第13章 不器用な師弟と、アップルパイの仲裁
1
「……終わった。私の遅れてきた青春は、あの紙吹雪と共に散ったのだ……」
いつもの安い居酒屋。クロードはテーブルに突っ伏し、空のジョッキを握りしめて干からびていた。
先日の特許庁の下請け準備室での大失態。セシリアの過剰なお節介もあったとはいえ、クロエを完全に怒らせてしまったのは事実だ。俺も隣で頭を抱えながら、どうやってこの絶望的な状況を打開すべきかと思案していた。
「おいおい、シケたツラしてんじゃないよ、だらしない男だねえ」
ふと、居酒屋の入り口から紫煙と共に現れたのは、スラムの森に住む魔女・イレーネだった。
彼女は俺たちの向かいの席にドカッと座ると、呆れたように煙管をふかした。
「セシリアの嬢ちゃんから聞いたよ。あんたたち、クロエの機嫌を盛大に損ねたんだって?」
「イ、イレーネ殿……。申し訳ない、彼女の元お師匠様であるあなたに合わせる顔が……」
クロードが涙目で弁明すると、イレーネはふっと息を吐き、どこか懐かしむような、優しい笑みを浮かべた。
「お堅い態度は相変わらずかい。あの子は昔から、何でも一人で背負い込もうとする。手先は誰よりも器用なくせに、人付き合いだけは絶望的に不器用なんだよ」
イレーネはぽつりぽつりと、五年前に起きたクロエとの『確執』の真相を語り始めた。
「あの子がアタシの元を飛び出したのはね、アタシを憎んだからじゃない。……あの子は、アタシの魔法をもっと世間に認めさせたかったのさ」
「認めさせたかった?」
「ああ。『師匠ほどの腕があれば、ギルドや特許庁でもっと高い地位と莫大なお金を得られるはずだ。一緒に王都へ行こう』ってね。あの子はアタシの才能が日陰で腐っていくのが許せなかったんだよ。純粋すぎる尊敬が、歪な形になっちまったのさ」
だが、イレーネは王都の堅苦しい生活よりも、スラムの森での平穏で質素な日々を愛していた。
その価値観のすれ違いが、決定的な仲違いを生んでしまったのだという。
「あの子も本当は、自分が意固地になっていることに気づいているはずさ。でも、ギルドで成功してしまった手前、今さら引っ込みがつかなくなっちまってる。遠くから見守ることしかできない、不甲斐ない師匠だよ」
イレーネは自嘲するように笑った。まるで、遠く離れて暮らす不器用な娘を心配する、母親のような顔だった。
2
「……イレーネ殿。一つ、お願いがあります」
それまで机に突っ伏していたクロードが、ガバッと顔を上げた。その目は、先ほどまでの「恋に浮かれたポンコツ中年」のそれではなかった。
「クロエ君は、甘いものが好きですか?」
「あ? ああ、あの子は特許庁のストレスのせいか、無類の甘党でね。昔はよく、アタシが森で採れた林檎で焼いた『アップルパイ』を、目を細めて頬張っていたもんさ」
「それです! イレーネ殿、どうかそのアップルパイを焼いていただけないでしょうか!」
クロードは勢いよく頭を下げた。俺は驚いて彼を見た。
「おい、おじさん。まさかそれを持って行って、また機嫌を取ろうって……」
「違う!」
クロードは俺の言葉を遮り、真剣な顔で言った。
「私の恋など、どうでもいい! 彼女は今、孤独に特許庁という重圧の中で戦っている。意固地になって、一番大切な恩師に素直になれないまま……そんなの、あまりにも悲しいじゃないか!」
クロードは拳を握りしめた。
「私は、彼女のあのお堅い顔ではなく、心から笑った顔が見たい。だから……私の気持ちよりも先に、まずは彼女とイレーネ殿の仲を修復したいんです」
自分の恋心を捨て、相手の本当の幸せを願う。
俺は、このさえない特許マニアのおっさんが、少しだけ大きく見えた。
3
数日後。魔術学院の講義終わり。
クロードは再び、クロエのいる準備室のドアをノックした。俺と、少し離れた物陰にはイレーネも同行している。
「……クロード先生。先日のようなふざけた真似なら、お帰りください」
ドアを開けたクロエは、案の定、氷のように冷たい視線を向けてきた。
だが、今日のクロードは一切取り乱さなかった。自分を良く見せようという下心がないからだ。
彼は静かに一礼すると、布に包まれた籠をクロエの前に差し出した。
「クロエ君。先日は私の無礼な振る舞いで、君の時間を奪ってしまい本当に申し訳なかった。これはそのお詫びの品だ。……甘いものが好きだと聞いたのでね」
クロエは警戒しながらも、籠の布を少しだけめくった。
ふわりと、シナモンと焼き上がった林檎の甘い香りが準備室に広がる。素朴で、少しだけ形はいびつだが、黄金色に輝く美しいアップルパイ。
それを見た瞬間、クロエの瞳孔が揺れた。
「これを……先生が、買ってきたんですか……?」
「いや。どうしても君に食べてほしくて、ある人に無理を言って焼いてもらったんだ」
クロエは震える手でパイを一口分だけ切り取り、そっと口に運んだ。
サクッとした生地の食感。酸味と甘味の完璧なバランス。そして、特許魔法の炎ではなく、薪のオーブンでじっくりと焼き上げられた、どこまでも優しい『記憶の味』。
「あ……」
クロエの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は言葉にならない声でしゃくり上げ、両手で顔を覆った。
「……美味しかったかい、クロエ」
準備室の奥から、イレーネが静かに姿を現した。
「し、師匠……」
「ごめんよ。アタシが意地を張ったせいで、お前をずっと一人で頑張らせちまったね。……本当に、立派な付与魔術師になったじゃないか」
イレーネが優しくクロエの頭を撫でる。
クロエはもう我慢できなかった。子供のように声を上げて泣きじゃくり、イレーネの胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 師匠を否定したわけじゃなかったんです! ただ、私……師匠の魔法が一番すごいって、世界中に教えたくて……っ!」
「分かってるよ。お前は昔から、不器用で可愛いアタシの自慢の弟子さ」
五年間のもつれた糸が、甘いアップルパイの香りと共に解けていく。
俺はこっそりとクロードの肩を叩いた。自分の恋愛よりも彼女の笑顔を優先した彼の立ち回りは、完璧なファインプレーだった。
4
「本当に、ありがとうございました。クロード先生のおかげで、素直になれました」
涙を拭い、すっきりとした笑顔を見せるクロエ。その表情は、以前の氷のような堅物さが嘘のように柔らかく、美しかった。
「いや、私はただパイを運んだだけで……君たちが元通りになって、本当に良かった」
照れ臭そうに頭を掻くクロード。
だが、そこでイレーネがニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ちなみにクロエ。この特許オタクのおじさん、先走って論文を顔に叩きつけられちまったけど、お前のことが大好きでたまらないらしくてね。連日居酒屋で泣き喚くほど、お前にゾッコンなんだとさ」
「なっ!? イ、イレーネ殿ォォォッ!!」
クロードが顔を真っ赤にしてパニックに陥る。
「わ、忘れてくれ! 今のは聞かなかったことに! 私はただ、君が幸せならそれで……!」
あたふたと手を振るクロードを見て、クロエは驚いたように目をパチクリとさせた。
しかし、彼女は嫌がるどころか、やがてふふっ、と可笑しそうに吹き出した。
「……不器用なんですね、先生も」
クロエはほんのりと頬を染め、眼鏡の位置をクイッと直した。
「論文を叩きつけてしまったことは謝ります。……でも、私の付与術式の美しさを理解してくれたのは、先生だけでしたから。まずは……お茶の飲み友達からなら、考えてあげなくもありません」
「お、お茶……! 友達……!」
クロードは天にも昇るような顔で硬直し、そのままバタンと後ろに倒れ込んで気絶してしまった。
「ちょっと! 大丈夫ですか先生!?」
慌ててクロードを揺さぶるクロエと、大笑いするイレーネ。
俺は準備室の壁に寄りかかりながら、心の中でガッツポーズを決めた。
「(……よし。人間関係の修復、そして最強の付与魔術師との信頼構築は完璧に完了したぞ)」
ドタバタのラブコメディの裏側で、俺の事業計画に必要な「最後のピース」が、いま完全に揃ったのだった。




