入学式前
午前8時30分。
餌を貰いすぎたハムスターのように桃色の頬を膨らませて不満を露わにする少女が一名。
「入学式とか此花嫌い! だって退屈だし!」
「こら、そういうことを云わない」
少女をそっとたしなめる、常識のありそうな落ち着いた風貌の少年が隣に一名。
「新入生達はきっと緊張してるだろうから……それに、どうせ後半は」
「あーやっぱり今年もやるんだアレ! あっちはあっちで過激っていうかもう異常レベルだよね! 何で生徒会の方々は毎年あそこまで狂ってるかな!」
「まともに答えるとすると、それはこの学校そのものがおかしいから。……それと此花、あんまりそう大きい声出さない。さっきから目立ってるよ」
体育館内には既に二、三年生達が集合していて、此花の甲高い上に大きい話し声に周りの生徒はちらちらとそちらに目線を送っていた。此花は「はーい」と珍しく知多の言葉に頷いたかと思うと、二人から離れた所にいるグループの中心人物らしき少年に目をやりながら小さく尋ねた。
「ところで朝の葉月君への用事って何だったの? わざわざ玄関にまで委員会のリスク承知で出迎えに行ったんでしょ?」
「あぁ、あれか。きっと此花が考えてるようなものじゃないと思うよ」
「じゃあ教えて?」
「……今日、葉月の誕生日なんだよ」
「うん?」
固定された笑顔のまま首を傾げる此花。そんな彼女の反応に知多はほわほわした平和そうな微笑を浮かべて云う。
「手紙やメールじゃ嫌だったからね。ほら、誕生日のおめでとうくらいは直接云いたいと思って、それで他に時間もなかったから朝一番にってね」
「知多君は本当、平和主義者だよね」
此花は知多の入学したての頃から変わらない優しいその心につられ、いつもとは違う柔らかな微笑みを一瞬だけ見せた。当然、周りに気付かれる前にすぐ普段通りの無邪気な笑顔に戻してしまったが。
「知多君のそういうところを生徒会にも見習ってほしいよ! あの人達には常識っていうのがないのかな? それとも頭の螺子がないのかな?」
「こら、そんなに悪口云わない。いつ聞かれているとも分からないんだから」
「嫌だな知多君! そういうフラグ発言やめてー!」
「ごめん此花。意味が分からない」
そんなやりとりをしばらく続けた後、知多ははっと壁の時計を見て「ちょっと用事」と云って
小走りに此花の前から去っていった。残された彼女は一人になったのにも関わらず、にこにこ笑顔を崩さぬままケータイをいじり始めた。
(此花も情報収集、しとかなくちゃね)
酒次此花の名前は色々な意味で生徒に知れ渡っている。一つは近寄るな危険の変人として、もう一つは情報委員会と同じレベルの「情報屋」として。
(灯火さんの話じゃ、今年は会長がほとんど一人で企画したって云うけど……ま、今更先生のパソコンとかハッキングしても無駄かねー。どうせまともな内容じゃないんだから、嘘っぱちの企画書出してるだろうし。うーん何をやらかすかな歓迎会……)
昨年は春休み中に問題起こした生徒の公開処刑だったっけな。あれはえげつなかった。先生達も止めてやれっていうか……うむむ、今年は更にヒートアップしてる気がする。回想から現在へと視点を戻す此花。取り敢えず適当に生徒会の子に訊いてみようかなぁ。口を割らなさそうな例の五人以外で。灯火先輩もあれ以上の情報提供はお金要求してくるだろうし。
よし、と軽く頷いて此花は手当たり次第に情報を求めるメールを送り始めた。友達と呼べる関係の人間は少ないが、そういった伝手なら幅広い。ケータイの端に表示された時計をちらりと目をやる。入学式まであと20分、歓迎会まではあと一時間半。きっとある程度の情報は回ってくるだろう。
………
「すみません、ちょっと遅れました」
「いや構わない。今朝になって呼びつけた俺にも非があるからさ」
体育館から少し離れた位置にある人気のない廊下。一年生が通らないこの場所を指定してきたのは、同じバスケ部で三年生の霜越凌駕だった。そこそこ背のある知多より頭一つ半分大きい為に、自然と上目遣いになってしまう。
「お久し振りですね……三月の卒業式以来になりますか? バスケ部の皆が会いたがってましたよ」
「そうか。うん、今度顔を出しておく」
「お願いしますね。それで、俺に渡しておきたいものっていうのは」
「……時間もあまりない、早めに渡しておこう」
そう云って霜越がリュックサックから取り出したのは、一枚の白いディスクだった。文字も何も書かれていない為、中身の予想がつけられない。
「えっと、これは……?」
ディスクを両手で受け取りながら尋ねる知多。
「隣町の尚江中のデータ諸々。最近話に聞かないから嵐の前の静けさを感じて調べてみたら、ビンゴ。あいつら学戦の準備してやがった」
「全く、鷹掟中に続いて尚江中まで……ありがとうございます。でも、どうしてこの時間に?」
「俺は入学式には参加しないで、他の中学当たってくるから。これから一週間は学校にも来れねぇ」
霜越の発言に目を見開き、震えの誤魔化せていない声で知多は尋ねる。
「……そんなに戦況は悪化してたんですか」
「県レベルで荒れてんな。お前ら情報委員会が気にかけてる新庄とやらが関わってた春休み中のいざこざもそれだし、今朝も何人か新入生が他校の連中に絡まれてる。幸い、重傷を負わされた生徒はいなかったそうだがな」
「怪我はさせられたんですね」
「そういうことだ。ったく、なのにこの学校の奴らときたら内乱状態だしよ……」
「まともに動いているのは霜越さん達と涼透さんくらいでしょうね。生徒会も委員会もちっとも他校のことなんて見ていない……井の中の蛙、本当にそんな感じですよ」
普段は常に穏やかな姿勢を崩さない知多。それが今は夜叉のように暗い炎を目の奥でゆらゆらと燃やしている。口調が丁寧な分、余計にそこには凄みが滲み出ている。いつもの彼しか知らない者からすれば、さながら二重人格かと疑われるほどの豹変ぶりだ。彼のこの氷のような無表情を見たことがある者は、この学校にはほとんど存在しない。
すると殺伐とした空気を急に霜越が明るい声色で塗り替えた。
「ま、今はそれほど気にする時期じゃないから安心しとけって! それより入学式だろ? そうだ、今日は葉月の誕生日だったな……あー、ちょいと会えそうにないしメールで伝えとくか。お前はどうしたよ? あいつとは話しにくい状況だったよな。章と響語の馬鹿委員長二人のせいで」
「……えぇ、まあ。でも何とか本人に会って伝えられましたよ」
「そうか。うん、友達は大事にしとけ。ギャグでもなんでもなく、一人きりで物事は何も成し遂げられないからな」
「忠告、耳に挟んでおきますよ」
「顔が半分笑ってるぞテメェ」
「そろそろ入学式の始まる時間ですねー。じゃ、俺は体育館に戻りますんで」
「おい待て英知。一発殴らせろそのムカつくにやけ面」
「嫌ですよ。先輩こういうの手加減してくれないじゃないですか。ほらほら、もうすぐ一年生入場ですよ先輩。急いだ方がいいんじゃないですか?」
「テメェ……一週間後に覚えてやがれ」
この天然腹黒が、と悪態を吐いて背を向ける霜越の行方を見届けないまま、知多は「一週間、待ってますね」と呟いて体育館に走っていった。
………
入学式の始まる数分前。体育館へいく廊下は新入生達の話し声でざわめいていた。
「そうだ始、今日帰りにお前の家行っていいか?」
「うん、いいよ。じゃあついでに帰り道でコンビニ寄っていい? 大してお菓子もなかったから」
「ん、あたしも付いてくー」
「海輝は炭酸飲めなかったっけ。お茶とかもなかったかな……」
緊張という言葉から遠くかけ離れた空気を醸し出している三人。彼らの容姿はやはり他のクラスの生徒達からよく目を引いた。
最初は普通に談笑していた始だったが、次第に周囲からの粘つくような視線が気になり居心地が悪くなってきていた。タイミングを計らい、声を潜めて二人にしか聞こえないようそっと尋ねる。
「……何だか、さっきから凄いあちこちからの目線が痛いんだけど……気のせいじゃないよね。佐波と海輝も感じない?」
「あー、うん。分かる」
「気のせいじゃないな」
「やっぱり? ……変なことしたかな、僕……」
そちらの方面にはめっぽう疎い始の天然発言に、同じく女子生徒からの熱い視線を浴びせられている佐波が親友の純粋さに苦笑した。
「始……いや、別に始はそれでいいんだけどさ」
「ど、どういう意味?」
「佐波は誉めてんの、気にせずにいなさい」
からりと太陽のように明るく笑う海輝。彼女の眩しい笑顔に男子生徒の方でざわめきが広まる。海輝はそんな大衆、それから親友二人に気付かれないように小さく溜息を吐いた。彼女だって未だ十二歳、そういった熱狂的な群衆との折り合いの付け方は上手く出来ていなかった。
「……ねぇ海輝、大丈夫?」
はっとして俯かせていた顔をあげると、始が心配そうに海輝の方を見つめていた。彼女は慌てないようにと思いつつ少し早口になって云った。
「何がー? いつも通りな今井さんですけど」
「あははっ、今井さんだなんて誰も呼ばないよ。……あんまり無理しないでね、海輝」
最後に付け加えられたら言葉とその時に見せた始
の笑顔が、海輝の心をこれ以上となく癒やすのである。ありがと、と浮かべた表情は、果たして始の不安を溶かすことができただろうか。彼のほっとした優しい目を信じていたい。
「始はこういうところはよく感づくからな」
後ろでこそりと呟いてくる佐波。確かにその通りだと海輝は今までの自分を励ましてくれた始の言動を思い出す。
「優しいからね、始」
「だから俺達が守ってやらなくちゃいけない」
「そうだね。……でも、どっちかと云えばあたし達の方が始に助けられてきたけどね」
そこでしばらく海輝は佐波の返答を待ったが、なかなか切り返してこなかったので後ろを振り返った。
誰もいない。
「……は?」
「ねぇ海輝、早く並ぼ? 名簿順だって云ってたよ」
いつの間にか自分の前にいるのは夢女。
「……」
あぁ成る程、通りでさっきから始の姿も見当たらないわけだ。っていうか佐波の奴……何か一言はくらい云ってけよ鬼畜野郎。あたしを一人語りの痛い人間にすんじゃねぇ。
「……海輝? どうしたの、顔怖いよ!?」
「気のせいだよ夢女。あたしはいつも通りだよ?」
「目が据わってるのですが! あと声のトーンが恐ろしく低いのですが!」
「ふぅん、そう? きっと何処かのインテリ気取り男が置き土産に呪いを掛けていったのねー」
「棒読み止めてー!」
「こらそこ、静かに!もうすぐ入場ですよ!」
他クラスの女性教師に注意されて口をつぐむ二人。確かに周囲の生徒達の話し声が幾分か抑えられている。佐波への小さな怒りだけで正体をなくしてしまった自分を反省しつつ、海輝はぞろぞろと移動し始めた先頭集団の後ろを静かに着いて行った。
__午前9時。
朝焼中学校の入学式が始められた。
霜越 凌駕(シモゴシ リョウガ ♂)
朝中の3-5。他校によく偵察に行く為、学校にいないことが多い。