まだ希望はあると言わんばかりの口調ですが、肝心のクリムさんは今はいない。
じっとしているのとでは可能性は違ってくる。あれこれ考えるよりも家へ戻る事を優先に決めた。妖精達に道案内を頼んで少し痺れた足を奮い立たせ――
「弱いの…」
――そこへ唐突にカサンドラの声が後ろから聞こえてくる。
私は息を止めつつ、ゆっくりと首を後ろへと回した。視線の先にあるのは先ほどと変わらぬ樹の根のオブジェ。
「こんなんじゃ足りない…」
再びカサンドラの声が聞こえてくる。樹の根越しから喋っているようだ。
「拘束プレイをするなら私、鎖じゃないと満足できないの」
その瞬間、樹の根のオブジェが内側から何か所も盛り上がって亀裂を作る。
「放置プレイもいいけど、焦らされるなんて我慢できないわ」
さらに衝撃が響くと先ほどの亀裂から何かが出てくる。
毛をびっしりと生やした丸太ほどの堅固な装甲に覆われた太い脚。
亀裂を作り上げた部分からは同じ脚が次々と飛び出す。
「…頂戴」
樹の根のオブジェが全体を縦に割るよう亀裂が走っていく。
「もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっとおぉぉぉっ!!」
最後に縦の亀裂から人間独特の肌色の手が出てきて引き戸を開けるように力を込めて開かれ、
「私にっ! 痛みをっ! ぢょ"う"だあ"ぃ"ぃ"ぃ"っ!!!!!」
樹の根のオブジェは完全に破壊され、中から巨大な存在が現れた。
その姿は見るにもおぞましい物。
人間の女性の上半身と巨大な蜘蛛の体が繋ぎ合わされた美と醜悪が混合した容姿。美の部分となる女性の体も顔には額に沿って対称に計八つの赤褐色の眼球を覗かせる。口は耳元まで裂けており、開いた口から覗かせるびっしりと生やした細くて鋭い牙が恐怖心をさらにそそった。
「あハはハはははハはハハははっ!! たのしい、キもちイイワ! まだまだ遊びましょおぉぉぉっ!!」
狂喜に満ちた笑い声が森中を響かせていく。私は後ずさりしながらカサンドラの正体を頭の中で引き出した。
アルケニー――。
女性と蜘蛛の体を混ぜ合わせた姿が特徴的であり、魔物の中でも上位種として恐れられている。その強さはかつて私の住んでいた国の一隊百人強である騎士団をも葬ったと伝えられていた。ですが、深い部分を知る私はさらにおぞましい事実を知っている。
先ほど説明したアルケニーの実力は飽くまで平均的であることを…。
最悪な事実として何百年か昔、一個師団をも壊滅させたアルケニーの長であるアルケニークイーンという魔物がいることも…。
こう思えばシェリーの行動は単純明快。
――逃げる。ただひたすら逃げるっ!
ボーとキキもこの場の壮絶な危機感を察したことにより、私共々この場から去ろうとする。
ですが、私達よりも早くカサンドラは自身の屈強な六本の脚を器用に動かして信じられないスピードで私達の目の前へと回り込んできた。
「ねぇ頂戴っ!? その赤ん坊私に頂戴っ! とっても美味しそうなのっ! 体液をじゅるじゅる啜ってみたいのぉっ!!」
「い、いやっ!」
自分でも信じられないくらいの反射神経を以って和足はカサンドラの横を通り抜けようと俊敏な動きをする。それでも、カサンドラの方が能力的に上。後ろを向いた状態の私の背中目掛けて脚を槍のように突き刺そうと図った。鉤付きの鋭い爪が付いたその脚で…。
「あいっ!」
「えっ、何? ひゃあぁぁぁぁっ!!」
その危機を感じたのかは定かではありません。エレイシアが力強く声を出すと私の身体は浮遊感に包まれた。この感覚を知っている。クリムさんが自分によく使った空中浮遊の魔導だ。
――まさか、エレイシアも使えるの!?
驚愕を隠せられずにいた。
そのまま身体が浮かび上がると、私は引っ張られるようにして前へと空中で進んでいく。その際、放たれたカサンドラの脚は私の服をかすめて破れた布地の一部を残していく。
「えぇーすっごおぉいっ! あはは、あはハははハハははははっ! おにごっこ、おにごっこなのね!? まてまて~捕まえちゃうぞぉ~っ!」
狂喜で顔を歪めたカサンドラが高速で遠のいていく私達を追い始めた。六本の脚が大地をあがち、爆発的な推進力を以ってして追跡してくる。
「あわわわわあっ!」
一方、なすがままに森の中を滑空して進んでいく私は高速で迫ってくる障害物――樹林――に恐れていた。そこはエレイシアが本能的に危機回避として避けているのですが、今にも当たりそうというギリギリの体験は私にはきつかった。
「まずいまずいっ!」
「きたきたっ!」
エレイシアの産着に隠れて私の肩から乗り上げるよう後ろを見ているボーとキキは目の前の光景に焦っている。
「待ってぇっ! 一緒に遊びましょうよおぉぉぉぉっ! 私達お友達じゃないあはハははハはははははっ!!」
冷静に考えればこんなのをお友達とは呼ばないと断固否定したかったんですが、あんな相手に説得だなんて手段を取るのは自殺行為であることは明白でした。
樹林を通過するごとにエレイシアによって樹の根が生えて私達が通った場所を塞ぐように壁を作り上げていくが、カサンドラは張りぼてを壊すがごとく簡単に通過していく。ですが、スピードが落ちて距離を縮めてきているのは確かだった。決して無駄なんかじゃない。
――いけるっ! これならこのまま逃げ切れる!
その思いに応じるように私達の視界の奥にはついに家が見えてきた。このまま私達は家の領域となる庭へと入っていき、
無数の『糸』に体を絡めとられたのだった。
「きゃあっ!」
とてつもなく丈夫で伸縮性に富んだ透明な糸は私達の身体を優しく包み込むように前へと進む勢いを削いでいく。
「これは、そんな…」
「そうよぉっ、こんなこともあろうかと家の周りを私の糸で張り巡らせていたのぉ…」
身体に纏わりつく糸の正体を私が分析する前にすぐ後ろからカサンドラの声が聞こえた。
「だっ! あいっ! ぅぅぅ…」
「無駄よおチビちゃん、その程度の魔力じゃ私の糸は千切れないわ」
エレイシアが何かしようとしているものの、何の変化も起きない。カサンドラは知っている様子ですが、とにかくこうなった以上、私は自分で動く事に切り替える。幸い脚はまだ動ける。必死に絡まった糸を剥がし落としていく。
この時、なぜかカサンドラは手を出さずにいた。
「まだ頑張るのねぇ…くすくす、でももうおしまい」
ようやく動けるようになったところでシェリーは足を一歩踏み出そうとした。でも、出来ませんでした。突如として身体から力が抜けて地面に横たわってしまったのです。
「はい、時間切れー!」
「あ、あれ…どう…して……」
「やっと私の毒が廻ってきたのね? 時間ピッタリ!」
嬉しそうにカサンドラは喜んでいるが、私には疑問だった。毒などいつ喰らったのか見当が付かないからだ。先ほど脚をかすめたが、皮膚に傷は無い。毒など喰らう筈がないのだ。
ならば何故? ひょっとして微小で空気中に漂うようなタイプでそれを吸い込んだ?
様々な憶測が飛び交うが、家を見るやこの原因を唐突に思い出した。
――そうだ、手を舐められた!
おそらく、その時に唾液に含まれた毒が皮膚を通して自分の身体の中へと入ったんでしょう。なんという事、自分は最初からカサンドラの手中で転がされていたんですね。
カサンドラは近づき、人間部分の手で動けない私からエレイシアを奪い取った。取り返そうとするものの、身体だけがどうしても動かない。おそらく神経毒の類。
「やめてっ! エレイシアには、エレイシアには手を出さないでっ!」
声だけ必死に叫びますが、カサンドラは興味なしと言わんばかりに掴んだエレイシアをじっくりと見つめている。
「綺麗な紅玉…長く生きててこんな珍品に巡り合えるのはなんて奇跡なのかしら」
カサンドラの八つの視線はエレイシアの目――紅玉――に注がれている。
「あらあら、魔力が使えなくて不思議に思っているのね? 私の糸は絡め取った者の魔力を吸収する力がある…っておチビちゃんに言っても分かんないかしらね?」
エレイシアがカサンドラに睨むような目つきを向けているが、どうする事もできなくなって悔しいのか、嗚咽を徐々に漏らして泣きだした。
「うふふ、かわいい泣き声…やっぱり子供はいいわぁ。だって――」
やけに長い舌で舌舐めずりするカサンドラ。
「――お肉や血が新鮮で柔らかいんだもの…」
そう言ってカサンドラは耳まで裂けた口を大きく開けた。細くて鋭い数多くの牙の先がエレイシアへと唾液で濡らしながら向けられていく。
「やめてえぇぇぇっ!! 私をっ! 私の方にしてっ! エレイシアを殺さないでえぇぇぇっ!!」
私は半狂乱になりながら叫ぶ。今すぐにでもカサンドラに飛び掛かりたいが、身体に廻った毒はそんな私の思いを無得に扱うように自由を奪った。
このままではエレイシアはカサンドラの食事へとなり下がってしまう。
私が、妖精達が、エレイシアが、カサンドラまでもがその事実を肯定していた時だった。
森の『ざわめき』が消えた――。
この異変に真っ先に気が付いたのはカサンドラ。口へとエレイシアを運ぼうとしていた手を止めてゆっくりと開けていた口を閉じ、沈黙に興ずる。
すると、かたかたと身体が震えた。寒さではない。
――これは、恐怖っ!
「……来た」
ポツリとそう一言呟くや、果てしなく続く青空、いや青空の向こう側をカサンドラは見つめた。
「来たのね…」
無表情のままどこか遠くをしばらく見つめている。
「来た来た来た来た来た来たキタ来タ来たキたあいつが来たっ! 帰ってきたっ!!」
突如として嬉しいような、威嚇をするような口調で声を荒げて発した。
私は今だカサンドラの手に握られているエレイシアを気にかけていましたが、気が逸れてしまうくらいにカサンドラの今の様子は刺激的でした。まるで長年の怨敵か待ち遠しい恋人がやってくるのを待つかのようにカサンドラの姿は興奮に満ち溢れている。
「さぁ今度こそ私を殺してみてっ! あなたのその手で私の頭を、心臓を抉ってみせてっ! あぁ待ち遠しい、待ち遠しい待ち遠しい待ち遠しいっ! あなたは私の物よ、誰にも渡さないわ、だから同じように私はあなたの物なのっ! さぁさぁさぁ私を愛でて、愛して頂戴!!」
暴風のごとく狂喜に満ち溢れた声で言葉がカサンドラの口から発せられていく。まるで目の前に話相手がいるかのようだ。私はこれまで以上にこの様子を気色悪いと感じた。
――あの人が…帰ってくる。
次からクリム視点変更です。