自由落下という名の解
地上四〇〇メートル。凍てつく黎明の空へ、二つの影が吸い込まれた。
中央タワー最上階、砕け散った強化ガラスの破片が、朝日に反射して銀色のダイヤモンドダストのように舞っている。ルカの鼓膜を叩くのは、狂ったような風の咆哮と、崩落し続ける巨大建築物の断末魔だった。
落下。その加速する重力の中で、ルカは依然としてマサトの襟元を掴み続けていた。
「――っ、これでおしまいだ……! マサト、あんたの……理屈と一緒に、ここで消えろ!!」
ルカは右手に、タワーの一部であった鋭利な黒いセラミックの破片を握りしめた。剥き出しの殺意。父の六年、ゼフの苦しみ、そしてこの国が失ったすべての「証」を叩き込むため、彼はその凶器をマサトの心臓目掛けて突き立てようとした。
一刺し。それだけで、この怪物のような平穏は終わるはずだった。
だが、マサトは墜ちながらも、依然として「観測者」だった。
ウルフマッシュの黒髪を激しくなびかせ、空を泳ぐような姿勢のまま、彼は至近距離でルカの瞳を凝視していた。
鮮やかな深い青のジャケットがバサバサと風に煽られるが、彼はその状況にあっても、赤いネクタイを汚すことを拒むように胸を張っている。
「……位置エネルギー、四十二万ジュール。……気流の乱れ。ルカ君。……君がその『破片』で私の左胸を貫く確率は、現時点で九十二%を維持している。……論理的な、最後だ」
マサトの言葉には、死への恐怖さえもなかった。
彼はルカの手首を掴むこともせず、ただ自らの指先から漏れ出す、最後の魔力を見つめていた。その指先が、空中に漂う微細なタワーの塵の組成を読み取る。
「……だが。計算外の『変数』が、もう一つ、上から降ってきているよ」
「……何……!?」
上空。崩れゆくタワーの残骸から、一筋の閃光が放たれた。
シャルの『星穿ち』。あるいは、ヴェロニカが遺した最後の残留魔力か。爆発したメインサーバーからの高負荷パルスが、落下の軌道に激しい衝撃波として干渉する。
「う、あ、あああああッ!!」
空気が爆ぜ、二人の身体が激しく揺れた。
ルカが振り下ろした渾身の刃。それは確実に、マサトの心臓を捉えていたはずだった。
だが、想定外の突風と瓦礫の直撃により、ルカの腕はわずかに、しかし致命的に「逸れた」。
ドシュ、という肉を切る音が、風の中に掻き消える。
セラミックの刃は、マサトの胸部ではなく、彼の左肩を深く深く貫通した。青いジャケットの肩口が、真っ赤な鮮血に染まり、初めてマサトの装いに、隠しようのない汚れが広がっていく。
「――くっ、あ……ッ!!」
殺せなかった。
ルカの眼に、絶望の色が混じる。
そのまま、二人は猛烈な勢いで、タワーの直下に広がる「冷却水の溜まり場」へと叩きつけられた。
轟音。
数百トンという水柱が爆発し、ルカの意識は衝撃で真っ白に染まった。肺がひっくり返るような圧迫感。暗い、冷たい、深い水の底へと沈んでいく中で、彼は自分でも気づかぬうちに、血に濡れたマサトの服を離してしまっていた。
やがて、瓦礫が降り注ぐプールの水面に、ルカの身体が浮かび上がった。
「ゲホッ! ガ……ッ! ルカ!! おい、ルカ!!」
岸辺から駆け寄ってきたのは、傷だらけのゼフと、ガルツ、そして泣き崩れていたミラだった。
ルカはゼフの腕に引き上げられ、濡れた床に膝をついて激しく咳き込んだ。全身の骨が悲鳴を上げている。けれど、それ以上に心が――今、逃してしまった「確実な死」の感覚に震えていた。
「……マサトは。……マサトを、仕留められなかった……!」
ルカが水面を指差すが、そこには沈んだコンクリートの塊が広がるばかりで、独裁者の姿はどこにもない。
「そんな、嘘……! あんな高さから墜ちて、生きてるわけ――」
「いや。……あいつは、生きている」
セオが、施設の壊れた端末を見つめながら、低い声で言った。
「見てくれ。……施設の生存反応。最深部、排水パイプに直結した『獣人街』の下水路へと逃れる……一点のバイタル・サインが残っている」
ルカは呆然と立ち尽くした。
奇麗な解決。救済。正義。それらすべてを嘲笑うかのように、現実はひどく生々しく、泥にまみれた決着を拒んでいた。
史実(じ実)とは、往々にして不細工なものだ。
怪物は死なず。少年は殺人者になりきれず。
ただ、高く聳え立っていた「洗脳の牙城」が瓦礫と化し、その瓦礫のどこかに、一人の敗残者が這いつくばって生き長らえているという、ひどく胸糞悪く、救いようのない結末だけが残された。
「……逃がした、のか。……僕は、あんなやつを」
「……追いかけられないわ、ルカ君。タワーそのものが誘爆を始めた。……今の私たちにできるのは、この瓦礫の中から、『本物の昨日』を生き延びた連中を一人でも多く救い出すことだけよ」
ノアの冷徹な言葉。
崩れ去るタワー。
背後の空からは、感情調整電波に邪魔されない、二百年分の重みを帯びた本物の「朝日」が差し込んでいた。
ルカは初めて、マサトを――あんなに綺麗だった王のジャケットを、自分たちの汚れた泥と、奴自身の濁った血で完全に汚し抜いた。
生き延びてしまった絶望。けれど、二度と同じ数式には戻れない世界。
ルカたちは、そのあまりにも不恰好な自由の始まりを、傷ついた手で抱きしめるしかなかった。




