フィラの仕事
シンセシアの心臓部、中央タワーの内部は、地上の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
高い天井から降り注ぐ無機質なLEDの光が、鏡のように磨き上げられた黒い大理石の床に反射している。防音壁に囲まれた執務室の中、聞こえるのは空調の微かな駆動音と、電子端末を叩く硬質な音だけだった。
フィラは、軍帽をデスクの端に置き、流れるような動作で端末の画面をスライドさせていた。
画面に映し出されているのは、膨大な数の市民データだ。名前、年齢、職業、そして直近の「愛国テスト」のスコアと、感情調整電波に対する反応係数。それらが複雑なグラフとなり、個人の「危険度」を冷徹に算出していく。
彼女の仕事は、その中から「不純分子」を抽出すること。そして、彼らを社会から適切に隔離するための執行書に、最終的な承認を与えることだった。
「……本日分、執行対象百二十四名。内、第六カテゴリーへの移送が十二名」
フィラは、感情の起伏を一切感じさせない声で独り言ちた。
彼女のアイスブルーの瞳は、まるで高性能な光学素子のように、淡々と情報を処理していく。そこには、自分の指先一つで誰かの人生が断絶するという事実に対する、恐怖も罪悪感も存在しないように見えた。
彼女にとって、これは「清掃」だった。マサト王が目指す完璧な秩序、その美しい庭園を維持するために、枯れた枝を切り落とし、害虫を駆除する。それこそが、自分を絶望の淵から救い出してくれた王への、唯一の報いだと信じていた。
ふと、画面の一箇所で指が止まった。
抽出されたリストの末尾。そこには、一人の少年の顔写真とプロフィールが並んでいた。
『対象者:イアン。年齢:六歳。理由:思想犯の家族。連座制に基づき、第七施設への収容を推奨』
六歳。
その数字が、フィラの脳裏の片隅にある、固く閉ざされた扉をわずかに叩いた。
かつて、自分にもそのような時代があった。前国王の「平等化」政策によって家を追われ、貴族としての地位も、名前も、家族も、すべてを奪われたあの日。路頭に迷い、冷たい雨の中で震えていた自分に、手を差し伸べてくれたのはマサトだった。
「……フィラ。どうした、手が止まっているな」
背後からかけられた、聞き慣れた声。
フィラは即座に立ち上がり、背筋を伸ばして最敬礼を送った。
「マサト王。……失礼いたしました。データの整合性を確認しておりました」
入り口には、スーツの上から軍服を羽織ったマサトが立っていた。彼は優雅な足取りで歩み寄ると、フィラの背後に回り込み、彼女の肩に軽く手を置いた。
「真面目なのは良いことだが、あまり根を詰めすぎるな。お前の代わりはいないのだから」
マサトの言葉は、氷のように冷たい室内で唯一の熱を持っているかのように響く。フィラにとって、その手の温もりこそが、自分がこの世界に存在して良いという唯一の証明だった。
「……自分は、王の心臓です。止まることはありません」
「頼もしいな。では、そのリストもすぐに終わらせてくれ。隣国への作戦開始まで、国内の『ノイズ』は一掃しておきたい」
マサトは画面を覗き込むこともなく、ただフィラの銀髪を一度だけ愛おしそうに撫でて、部屋を去っていった。
再び一人になった執務室で、フィラは先ほどの六歳の少年のデータを見つめた。
彼を収容施設に送れば、二度と太陽の光を浴びることはないだろう。第七施設で行われている「実験」の内容を、彼女は断片的に知っている。それは教育などという生温いものではない。人の魂を削り、従順な「部品」へと作り替えるための工程だ。
フィラは、手に持った電子ペンを、承認欄へと滑らせようとした。
だが、ペンの先が画面に触れる寸前、彼女の指先がわずかに、本人すら気づかないほど微かに震えた。
(……何をしている。これは義務だ。王の望む、正しい行いだ)
自分に言い聞かせ、呼吸を整える。
彼女はかつて、身分を剥奪された際、誰からも助けられなかった。社会という巨大な歯車が、自分を踏み潰していくのをただ眺めるしかなかった。だからこそ、今の自分は「踏み潰す側」の歯車として、完璧に機能しなければならない。
フィラは、一気にペンを走らせた。
承認。
画面上の少年のデータが、「処理済み」を示す灰色のマークに変わる。
仕事は終わった。リストは完成し、内務省の執行部隊へと送信された。これでまた一つ、この国の秩序は守られたはずだった。
だが、フィラはペンを置いた後も、しばらくの間、自分の指先を見つめ続けていた。
そこには何の色もついていない。血も、泥も、汚れ一つない。
それでも、胸の奥に、冷たい澱のような違和感が、消えずに残っていた。
(……少し、疲れているだけだ。明日の神経安定剤は、少し強いものにしよう)
彼女は再び軍帽を被り、鏡のように磨かれた床を鳴らして部屋を出た。
中央タワーの窓の外では、夕闇に染まるシンセシアの街が広がっていた。
一〇〇点の愛国テスト。穏やかな微笑み。そして、音もなく消えていく人々。
フィラは、その美しい地獄の管理人として、今夜もまた、感情のない眠りにつこうとしていた。
彼女の中に植えられた「一瞬の迷い」という種が、やがて巨大な亀裂となってこの国を揺るがすことになるとは、この時の彼女自身、まだ知る由もなかった。




