パールハーバー・インパクト
はい、あちらに見えるのが真珠湾になります。
自然に形成された湾でしたが、現在はその湾口には大きなクレーターが穿たれ、湾の出入りを不可能にしています。
アメリカ軍は真珠湾の再利用のために懸命に作業をしましたが、約半年でそれを諦めることになりました。
その後、カネオヘ湾を新たに軍港化しようとしましたが、結局それは戦争に間に合いませんでした。
当時のカネオヘ湾は、その入り口がリーフで半ば塞がれたようになっており、湾内にも無数にリーフが存在し、とても戦艦や空母といった大きな軍艦が往来できる場所ではありませんでした。
真珠湾へ隕石が衝突したのは1942年5月25日の事でした。当時、日本軍によるミッドウェー、アリューシャン攻略作戦が進められていて、真珠湾では空母エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウンが出撃準備を行っていましたが、正午過ぎ、突如飛来した隕石によって何もかもを吹き飛ばされてしまいました。
それは同時にホノルルの街も壊滅させる大惨事になったのです。その衝撃波や飛来物はホイラー陸軍飛行場にも届き、陸軍はすぐさま真珠湾へと救援に向かおうとしましたが、なだらかな傾斜地から望むその姿は、真珠湾の湾口にポッカリ空いたクレーター、そして、本来あるべき海軍施設や周囲の街並みは全てが焼けるかなぎ倒されている惨状でした。
真珠湾の湾口には直径約1kmのクレーターが穿たれていて、真珠湾にあった軍施設は全てが破壊され、停泊していた軍艦、浮揚作業中だった戦艦群は衝突の波にのまれ、あるものは陸へ乗り上げ、あるものは転覆し、周囲は瓦礫と衝突によって吹き飛ばされた土砂で足の踏み場もないほどの状況だったのです。
この事件が攻撃なのか自然現象なのか、すぐさまわかる者は居らず、誰もが慌てふためき混乱した状態が幾日も続きました。
当初は日本軍による攻撃という噂が広まり、市民は避難する場所もなく暴動まで起ったと言われています。
軍も日本軍の来襲に備えましたが、その主力たる海軍部隊は壊滅していて、ハワイはとても脆弱な状態だったのです。
西海岸において何とか無事だったのは、ダイヤモンドヘッド内にある要塞施設でしたが、海側を望む施設は隕石衝突の衝撃によって壊れ果て、火口内の施設のみが稼働している状態でした。
このすぐ後、日本軍がミッドウェー攻略を成功させ、アリューシャンをも占領しましたが、アメリカ軍はハワイの拠点、そして有能な将兵を数多く失い、有効な反撃が出来なくなりました。
このパールハーバー・インパクトは、戦争のターニングポイントとも言われています。
アメリカ軍は太平洋における最重要な拠点を失い、以後南太平洋での戦いはサモアを拠点とすることになりました。
アメリカ海軍は彼らが予ねて考えていた作戦の実施を主張しましたが、サモアを拠点にする事から実現が困難でした。
反攻作戦の総指揮を執るのは陸軍のマッカーサー将軍であり、彼の意向に従うしかありません。
彼はオーストラリアからニューギニア、フィリピンへと進軍し、九州を狙う作戦を示しました。
海軍は戦前より練ったマリアナから東京を狙う作戦を主張しましたが、そのために必要な真珠湾は使えません。
長大な海路を全く拠点も置かずに攻めるのは、流石に夢想でした。
こうして、反撃作戦はマッカーサー将軍の指揮の下、ソロモン諸島から始まります。
しかし、上手くいきません。
陸軍の作戦は順調でしたが、それに付き従う海軍は苦労の連続です。
なにより、ハワイという何年もかけて構築した拠点が使えず、急造のサモアとそこへ集めた工作船だけが頼りだったからです。
ソロモンでの戦いで被弾、損傷した艦艇は応急修理もままならず、酷いものは自沈処分するしかありません。
何しろサモアでも応急修理しか出来ず、長時間かけてサンディエゴまで帰るしかないのです。その航海に耐えられないと判断されれば、沈めるしかありません。
こうして多くの巡洋艦、駆逐艦がソロモン海に沈められて行きました。
ハワイへの隕石衝突は日本軍に知られないように気を配りましたが、そもそも初期の混乱がそれを不可能にしていました。
当時はミッドウェーでの戦闘を控え、日本軍もハワイは重要な偵察ポイントだったので、海中から事態を察知し、複数の潜水艦が偵察にやってきました。
そんな中には意を決して偵察機を飛ばした船もあって、早い段階から日本軍はハワイの惨状を理解していたのです。
ハワイが使えない事を理解した日本軍は、大胆にも太平洋から多くの艦艇をインド洋へと回航させ、1942年中にはインド洋からイギリス軍を駆逐し、インドを孤立させてしまいました。
その影響は北アフリカ戦線にも及び、エジプトが陥落してしまいましたが西アフリカへと上陸を果たしたことで反撃拠点は確保できていました。
日本軍はインド洋の島々を占領することなく東インドでの作戦に終始したため、それ以上の勢力拡大はありませんでしたが、ペルシャ湾は長らく封鎖され、ソ連への南部支援ルートは閉ざされてしまいました。
太平洋での戦いはマッカーサー将軍による島伝いの上陸作戦によって行われ、1944年にはフィリピンへと至りますが、太平洋上に拠点を持たないアメリカ軍の補給路は非常に脆弱でした。
こうした事態を見越し、アメリカ軍はカネオヘ湾を補給拠点として使おうとしたのですが、運用開始から程なく、連続して貨物船の座礁事故が起こったことで断念するしかありませんでした。そのまま利用を強行すれば、座礁船によって自ら港を塞ぎかねなかったからです。
湾口を拡げ、湾内のリーフを撤去し、大型艦艇や多数の貨物船が往来できるように整備が整うのは、隕石衝突から10年後の事でした。とても戦争には間に合わなかったのです。
さらに、日本軍が1944年10月、アゴー作戦という一大作戦を発動し、マリアナからニューブリテン島へ迫りました。
フィリピンでの戦いの最中という事もあってとても緊迫した事態となり、懸念したように日本軍を撃退して補給を回復するまでに3カ月を要し、フィリピン近海では1945年初頭には燃料不足にあえぐ艦艇が出たほどでした。
そこへテーゴー作戦という日本軍の攻撃が行われ、飛べない艦載機、全力が出せない艦艇、弾が無い陸軍部隊という悲惨な状態で戦いに臨み、敗北を喫してしまいます。
この頃、ナチスは連合軍の支援が乏しいソ連軍を追いかけカスピ海へと進出していたのですが、それはつまり、ヨーロッパが手薄になるという事でした。
その隙を衝いてドーバー海峡を押し渡って大反攻作戦を実施していたのですが、さしものアメリカをして、ここで物量の限界に突き当たります。
ハワイという拠点が無い事で長く延びきり、しかも荷降ろす港すらない太平洋へ大量の輸送船を送り込む必要から、ヨーロッパへ振り向ける輸送船がひっ迫してしまったのです。
この状況で何を優先するべきかは明らかでした。
アメリカはナチスの打倒を最優先とすることを決め、マッカーサー将軍に対してフィリピンで踏みとどまるように命じます。
ところが、将軍はその命令を無視して沖縄上陸を敢行してしまったのです。
すでにフィリピンを維持する以上の輸送船は太平洋から引き揚げ、ヨーロッパへと向かっているというのにです。
攻撃は成功し、海兵隊と陸軍を上陸させることは出来ました。しかし、日本軍の攻撃を二度防ぐともはや艦艇の燃料や弾に余裕はありません。フィリピンまで下がり補給するしかなかったのです。
ところが、沖縄を奪取して戦果を拡大する事を望んだ将軍は後退を許しませんでした。
こうして再度、燃料、弾薬の乏しい艦隊は日本軍によるケツゴー作戦による逆襲を受け、大損害を出してしまうのです。
損傷した艦艇の大半はその場で自沈させるしかありません。南太平洋を南下し、さらにサモアからサンディエゴへ向かうなど、壊れた船には無理だったからです。
こうして、大型空母6隻を含む20隻もの大型艦艇を失ったアメリカ海軍は、一時的に戦闘継続が困難になりマッカーサー将軍の責任問題となったのです。
イタリア侵攻作戦も控えていたアメリカにとって、新たに太平洋に回す艦隊にも限りがあり、戦争継続はフィリピンやハワイの危機に直結する問題となってしまいます。
1945年6月、こうした状況からアメリカは単独で日本と停戦する道を選んだのでした。
さて、これで分かったように、太平洋において真珠湾が如何に重要か理解できたと思います。
この後、ヨーロッパを奪還したアメリカでしたが、ワルシャワに至ることが出来なかったソ連が大挙してマンシューへと攻め込み、チャイナを席巻していく姿に恐怖を覚え、日本と手を組むことを選んだのです。
そうしなければ、真珠湾を失ったアメリカは、赤化した日本軍によって太平洋を蹂躙されてしまうと考えたからです。
パールハーバー・インパクトが戦争に与えた影響に関する解説は以上です。
では、次はお待ちかね、クレーター見学へ参りましょう。




