第九話
盛大な祭りから帰った翌日、私はクリムさんの家のベッドで目を覚ました。少し筋肉痛で痛む身体を引きずるように起こしてふらふらと寝室から調理場へと向かう。
すると、鍋を沸かす沸騰音が私の耳に入ってきます。まだ眠い瞼をゆっくりと開けてその視界をはっきりとさせてみると…。
「よぉ、起きたか」
なんと、クリムさんが調理場に立っていました。『あの』クリムさんがです! 信じられませんよ!?
おかげで私は再び目をごしごしと擦ってしまいましたが、目の前の現実は変わらなかった。さらに見てみると、傍にエレイシアが物体浮遊の魔導で浮かんでクリムさんの料理の様子を興味深そうに口を開けて眺めていた。
「起きて早々悪いが、エレイシアにご飯をやっておけ」
鍋をかき回しながらクリムさんは私へと振り返った。今まで唖然としていた私はこれによって意識を取り戻し、ハッとすると同時にみる間に顔を真っ赤にした。昨日の『裸騒動』を思い出したからだ。
「ひ、ひゃいっ!」
呂律の回らない口で返事をしてから私はエレイシアを空中からもぎ取るように早くなおかつ優しく抱きしめて大急ぎで寝室へ戻った。駄目です、まだクリムさんの事を直視できません。
私はベッドに座って目を見開いたまま、顔から湯気が立つほど紅潮しながらエレイシアに授乳するのでした。
◆◇◆◇
「さてと、さっさと仕上げてしまうとするか」
シェリーが授乳をしに行った後でも俺は調理場で黙々と調理を進めた。ちなみに俺が突然として料理を始めたのには決して思いやりとかではない。
答えは昨日の妖精の里で魔導と魔術をいく度か使った事にあった。
妖精の里に存在する魔力を人間が体内に取り入れると支障が現れる――。
あの状況で魔導と魔術は自分自身の魔力を使えば問題無いのだが、実際は完璧にではない。行使すると巻き込み現象のように微量ながらも周りの魔力を吸ってしまうのだ。そのために俺はこれを抜くべく気を全身に廻らせて魔力の浄化を兼ねて気を込めながらする料理を久々にする事にしたのだ。
意識を集中し、全身に流れる魔力と気を認識する。血液の流れにイメージを例えて全身に廻らせ、同じく流れる魔力へと重ねていく。
次には本来の自分の魔力と混ざった別の存在の魔力を濾過して料理に集中する手元へと流していく。気を吸着剤として扱いつつ、二種類の魔力が混ざりながら分離するのにはとても精密な魔力と気の制御能力が必要だ。
例えるならば、とても小さなカップに勢いの良すぎる蛇口から水を少量に出すよう調節してカップ分の水だけを入れようとするくらいに、だ。これを失敗すると目の前の鍋が放出しすぎた魔力と気によって弾け飛ぶ羽目になるだろう。
「…………」
無言のまま鍋をかき回していくうちに鍋の中にあるスープが薄く光を帯びていく。腹がもたれない程度の軽い野菜スープを作ってはいたが、気が込められていくにつれて食材の真価がじっくりと開花されつつあった。自分にとっての異物も抜け切り、気も十分なほどに込められたところで俺は火を消して二人分の器へとよそった。
「…まだ終わらないのか、冷めてしまうぞ?」
料理をテーブルに揃えてからさっそく俺は寝室に入っていったシェリーを呼びにいった。ドアを軽くノックして料理の完成を伝えるが、返事は無かった。
――おかしいな、確かにこの部屋にいるはずなんだが…。
そう疑問に思っているところ、ドアが静かに開き出す。俺は半歩下がってドアがこのまま開くのを待ち構えたが、半開きしたところでドアの動きは止まった。そんな光景に俺は怪訝そうに見つめた。
しばらくすると、“にゅっ…”とこちら側のドアノブにゆっくり手がかかった。シェリーの手だ。
次には顔を半分出してこちらをうかがってくるが、見ては隠れ、見ては隠れという行動を何度も繰り返している。待っている俺にとっては馬鹿らしい事この上ないので、半開きだったドアを一気に引いてドアノブにかけられている手ごとシェリーをこちら側へと強引に移らせた。
「お前は子犬か! 早く席につけ」
「うぅっ……」
まともに視線を合わせようとしないシェリーは俯いたまま、俺に引っ張られるがまま席に座った。さっそく席についたところで食事を始めようとしたが、その前に魔力を使って開けっ放しにした寝室のドアを手を軽く振って魔力操作で閉めた。ベッドにはエレイシアがすやすやと眠っている姿が見られたから問題なしだ。
席についてから俺達は静かに食事を始めた。元から食事の時は口数の少ない俺にシェリーが自分から話を出してそれに俺が相槌を打つ感じだったが、今回はシェリーが『諸事情』により声を出すことすら勇気がいる羽目になっている。なので俺がスープを飲む中、シェリーがスプーンへと手を伸ばすようになったのはしばらく経ってからだった。
「い、いたらきます…」
相変わらず呂律がどこかおかしくなってはいるが、スプーンで掬ったスープをシェリーは恐る恐ると口に運んだ。
「…………っ!」
今のシェリーにはスープについての様々な感想が頭を奔っているんだろう。そんな事が分かる程にシェリーの表情は分かりやすい驚き方をしていた。
「驚いたか?」
ふと、俺は目を見開いた顔をしているシェリーに聞いた。ご満悦な顔をしているが、スープ程度でそれほどまで驚いてちゃ舌が萎えるぞ?
「こんな風に、気を上手く込めて作り上げた料理は食材それぞれの存在をはっきりさせるほどにもなるんだ」
シェリーには自分が今まで作ってきたスープが単なる塩水かと思ってしまうほどの格の違いがここにある事にただ驚くのみだ。
「軽く作った程度だが、お前も練習を重ねればこれくらいは出来るようになるさ」
必要程度での気で抑えて作ったから経験を積めば確かにシェリーにもこのレベルに到達できるだろう。俺には味覚が無いからいくら旨くなるように作ったとしてもその努力を喜びとして味わえない。だが、他人からだと違ってくる。どれほど上達したか成長を見る事に楽しみが持てる。
「じゃあ、ぜひとも気の使い方を本格的に教えてくれませんか?」
美味しい料理を食べたためかシェリーの心には余裕が生まれてきている。荒ぐ息を押さえつつ、テーブルから前のめりになって俺へと迫った。
「…気が向いたらな」
さすがに近すぎるので、シェリーの額に掌を押しつけて元の席に戻した。
「それより聞きたいことがあるんだが…」
今度はこちらの番と言うように俺はシェリーに聞いた。
「シェリー、お前…身体は拭くだけで済ませているだろ?」
「うっ……!」
痛いところを突かれたかのようにシェリーは苦い顔をした。
たしかにシェリーは俺の家に居候している身。遠慮するのは結構だが我慢する事は良いとは言えない。いくら最低限以上の日常生活は望んではいなくとも、それで別の意味で迷惑をかけられると逆にこちらがかなわん。
この家には風呂は存在しない。なぜなら、俺は水の魔術で身体の汚れを剥がし落とすことが可能であり、わざわざ湯を沸かして浸かるのは俺にとって面倒な事だ。無駄な行為はしない主義でもある。
だからシェリーは代わりに桶に溜めたぬるま湯をタオルで濡らし、直接身体を拭く事で我慢してるそうだ。エレイシアは身体が小さいから桶でも浴槽みたいにして風呂代わりに身体を洗わせられるが、シェリーにはそうはいかないだろう。
結果、完全に満足できる筈もなくシェリーの身体に汚れは少しずつ残っていったと言う訳だ。
「はっきり言う。少し臭うぞ?」
「はうっ!」
こうも直接言うと心にかなりくる物だろうが事実だから仕方ない。俺は臭うとここでは言ったが嗅覚で感じる意味ではなかった。気の濁りが現れてきていることを比喩して言っただけだ。いわゆる別の言い方で『汚い』とも言っていた。
嗅覚が無い俺ならではの評価である。
「しょうがないじゃないですかぁ…この森から勝手に出て川へ行ける筈もないし、クリムさんに頼もうにも邪魔しちゃ悪そうだったし…」
シェリーは人差し指同士をちょんちょん合わせしていじけている。
「それでも限度があるだろう。仮にもここに居る以上、みずぼらしい姿になるまで我慢しようとするのは関心できないが…」
俺はそんなシェリーの様子にため息をついてこう言った。
「わかった、風呂を作ってやる」
「えっ……?」
◆◇◆◇
朝食が終わった私達はさっそく家の外に出ていた。クリムさんが足で地面を軽く踏みながら何やら調べ物をしているのを私は後ろからついていく。
(一体何を調べているんでしょうか?)
先に「ついてこい」と言われ、こうして後ろからついてきてるんですが、私にはクリムさんの意図がさっぱりわからなかった。
家から数十メートル西に位置する場所に来た所でクリムさんの足が止まった。
「ここだ、この場所が地脈の廻りがいい」
満足した様子で地面を見つめてそう呟きますが、相変わらず私にはさっぱり理解できない内容がほとんどです。
「ちょっくら引っ張り上げてくるから待ってろ」
次にクリムさんは私に横目のままこう伝えるや、両手を合わせた。引っ張り上げるとは言っても…何を? そう私が聞こうとするも言葉が詰まった。
目の前でクリムさんの手から膨大な魔力が集束して反発するように蠢き出したからだ。ですが、それをクリムさんは涼しい顔をして制御を楽々とし、さらに何か形作って両手で集束した魔力をコマ回しをするように円を描いた。回転は回数の度に激しさを増していき、ついには周りの空気を巻き込むほどに渦巻いています。
そして、準備は完了と言わんばかりにクリムさんは両手を地面へと向けるや、一気にその魔力は放たれました。激しい回転で大地に螺旋を描きながらガリガリと削り進んでいく。その際に飛び散る土砂は結界を張って透明な盾にして弾いている。
そこにはぽっかりと一人分に空いた穴が出来上がっていて、クリムさんはその中を躊躇なく飛び込んでいきました。
「ク、クリムさん!?」
いきなりの行動に理解が追い付かなかった私は慌てて穴を覗くものの、中は真っ暗でクリムさんの影一つさえ見えませんでした。一瞬入ってみようかと考えましたが、とても深そうで落ちて怪我する可能性を考えるとできません。
そのまま数分間、私は穴の傍に座って待機していた。すると、突如として地震が発生した。私はエレイシアを守るようにしっかりと抱きしめて地面に低くして安全体勢を取った。
同時に穴から何者かが勢い良く出てきた。
――クリムさんでした。
颯爽と地面に降り立って手を叩きつつ、うつ伏せに近い状態の私の元へと近寄ってきた。
「何をそんなところで這いつくばっている?」
「だって、地震が起きているんですよ? 危ないじゃないですか!」
何を当たり前なことを聞いているんですか! 私は怒鳴りながら振動に耐えますが、クリムさんから出た言葉は意外な物だった。
「安心しろ。これは温泉が流れて込んでいるから起きている振動だ」
「…温泉?」
温泉というのは『あの』温泉のことを言っているのでしょうか? 私が疑問を浮かべる次の瞬間、先ほどクリムさんが掘った穴から勢い良く白い液体が間欠泉のように噴き出した。重力に従って雫となって落ちてきた液体をクリムさんが張った結界に防がれつつ、その様を私達は眺めた。
熱く噴き出す度に漂う湯気…まさしく温泉の源泉そのものでした。
「何ですかこれ、どうして温泉なんかが噴き出して来ているんですか!」
「昔、樹海のどこぞやに亜人達にとっての秘湯と呼ばれた場所を思い出してな…半分ほど穴開けて拝借してきた」
「……って、それあからさまな温泉泥棒じゃないですか!?」
「いいだろ、今では温泉に入りたがるのは族長達を始め綺麗好きなやつらぐらいで半分くらい少なくなっても入る分には困らないんだし…」
完璧な犯罪告知に私はもはや突っ込むしかありません。確かにお風呂に入りたいと意思表明しましたが、ここまでするとは普通は思いませんよ。
相変わらずのクリムさんのスケールの大きさには度肝を抜かれます。
「だがこのままじゃ単なる溜め湯場所になるだけで温泉になりゃしない。そこで専門家のご登場といこうか」
クリムさんはまたしても「ついてこい」と言うや今度は家へと戻った。
吹き荒れる源泉を後ろにもはや気にしたら負けと決めて私はその後をついていくのであった。