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魔王の血脈、差別という名の棘

 中央タワーが沈黙し、物理的な「洗脳」のくびきが外れても、世界は一足飛びに極楽へと至るわけではなかった。

 瓦礫の撤去が進むラーヴェンの街角では、早くも剥き出しの摩擦が火花を散らしている。

「……何だ、その目は。獣人の分際で、人間に割り当てられた配給列に並ぶな!」

「何だと!? 解放されたんだ、種族なんて関係ないだろ!」

 バーデ区(獣人街区)との境界にある配給所では、連日のように罵声が飛び交っていた。マサトという共通の敵が消え、脳を包んでいた心地よい霧が晴れた後、人々の心に残っていたのは、美しき連帯などではなく、二百年かけてよどのように溜まった「生理的な忌避感」だった。

 魔王の血を引き、かつて世界を破滅に導こうとした眷属――。

 歴史を美化した神話教育が止まったとしても、根深く刷り込まれたジム・クロウ法的な構造差別は、今や市民の「良心」や「マナー」という形に姿を変え、見えない隔離壁を維持し続けている。

 

 ルカは、そんな殺伐とした光景を、遠くから見つめることしかできなかった。

「……解放されればすべて解決すると思っていた。僕たちは、あまりに甘かったのかな」

 傍らで、ミラが沈痛な面持ちで俯く。彼女の母親は救出されたが、精神的な虚脱状態にあり、依然として獣人を見るたびに激しい拒絶反応を示すという。皮肉なことに、洗脳が解けた後のシンセシアを覆っているのは、平和という名の一時的な凪ではなく、いつ爆発してもおかしくない不平等という名の時限爆弾だった。


 一方、崩壊した市街地の片隅。人混みを避け、影を歩く一人の男がいた。

 左肩を庇うような不自然な足取りだが、その佇まいには、敗残兵特有の惨めさは微塵も感じられない。男は街外れの、比較的被害の少なかった高級眼鏡店へと足を踏み入れた。


「――こちらを」

 マサトの声は、かつての演壇の上でのそれと同じ、落ち着いたインテリな響きを保っていた。

 彼は陳列棚から、銀縁の細い、鋭角な印象を与える長方形の眼鏡を選び取った。割れたこれまでの予備ではなく、全く新しい自分を作るための道具。それをかけ、鏡を覗き込む。反射したその瞳には、反省でも後悔でもなく、ただ冷徹に現状を「点検」する数値が流れていた。

(私は、獣人差別のない世界を作りたかった。……誰もが同じように電波に管理され、同じように隣人を愛でる世界こそが、この根深い神話を殺す唯一の方法だったのだ。……だが)

 店を出た彼は、次にひっそりと営業を再開していた紳士服店へと入った。

 そこで彼は、深く、鮮やかな水色のワイシャツを選び、黒いベストと黒いスーツを合わせた。かつての「国王」としての深い青を捨て、知的で、どこにでも紛れ込めるような、けれど威圧感を漂わせるコーディネートだ。

 極めつけは、新しく選んだネクタイ。

 黒と白の太いボーダー柄(横縞)。

 規則正しく並ぶその直線は、混沌とした現在の街並みを嘲笑うかのように、整然としていた。

「……それでも差別は残る。私が強引に蓋をしなければ、この連中は再び、数千年続く憎しみという名のゲームを始める」

 マサトは、会計を済ませると、隣の精密時計店へと流れるように入った。

 ルカの一撃で砕かれたヴェロニカの懐中時計。それはもうない。代わりに彼が手に取ったのは、銀色のケースに緑色の文字盤を収めた、多機能のアナログ腕時計だった。

 秒針が静かに、しかし力強く時間を刻む。マサトはその腕時計を左手首に巻くと、リューズを回して正確な「今」に時間を合わせた。

「……ルカ。君たちが手にしたのは、自由ではない。ただ、整理されない絶望を放り出されただけだ。……果たして君たちは、これを覆すことができるのかな」

 銀縁眼鏡の奥で、マサトの瞳が微かに三日月型に細められた。

 

 かつての支配者は死んでいない。

 彼は、新しいネクタイを直し、スーツの襟を正すと、瓦礫と化した「新シンセシア」の影の中へと完全に紛れ込んだ。

 

 独裁という名の包帯を剥がされた世界には、腐りかけの傷口が晒され始めていた。

 マサトの冷ややかな問い。それに答えるべき英雄たちは、まだ立ち止まったまま。秒針の音だけが、非情に新たな混乱へのカウントダウンを開始していた。

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