灰の降る街、震える声
中央タワーの残骸から立ち昇る煙が、重苦しくラーヴェンの街を覆っていた。
電波調整施設の心臓部を失った空は、これまでのような「抜けるような青」ではなく、汚れた灰の色をしている。それがこの世界にようやく訪れた、粉飾のない「本当の朝」だった。
ルカは崩落した外壁の破片に腰を下ろし、膝の上に投げ出した自らの手を見つめていた。指先には、マサトを突き刺そうとした感触と、逸れて彼の肉を裂いたときの温い血の脂っこさが、こびり付いたように残っている。
「……仕留め損なった。あれだけのことをして、あいつは、生きている」
ルカが低く呟いた声は、傍らにいたゼフの耳に届いた。
「……生かしてやりたかったわけじゃねえんだろ、ルカ。……だったら、いいじゃねえか。あの傲慢な野郎が、自分が散々バカにしてた『汚い下水道』を這いずって逃げ出した。それだけで、ひとまずは勝利だろ」
ゼフは、ノアから手渡された鎮痛剤入りの水を飲み込み、強がって笑ってみせた。だが、彼の右肩の包帯は依然として痛々しく、周囲で呆然と立ち尽くす人々を見つめる瞳は、隠しきれない虚脱感に沈んでいる。
広場には、続々と「目覚めた」人々が集まってきていた。
だが、そこに革命を称える万歳三唱はない。あるのは、自分が何者であったか、自分がこの六年間に何を忘れていたか、そのあまりの情報の濁流に脳が耐えきれず、地面を這い、嘔吐し、あるいは泣き喚く人間の凄惨な「正気」の光景だった。
電波という名の麻薬を失った代償。それは、心地よい多幸感から、泥沼のような現実行きへ、一〇〇点の模範的な市民たちを叩き落としていた。
「――ルカ! ルカ、そこにいるのか!」
瓦礫を掻き分け、走り寄ってきた一人の男。
第32章で救出された父、エドワードだった。白髪の目立つようになったその身体はポッドの拘束具で痣だらけだったが、ルカを見る瞳だけは、電波に書き換えられる前の、あの夏の日の強い色を取り戻していた。
「……父さん。……ごめん、父さん。僕は……」
ルカは言葉を詰まらせた。父の「普通の息子でいさせてくれ」という願いを、自分は自ら踏みにじって戦った。この両手に残る血は、一生洗えない不名誉なものだ。
エドワードは何も言わず、汚れたルカの頭を大きな掌で抱き寄せ、その胸に顔を埋めた。
「……すまなかった。……俺が不甲斐ないばかりに、お前にこんな真似を。……もう、いいんだ。もう、マサトに従って笑う振りをする必要なんて、どこにもないんだぞ」
親子二人の嗚咽を、降り止まぬ灰が静かに包んでゆく。
一方、施設の排水溝から「獣人街」へと続く汚泥の底では、一人の男が呻いていた。
深い青のジャケットの左肩は、抉られたような裂傷から夥しい血が流れ出している。紺のベストは泥水に汚れ、茶色の革靴はドブの腐臭にまみれていた。
マサトだ。
彼は右手の五指を壁につき、もはや計算さえ不可能な激痛に、端正な顔を不気味な形に歪ませていた。
(……一五度……四〇ミリグラムの……熱量の、差。……私の設計図には……ルカが、刺し損ねるという計算は……存在しなかった)
彼は独り、暗闇で狂ったように、折れたピンセットを動かすような繊細さで、自身の傷の成分を分析し続けていた。反省でも、謝罪でもない。ただ、「どこを、どう直せば、次は失敗せずに民を従えられるのか」という一点のみを、空洞となった頭脳で咀嚼し続けている。
(ヴェロニカ……。お前の、支配が甘かったのだ。……次は……さらに重く。もっと……救いのない、鉄のような秩序を……組み直さねば)
彼は自嘲的に笑おうとしたが、込み上げた血で咽せ返った。
マサト、史実上の「生存」。
物語の主導権は奪われた。王の仮面も割れた。
だが、その冷徹な論理の芯だけは、泥水の中でなお、次の独裁を産み出すための胎動を、静かに繰り返そうとしている。
中央タワー崩壊の翌朝。
ルカは父の胸の中で、初めて「本当の寒さ」を感じていた。
支配がなくなったあとの、空っぽで、不完全で、どこまでも残酷なこの世界を。
物語の終わりを告げるべきはずのカーテンは、まだ開いたままだ。
灰の降るラーヴェン。革命のその先に待ち構える、あまりにも不恰好で、不平等な「日常」が、人々の震える声と共に、ゆっくりとその一歩を歩み出し始めていた。




