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ミラの地図

 廃工場の地下室は、カビ臭い湿気と、錆びついた鉄の匂いが混じり合っていた。

 天井の隅で明滅する一本の蛍光灯が、ルカとゼフの影を不気味に揺らしている。地上では今も思想調査員たちが血眼になって自分たちを探しているはずだが、この厚いコンクリートの底までは、彼らの放つ殺気も届かないようだった。

「……ルカ、大丈夫か」

 ゼフが、コンクリートの床に座り込むルカの肩を叩いた。

「ああ。……ありがとう、ゼフ。また助けられた」

「礼なら後にしろ。今は、これからどうするかが先決だ」

 ゼフはそう言って、出口の方を鋭く睨んだ。

 その時、暗がりの奥から、衣擦れの小さな音が聞こえた。ゼフが即座に身構え、ルカも息を呑む。

 影の中から現れたのは、学校の制服を着た少女――ミラだった。

「……ミラ? どうしてここに」

 ルカが驚きに声を上げた。彼女はいつものように俯き、視線を合わせようとはしない。長い髪が顔の半分を覆い、その表情を読み取ることは困難だった。

「……つけてきたの。ルカが、連れて行かれそうだったから」

 ミラの声は、消え入りそうなほど細かった。だが、その足取りに迷いはない。彼女はルカの目の前まで歩み寄ると、震える手でカバンから一冊の古びたノートを取り出した。

「これを見て。……私が、ずっと調べていたこと」

 ミラが差し出したノートを、ルカは受け取った。ページをめくると、そこにはびっしりと名前が書き込まれていた。

 日付、年齢、職業、そして最後に「失踪」の二文字。

 ルカはそのリストの中に、見覚えのある名前をいくつか見つけた。工場の同僚だったガルツ。そして――昨日までこの街で「普通」に暮らしていた、近所の人々の名前。

「……これ、全部消えた人たちのリストか?」

 ルカの問いに、ミラは小さく頷いた。

「二年前……私の母さんも、このリストに入った。ある日突然、仕事に行ったきり、戻ってこなかった。政府は『再教育のために志願した』って言ったけど、そんなの嘘」

 彼女の指が、ノートの縁を強く握りしめる。

「母さんは、私を置いていくような人じゃない。……政府は、何かを隠してる」

 俯いたままのミラの瞳から、一滴の涙がノートに落ちて滲んだ。彼女が学校でいつも俯いていた理由、周囲と関わろうとしなかった理由が、ルカには痛いほど理解できた。彼女もまた、この清潔な街の裏側に潜む「穴」に、大切な人を奪われた被害者だったのだ。

「ミラ……」

「ルカのお父さんも、ここに入れられるはず。……でも、まだ間に合うかもしれない」

 ミラはノートの最後のページをめくった。そこには、手書きの地図が記されていた。

 街の地図を何度なぞったのか、紙の表面は擦り切れ、執念のような筆致が刻まれている。

「消えた人たちの足取りを調べたの。……みんな、最後はここに向かう。中央タワーから少し離れた、郊外のエリア」

 ミラの指が、地図上の一点を指した。

「『第七施設』。……公式の地図では『廃工場』として登録されてる場所。でも、夜中に何度も大型の車両が入っていくのを見た。あそこには、何かが隠されてる」

 ルカは地図を見つめた。公式には存在しない施設。消えた人々が行き着く先。

 そこに行けば、父さんがいる。

 希望と同時に、冷たい戦慄が背筋を走った。昨日まで信じていた「正しい国」の正体が、剥き出しの牙を剥いてそこに鎮座しているような気がした。

「第七施設か。……怪しさ満点だな」

 ゼフが、不敵な笑みを浮かべて地図を覗き込んだ。

「だが、そこに行くには準備が必要だ。今の俺たちはただの逃亡者だぜ。武器もなきゃ、情報もない」

「……私に、心当たりがある」

 ミラが顔を上げた。その瞳には、今までの弱々しい彼女からは想像もつかないような、静かな、けれど決して消えることのない決意の火が灯っていた。

「マサト王の支配に疑問を持ってる人たちが集まってる場所。……『革命組織』って呼ばれてる人たち」

「革命組織……」

 ルカはその言葉を、口の中で繰り返した。

 それは、今朝までの自分にとっては、テレビの中の「悪党」を指す言葉だった。秩序を乱し、平和を脅かすテロリスト。そう教えられてきた。

 だが、今は違う。

 この「偽りの平和」を終わらせるために立ち上がる者たちがいるのなら、それは自分にとって唯一の光になるかもしれない。

「ミラ、案内してくれ。僕も、そこへ行きたい」

 ルカの言葉に、ミラは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく微笑んだ。それは、彼女がルカに初めて見せた、本物の笑顔だった。

「……分かった。行こう、ルカ」

 地下室の重い空気が、わずかに動いた。

 一人の少年の悲劇が、一人の少女の孤独と重なり、大きなうねりとなって動き出した瞬間だった。

 ルカ、ゼフ、そしてミラ。

 三人は、偽りの平穏を脱ぎ捨て、より深い闇の中へと足を踏み入れた。その先にあるのが希望か、それともさらなる絶望か。それを知る者は、まだ誰もいない。

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