第十五話
果てしなく続く赤みを帯びし霧に包まれる森。
正体は広大な結界魔導なり。
侵す者には幻覚による悠久の回廊と化す異界。
先にあるのは膨大な知識を得てもなお更なる知識を渇望する者――魔導士――が支配す領域。
許される者は次の条件を果たす者のみ。
魔導士に認められ招待されし者――。
結界の力に打ち勝ちし者――。
この二つこそが資格を得る条件。
力無き者は即刻立ち去ることを望む。
されど試練に打ち勝ちし者には森の支配者への謁見の資格を授からん。
しかし心せよ、この先に待つのは栄光か、はたまた絶望か…。
それは汝の運命のみが知らせるであろう。
『伝承学――古き樹海に存在せし聖域』
◆◇◆◇
私は逃げた。決して振り返らず、森の樹林を避けて前へと進んでいく。
「待ちなさ~い、どこへ逃げるつもりなの~?」
声が聞こえてくる。方向など分からず、森中から響くように私を呼んでいる。
「うふふ、私鬼ごっこは得意よ? もちろん追う方よ。あなたならどこまで逃げれるのかしら?」
「お前の行く場所など私は知っているぞ」と暗に伝える女性の声が私の恐怖心を煽っていく。全力で駆けているのはもちろん、精神的な負担でも私の息はますます荒さを増していった。
でも足を止めない。いいえ、止めてはならない。振り向くことさえ御法度。私は今、見た事も無い怪物に追われている身と言えた。わざわざ捕まる隙を与えられては一生の終わり。
この森に入るのはもうお薦めしないとクリムさんに言われていましたが、女性から逃げるための道はここしかなかった。魔力分解能力者であるからこそ、私は森の結界を破壊した事でクリムさんの元へと辿りつけた。
ですが、今はクリムさんから貰った魔導具によって能力は最低限の範囲でしか発生する事はない。いわば私は一般人となんら変わりない状態でこの森を動き回っている。それでも結界の魔導に付加された幻覚魔導が効力を成さないのはこの魔導具のおかげではありますが、前回のように結界自体を壊す事は出来なくなっていた。
「…あれ、ここってどこ?」
この時、私は実は結界の効力は一つだけではない事をまだ聞いていなかった。幻覚の他に『障害』の魔導と呼ばれる物もかけてあったんです。これはある一定の行動を取らない限り、延々と別の道をさ迷うように効力を生ずる。名称づければいわばループ地獄と呼べる代物です。正しい順序の道をくぐらない限り出口はおろか入り口さえたどり着くことはない。
妖精の里へ行く際はクリムさんが一時的に結界を解いて進んだから説明など必要がないために聞くことは無かった。私に付いている魔導具がこうした中途半端な要因が重なって森をさ迷いの森へと変貌させていた事に今の私には知る由もなかった。
「くすくすくす…もういーかーい?」
行く末が分からなくなり完全に迷った私は女性の無邪気そうな声を聞いて怯えている。どうしようと思い悩んでも状況を打破する術を私は持っていない。
どこからか落ち葉を踏みしめる音が聞こえてくる。もちろん自分のではありません。今すぐ叫びたい気持ちを我慢しながら私は周りを見渡した。
ここで幹のうろが捲れ上がった樹洞を見つける。一か八かをかけて私は大急ぎで樹洞へと隠れるべく入っていきました。大きさは人一人がすっぽりと入る物。そこで私は息を殺して様子を見守った。
ただ心配なのがエレイシアがこの瞬間で目を覚ましてしまわないかという事でした。そういえば自分の娘ながら良く寝る子だと思ってはいましたが、今はエレイシアの状態を幸運だと感じた。
「あらあら、次はかくれんぼかしら?」
エレイシアの様子を確認していた所で女性の声がどこからか聞こえてくる。これに私は一瞬ビクッと身を震わせましたが、息を止めてなんとか落ち着かせた。足跡が不気味に響く中、私は動悸を落ち着かせようと必死だった。身体が酸素を欲していながら呼吸音も小さくしなければならないのでかなりの難業でもあった。
ですが、私はやり遂げようとこれ以上にないほど集中する。失敗は許されないからです。
「まずは、ここかしら? 残念、は~ずれ!」
足音が近づいたり遠ざかったりと比例して私の動悸は強くなったり弱くなったりと大忙しだった。女性は一つ一つと場所を探しまわっているらしい。
私は心の中で「早く行け! 早く行け!」と必死に念じた。女性が諦めてくれるのを必死に願った。願わくばクリムさんが自分のことを探し出してくれないかと切望もした。
「おかしいわねぇ…確かにここら辺だった気がするのよねぇ……」
女性の声だけが無情に響いてくる。足音がしだいに遠ざかって行くのが聞こえてくる。
――まだ待たなくてはいけない。完全に、完全に…。
追跡者は諦めた訳ではない。場所を移動するだけ、だけどそれが今の私にとってはどれほど嬉しいことか…。耳を研ぎ澄まして女性の足音が完全に聞こえなくなるまで待ち続けた。
やがて、気のせいとは感じなくなる音量まで確認を終えた所でようやく隠れるのを止めた。
顔を樹洞から少し出して辺りをしっかりを見渡していく。誰もいない。あるのは良く見慣れた森の光景。助かった、救われた、とにかく安堵した。
それこそが『罠』だと知る由もなく…。
初めは私の視界に何気なく映った細い糸の束。死角ぎりぎりの視点にてかすかに見えて確かに存在する物。
私がゆっくりと目を上に動かしたところには――
「みーつっけた!」
――木にへばり付くよう足を付け、真横の体勢になりながら上から私を見つめる女性の姿がそこにあった。細い糸…それは女性の頭からだらんと垂れてくる『髪の毛』でした。
「いやあぁぁぁぁっ!!」
私はたまらず悲鳴を上げる。驚くというレベルではありません。幽霊の話を聞かせられる怪談よりも圧倒的に効果のある恐怖を実感させられました。
私はそのまま尻もちをついて抜けた腰を引きずりつつ後ずさった。
「あっはっはっはっ! 驚いた驚いたっ!」
女性は笑いながら木から飛び降りて地面に足を付けた。今度は真っ直ぐと垂直の体勢です。
「最高だったわぁ。あなたがビクビクと震えるさっきまでの様は…久しぶりに私もゾクゾクときちゃいそう。気持ちよくなっちゃう」
完全に私を女性は弄んでいた。女性はどうやら先ほどから実は私の居場所は既に分かっていたらしい。なのに恐怖を耐え忍ぶ私をじっくりと観察することに愉悦を見出し、この時まで眺めていたそうです。
なんて悪趣味な…。
なんとも嗜虐的趣向に忠実な女性なんでしょうか…。
「けどもう飽きたわ。そうねぇ…今度は」
女性は唐突に右手を前に出して私の方へと向けてきた。それも指先を向けて…。これに私は嫌な予感を感じて今いる場所をあらん限りの力で後ずさった。
その瞬間、私が先ほどまでいた地面が『抉れた』。
「あら? なかなか勘が鋭いのね?」
地面を抉った正体は女性の指先から伸びている鋭い黒の爪でした。女性が右手を引くように動かすと、伸びていた爪は一瞬にして元の長さに戻っていく。
「あなたは…いったい…誰、なの……」
震える声で私は女性に質問を投げかけた。自分の命を握られているにも等しいこの状況においても私が知りたい事だった。
「どうして…こんなっ!」
このような理不尽な目に合わせられるのを納得がいかない。私はさらに追及を迫ります。
「私を知りたいの? 私を知ることによってあなたは何を見せてくれるのかしら?」
女性は私の質問に何の気持ちも無く答えた。
「私の名はカサンドラ。それ以上も以下もない単なる魔物。あぁ今の姿は私の『擬態』の能力で人間の姿を取っているだけよ」
カサンドラ――。
その名前を聞いて私は数日前のクリムさんとライザさんの会話を思い出した。結局は何も聞けずただ危険な存在ということを認識させるだけの存在。
ですが、もはや認識の粋にとどまらず理解の範疇。
この女性――カサンドラ――は決して理解してはならない存在であった事を…。いいえ、理解することすらままならない。不可能なんです。
このような狂人を理解する度胸なんて私には持っていない。
「あと、どうしてこんなことをするかって質問…それはね?」
「楽しいからよっ!!」
カサンドラが答えてきた私の質問の答えはこの一文が強調する物言いで答えた。同時に私は地面へと縫いつけられる。カサンドラから伸ばされた爪で…。伸ばされた爪の軌道を辿るようにカサンドラは私へと近づいてきた。
「私はもっと知りたいわ。あなたの事を…その身体に流れる血潮の一滴から隅々へと…そして味わいたいの、骨の髄までしっかりと……」
何も知らない男ならば誰もが見惚れそうな頬笑みをして私の顔を見つめてくる。舌舐めずりをして恐怖で震える私の首筋に爪の一本を当てて軽く擦る。剃刀のように鋭利な爪が当たると私の身体はびくっと跳ねた。
「だからね、あなたを私の『コレクション』に加えてあげる。その姿を永遠に保てるよう剥製に変えるの…どう、素敵だと思わないかしら?」
「あ…あぁ…ぁ……」
逃げ出したい。けど身体が動きません。
金縛りにかかったように身体の熱が冷え切っていく。目の前のカサンドラに交渉など通じないのは明白でした。
ゆっくりと頭に手を添えられていく。嫌悪感がこみ上げる撫で方。
――終わった。
私がこの時考えた思考はこの一言。
「それじゃあまず――」
カサンドラから力が加わる寸前、カサンドラの眼前に何かが飛来してきた。その隙が私を救ったかは定かではありませんが、カサンドラからの拘束を抜けることに成功した。エレイシアを強く抱いてなるべくカサンドラから遠ざかろうとふらつきながら移動する。
その一方、カサンドラは目の前で騒がしく飛び回る存在を酷くうっとおしそうな顔をして手で叩き落そうと奮闘している。その様子を私は目を凝らしてみると、驚きの光景がそこにあった。
「シェリー助ける!」
「エレイシア虐めるな!」
「お前嫌い!」
何とボー、ヤン、キキがシェリー達を助けるべくここまで来てくれたんです。サンドラの視界と集中をかき乱すように周りを飛び回ったり髪を引っ張り上げたりと妨害を続けている。
「みんなっ!?」
これにはさすがの私も驚く。だが同時に無謀だと感じた。現にカサンドラは静かに怒りを溜めこんでいる。だめ、皆これ以上はいけない!
「この…子蠅があぁぁぁっ!!」
良いところを邪魔されたことで逆鱗に触れたのか、カサンドラはこれまでのお淑やかさを見せず、両手の爪を一気に伸ばして全方位に高速で振りまわした。その鋭さは迷いなし。絵に線を入れて切り取るかのように光景が割れた。爪の餌食となった物体は通り抜けた箇所から重力に従い、ずるりと落ちていく。
ですが妖精達は爪の餌食から逃れてくれました…が、三匹全員ではなく完全とは言い難かった。そのうちの一匹――ヤン――がその被害者。片腕が切れかかって羽は半分を失った無残な姿へとなり変わっていたのです。
地面へと墜ちて蹲るヤンを心配したボーとキキはすぐさま傍へと寄った。
「妖精風情が私の趣味を邪魔する、お頭の弱い下位ごときでもそれがどう意味するか…わからない訳がないでしょうね?」
その様子をカサンドラは笑顔を消して冷酷な眼差しで見下ろしている。
「…友達、守る!」
「…シェリー、エレイシア、友達!」
ですが、二匹はそんなカサンドラに強く立ち向かっている。身体は恐怖で震えているのに無理やり気丈に振舞っているのが私にも分かりました。
「そう、立派な友情なのね…」
カサンドラはそんな二匹の言葉に何を思ったのか、徐々に頬笑みを浮かべて――
「じゃあ死ね」
――残酷な死刑判決をして二匹へ向けて爪を振るおうとする。
「そんな、だめっ! やめてえぇぇぇっ!!」
私は手を伸ばして必死に叫んだ。自分のために犠牲を出させる訳にはいかない。そう頭では決めているのに…。
現実は非情。爪は真っ直ぐと妖精達を真横にこま切れにすべく、軌道を描いていった。