第十二話
シェリーが入浴中、そのまま突っ立って待つ気はない俺はエレイシアを連れて家へと戻っていた。時間を無駄に使いたくないのでこのまま研究室に籠ろうとする。
「うやぁいぁっ!」
だが、目の前ではしゃいでいるエレイシアをどうするべきか悩んだ。別に寝室のベッドに戻してもいいが、泣き出されると厄介にしかならないので無得に扱う訳にはいかなかった。
(どうせだからエレイシアについて簡単な検査でもしてみるとするか)
そう決めてエレイシアと共に研究室へと入った。
「喜べ、俺がこの研究室に招いた人間はお前で四人目だ」
「んあっ?」
間抜けな顔をしつつ、エレイシアは俺の顔をうかがっていた。四人目とは言ったが、実際はライザを他に研究室へ入った者はいる。この場合は勝手に入ってきたりで俺自身が招いた訳ではないのでノーカンだ。
一人目は魔導士となる切っ掛けを作った師――。
二人目は数十年前にてある素材集めの際に一時的な協力関係となったメンバーの一人である魔剣士――。
そして、三人目と四人目がシェリーとエレイシアという訳だ。
「よし、ちょっとそこで待ってろ」
俺は手頃な台にエレイシアを座らせて検査用の器具を探した。
この時、エレイシアの視界には理解はできなくとも俺の研究室で置かれたり飾られていたりしているとても興味深い物の数々が映っていた。魔導具や魔導書、標本や薬品と奇抜な雰囲気を漂わせる物ばかりであった。
「あったあった、さてと…どんな結果が待っているか期待できるな」
お目当ての道具が見つかり、手にしながら今度は使用するための薬品を取り出そうとする。数多くの薬品が詰められた瓶を棚から慣れた手つきで出していく。長年使っている自分だからこそ区別ができる。俺は前に置かれていた他の瓶を横に動かして目的の物を取るべく、奥へと手を突っ込んで掴み取った。
だが、ここで俺の動きは止まる。
「……無い」
棚から取り出した瓶を満遍なく見てみるが中身は空だった。この瓶には『大怪鳥の涙』が入っていた筈なんだが…。
「…そうだった。前にあの駄犬に邪魔された時のが最後だったな」
空き瓶を見ながら俺は思い出した。せっかく完成間近だった薬の製作をライザによって邪魔された日の事を…。
(あいつめ、今度来る時は盛大に『おもてなし』してやろうじゃないか)
思わず手に力がこもって瓶から歪な音が出てくるが、寸での所で止めた。この瓶だって普通の瓶じゃないんだ。いちいち壊していたらもったいない。そう考えて瓶を棚に戻すが、無い物は無い。
「うーむ、あの場所はなぁ…」
顎に手を当てて計算を始めた。ここを今から発って目的の場所に到着し再び戻ってくるまで最低何時間かを。
「明日の朝前後には戻ってこられるか」
過程と結果を可能性ごとにふりわけて全体から時間の標準偏差に求めれば後は差分での計算で帰ってこられる時間が求められた。今回の素材集めは割と手間がかかりそうだ。
こうして俺の大怪鳥の涙の調達はこの時より決まった。
「――というわけで留守を頼むぞ」
「あの、急すぎて展開についてこれないのですが…」
さっそく温泉から出てきたシェリーに事の内容を伝えた。温泉の効果で肌がつるつるになって気の流れも正常に戻っていたのは言うまでもなかった。この際のシェリーは妙に艶めかしい様子だったが、俺には興味が無いのでさほど気にすることもなかった。
「それじゃあ行ってくる」
「え、あの、ちょっと…」
事情を話し終えるや、俺はこの場で呪文を唱えた。
魔術や魔導は発動時に大抵は術式に沿った呪文が必要となる。だが慣れれば無詠唱で発動することは可能だ。威力や効力は詠唱した場合とは数段下がるが使い勝手が良ければ問題はない。詠唱と無詠唱の関係は鍛冶での鍛造と鋳造に近い。使いどころを間違えずにやれば魔力(労力)の消費は抑えられる。
しかし今から行うのは『形状変化の魔導』。
手抜きをする訳にはいかない。
呪文を唱え終えるや、着ていたローブの背中部分が別の物に変形し始める。ただの布地であった筈のローブは見る間に形を持って一対の翼へと変化した。それはまるで小さな竜の翼そのものだ。
次に足に力をこめるよう大きくしゃがむや一気に飛び上がった。それと同時に翼となったローブを力強く羽ばたかせ、地面が一部潰れるほどの風圧で空を飛んだ。
飛び立った後にも俺は一度の羽ばたきによって音速を超えるスピードのまま翼で風を受けて前進する力を加え、十分な加速が付いた所で滑空。前進する力が衰え始める瞬間にて再び羽ばたきを入れて前進。
この繰り返しが翼で空を飛ぶ原理だ。こうして聞けば一見簡単だがその行動によって様々な影響が俺へと襲いかかってくる。重力、空気抵抗、気圧、体感温度、酸素濃度等と他にも上げてみればきりがない物理的影響が自分の身体をバラバラに引き裂こうと働いていた。その問題を解決するのに魔導による対策は大いに役立っていた。
遠く、遠く、さらに遠くと北を目指して飛んでいく。
目指すは大怪鳥と呼称される魔物。
欲する物はその涙。
この世には人間の手には負えず、今だ討伐もされずに特定の居を構えて生を謳歌する魔物が存在する。そんな彼らの事を人間は畏怖を込めて個々に『字』と言われる二つ名を与えた。
だが、俺にとっては研究素材として格好の的となってもいた。力を持つ魔物ほどよい素材が生まれるという簡単な理由からだ。
「そろそろやつの領域か」
しばらく飛んでいた俺は空の雰囲気が変わりつつあるのを感じた。先ほどまで晴れていた空に黒い積乱雲が発達している。今にも嵐が襲いかかるかの勢いが風となって吹き荒れる。
「…あいかわらず面倒な場所に住んでいるな」
翼にさらなる力を込めて曇りつつある空へと一気に突っ込んだ。雲の正体は小さい水滴や氷の粒の集まりだ。まともに受ければ身体などびしょ濡れになってしまうだろう。
使用中の結界で重ねて防ぎつつ、上へと飛んでいく。しばらくすると雲を抜けて陽の極光溢れる碧い空へと出てきた。吹き荒れる風などどこにもない。
このまま障害もなく目的地へと一直線かと思われたがそうはいかなかった。突如として向こう側の雲から先ほどの俺がしたよう雲から出てきた』大怪鳥』は激しい風切り音を上げて俺よりも速い超高速で向かってきた。
「あぁ…ありゃ完璧に怒っているな」
こう呟きつつも真正面からはその大きな翼を羽ばたかせて飛んでくる巨大な鷲がやってくる。ただの鷲ではない。羽色は強い藍色をしていて金色の毛によるトサカが特徴的だ。鋭い眼光を覗かせる瞳を持つ猛禽類の顔には斜めに沿って醜い傷が走っている。
「まぁ、歓迎されていないのは確かだよな」
そのまま俺は激しい飛翔で向かってくる大怪鳥の突進を捻りこんで避けた。だが、これで余裕ができる訳ではない。こちらが避けたかと思えた瞬間に大怪鳥は素早く旋回して再びこちらへと突進してきた。これもまた俺は難なく避けた。
「どうした? 前に俺が付けた傷がまだ痛むのか?」
この言葉が聞こえたのかはわからないが、大怪鳥はさらに加速して俺へと近づいてくる。魔物が人間の言葉を解するのは上位に位置する存在だけだが、この大怪鳥はその部類に入ってもいい。眼光の鋭さがさらに増して大怪鳥は俺へと狙いを定めていた。
「…やるな」
さすがの俺もこのスピードを回避しきれずに大怪鳥の突進を真正面に受けた。結界で防いだ身体から鈍い音を出して物量の原理に従い、衝撃力を逃しながら雲の中へと打ち落とされた。
これを逃さず大怪鳥は自分の足に生やす鋭い鉤爪を向けながら俺の落ちた方へと向かってくる。次にはその鉤爪で俺をボロボロに引き裂くつもりなのだろう。
身体が冷えて水滴が纏わり付く中、大怪鳥は俺と同じく降下を続けた。ついには互いとも雲を抜けて嵐の吹き荒れる荒野へと現れた。
「だが、まだまだ鳥頭だ」
それと同時に待ち構えているのは右手に魔力を集中させて巨大な魔力の槍を形成した俺の姿が大怪鳥の視界に映っている筈だ。気付いたようだがもう遅い。限界にまで引き絞られた俺の腕から魔力の槍が力いっぱい投擲された瞬間であった。
妖しく輝きを放つ魔力の槍は狙い通り、大怪鳥の右翼を貫いた。
…そうなったかと思われた。
「なにぃっ!?」
俺は目を丸くして驚いた。『受け止める』などとは予想だにしなかったからだ。驚愕の表情を浮かべる俺を真下に大怪鳥は槍をがっちりと受け止めていた。自分のご自慢の嘴でだ…。
大怪鳥はその槍を咥えた後、大きく首を振って槍を投げ返してきた。無論、こちらの方にだ。嘴でだというのに正確無慈悲に槍の穂先は俺へとしっかりと向いている。
「ちょっと待て! 冗談じゃねぇ……っ!!」
予想外な行動に俺は混迷する思考を寸での所で正し、こちらへと投げ返された自分の魔力の槍を避けた。そのまま槍は遥か下にある大地へと吸い込まれるように落ちていった。
地面に突き刺さったかと思われた次の瞬間、着弾点からすさまじい火柱を上げた。衝撃が空中にいるにも関わらず俺のローブをなびかせるほどの威力がある。
「まいったな、これは地上に向けて使うべき技じゃなかったんだが…」
失敗したと言わんばかりに頭を掻きつつ、俺はその惨状を見下ろしていたが、ふと近づいてきた気配を察して瞬時に結界を張った。その瞬間、視界に広がったのは嘴を大きく開けて今にも喰らおうとする大怪鳥の口の中であった。このまま俺は両手を出した状態で大怪鳥に啄ばまれようとするかどうかの瀬戸際のまま、大怪鳥に乗りかかる形で空を飛びまわった。
「おい待て、俺なんか食ったら腹を壊すぜ?」
肉体強化の魔導を重ねて大怪鳥の啄ばみを防ぎながら、俺は軽口を言ってこの状態を楽しんでいた。のんびりと生活するのもいいが、偶には刺激的な行動を求めたくなってしまう。
「…そろそろ飛ぶのも飽きてきたな」
どこか疲れた顔をして俺は肉体強化の魔導をさらに付加して今の大怪鳥からの拘束を簡単に逃れた。
「はっ!」
嘴に抵抗を感じなくなった大怪鳥の反応を置き去りに横へ跳び、このまま大怪鳥の背中へと飛び乗った。
「嘗めた真似してくれたな。おらぁっ! ちょっと遊んでやるぜ鳥風情がっ!」
まずはさっそく強い力で大怪鳥の両翼を掴み上げて自由を奪った。羽ばたけなくなった翼はただ風を受けるだけの羽毛の塊と化すだけ。このまま下へと滑空しながら俺と大怪鳥は落ちていく。
しばらくすると吹き荒れる景色の中にいっそう目立つ断崖絶壁が見えてくる。俺にもそこが何かわかっていた。今まさに自分の足元で暴れている大怪鳥の巣だ。頂上には色んな物を集めて形作った大きな巣があるので間違いなかった。
「懐かしいぜっ! 前回もこうして叩きつけたよなぁ!?」
高ぶった気分で大怪鳥に話しかけるが、相手は激しく暴れ回って俺の手を翼から振りほどこうと必死だった。だがもう遅い。流星のごとくスピードで大怪鳥は断崖絶壁の巣に目掛けて顔から突っ込んだのであった。
その途端に大地が揺れた。この衝撃力がどれほどかを物語っている証拠だ。大怪鳥は顔を巣に斜めにめり込んでピクピクと痙攣していた。
大怪鳥の背中から俺は巣へと降り立つ。
「あ、しまった。顔が埋もれていちゃあ涙なんて取れる訳ねぇよな」
こんな時にうっかりを起こしていたようだ。顔が巣にとめり込んで身体をぐったりさせている大怪鳥を眺めつつどうやって涙を採取するべきか手を考えた。
「えっと…」
頭に手を乗せて振り返り、大怪鳥の巣を眺めた。以前と比べて少し豪華になっているのがわかった。
魔物の中には価値のある物を集めて自分の住処に飾る習性を持つ者もいるのだ。力ある者としての誇りを示唆しているとも言われてはいるが真相は定かではない。
だが俺はそんな習性を持つ魔物を良く知っていて、なおかつ集める物が悪趣味極まりない物ばかりな存在を知っていた。そういえばライザのヤツがもうそろそろやってくると言ってたな? そんな時期にシェリー達を家に残したのはまずかったかもしれん。
ちょっとした可能性を危惧しながら考えていく。
「…それで、お前はいつまでそうしている気だ?」
やたら静かになった後ろにいる存在に向けてこう言った。居るのは大怪鳥。その言葉に反応するように大怪鳥はゆっくりと巣に埋もれた顔を引き抜いた。先ほどの地面への激突のダメージを感じていないかの動きでだ。顔はもはや憤怒と言い表すだけでは物足りないくらいに血走っており、今にも飛びかかりそうだ。
「ちょうどこっちも身体が温まってきたところだ。そろそろ本番へといこうか」
これでウォーミングアップは終了。ここからが鎬の削り合いだ、
だが、大怪鳥の方も俺の言葉に応じて押さえきれない自分をなんとか押さえている感じがしていた。
次の瞬間、大怪鳥はけたたましい鳴き声を力の限り上げた。
「――――ッ!!」
金属を擦り合わせるかのような酷い鳴き声が嵐の吹き荒れる荒野に響き渡った。
――これからが本番、いわば本気での『殺し合い』だ。
大怪鳥の藍色の羽が青い稲妻を伴う発光を始めていた。
「そうだ、そうこなくちゃいけない」
これに対し俺は笑う。この瞬間を待ち望んでいたかのような嬉しそうな笑みをしていた。おいおい、やり過ぎは良くないからな。出来れば手加減してもらいたい、そうしないとこっちも手加減できなくなっちまうぞ?