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市民たちの夜

 シンセシアの夜は、青白いLEDの光に塗り潰されている。

 中央タワーから放たれる微かな振動が、空気を震わせ、街全体を巨大なゆりかごのように包み込んでいた。人々はその揺りかごの中で、政府が規定した「正しい幸福」を享受し、明日への不安など微塵も感じさせない穏やかな眠りにつく。

 だが、その完璧な静寂の裏側で、綻びは音もなく広がり始めていた。

 首都ラーヴェンの一角、仕事帰りの市民たちが集まる大衆居酒屋。

 店内は、明るい笑い声とグラスの触れ合う音で満ちていた。壁に設置されたモニターでは、マサト王が視察先で子供たちと触れ合う映像が繰り返し流され、そのたびに客たちは一様に感嘆の声を上げる。

「――マサト王に、乾杯!」

 一人の男が立ち上がり、ジョッキを掲げた。それに呼応するように、店内の全員が同じ角度で腕を上げ、同じ調子で「乾杯」と唱和する。

 その光景は、一見すれば活気に満ちた宴会だ。だが、よく観察すれば、その笑い声には不思議な「一定感」があった。高笑いするタイミング、グラスを置く動作、隣の者と肩を組む角度。すべてが、まるで事前に演出された舞台演劇のように、過不足なく「幸福」を演じている。

 ジョッキを煽る男たちの瞳は、一様に潤み、どこか遠くを見ているようだった。彼らが飲んでいるのは酒だけではない。夕食とともに配布される「新型神経安定剤」の効果が、彼らの脳から不満や疲れを削ぎ落とし、ただ純粋な高揚感だけを抽出しているのだ。

 同じ頃、ラーヴェン中央病院の一般病棟。

 消灯時間を過ぎた静かな廊下を、一人の看護師が足音を殺して歩いていた。彼女の手元には、規定の薬品が入ったトレイがある。

 彼女は、最奥の個室のドアを静かに開けた。そこには、一人の老女がベッドに身を横たえていた。名前は、エルマ。長年、この国の公務員として勤め上げ、今は穏やかな余生を過ごしているはずの女性だ。

「エルマさん、夜のお薬の時間ですよ」

 看護師が優しく声をかける。エルマはゆっくりと目を開けた。

 その瞬間、看護師の手がわずかに止まった。

 エルマの瞳には、この街の市民が持つべき「輝き」がなかった。代わりにそこにあったのは、濁った、けれどひどく力強い、剥き出しの「個」の光だった。

「……いらないわ」

 エルマの声は、枯れ木のようだった。

「エルマさん、これはマサト王が国民の健康のために特別に配合してくださったものです。飲まなければ、またあの『嫌な気持ち』が戻ってきてしまいますよ」

「戻ってきて、いいのよ。……あれを忘れてしまったら、私は私じゃなくなってしまう」

 エルマは痩せ細った手で、枕の下から一枚の古ぼけた写真を引っ張り出した。それは、六年前の民主化運動の最中に撮られたものだろうか。瓦礫の山の中で、泥にまみれながらも必死に誰かの名前を呼んでいる、若き日の自分。

「これを、飲んだら……。この時の怒りも、悲しみも、全部消えてしまう。それは、私を愛してくれた人たちを、二度殺すのと同じことよ」

 エルマの瞳に、わずかな力が宿る。それは、電波や薬品で制御された「偽りの力」ではない。自らの魂から湧き上がってくる、純然たる抵抗の光だった。

 看護師は、言葉を失った。この病院で働いて数年、このような目をした患者を見るのは初めてだった。

「……今日、お薬を飲み忘れたのですね」

 看護師の問いに、エルマは答えなかった。ただ、じっと窓の外にそびえ立つ中央タワーを見つめていた。その瞳には、恐怖ではなく、静かな、けれど確かな拒絶の色が刻まれていた。

 看護師は、エルマの瞳から視線を逸らすことができなかった。自分たちの信じている「平和」が、いかに脆い土台の上に築かれているか。それを、この一人の老女の沈黙が突きつけていた。

 夜のラーヴェンの大通り。

 内務省のパトロール車両が、青い警告灯を点滅させながらゆっくりと巡回している。

 歩道を歩く人々は、車両が通るたびに足を止め、肖像画に向かうように深く一礼する。誰もが礼儀正しく、誰もが幸福そうだ。

 だが、路地裏の暗がりに目を向ければ、そこには管理区域から漏れ出してきた獣人たちが、影に潜むようにして通行人の残飯を漁っている姿がある。彼らは市民権を持たず、電波の「保護」も受けられない。

 煌々と輝く表通りと、その光が届かない闇。

 マサト王が作り上げた美しい庭園の隅々で、雑草は確実に根を広げていた。

 エルマのように「薬を飲むのを忘れた」者は、まだごく少数だ。だが、その小さな「意志」の芽吹きが、いずれ街中の人々に伝播し、完璧な合唱を狂わせていく。

 革命は、銃声から始まるのではない。

「普通だった人間」が、普通でいられなくなることから始まるのだ。

 病室の看護師は、結局、エルマに薬を強制することはできなかった。

 彼女はトレイを持って廊下に出ると、震える手で壁を支えた。エルマのあの瞳が、網膜に焼き付いて離れない。

 窓の外を見れば、夜空に浮かぶ中央タワーが、冷たく、巨大な針のように街を突き刺していた。

「……何か、おかしい」

 彼女が初めて口にしたその独り言は、夜の静寂に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。

 だが、その瞬間、彼女もまた「偽りの眠り」から目覚めようとしている一人だった。

 シンセシアの長い夜が、ゆっくりと、けれど確実に明けようとしていた。

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