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独裁者の幾何学、あるいは虚飾の崩壊

 瓦礫が静止し、世界の彩度が剥がれ落ちていく。

 ルカの血塗れた右手が、ついにマサトの「完璧」を捉えた。鮮やかな深い青のジャケット、その襟元。マサトの心臓が刻む、あまりに精緻で冷徹なビートを、ルカの掌が直に感じ取った。

 ドサリ、という音を立て、二人は床に転がった。


「――汚れたね。四ミリグラムのヘモグロビン。炭素汚れ、汗の脂質。……君がこの『純粋な理論』に持ち込んだ、最初の不純物だ」

 マサトは、背中を冷たい大理石に打ち付けてなお、一切の取り乱しを見せなかった。

 ウルフマッシュの黒髪が、僅かに瞳に掛かる。彼は仰向けに倒れたまま、自分のジャケットに付着したルカの手形――ドロドロの泥と血で汚れたその跡を、ただ無機質な好奇心だけで眺めていた。

 痛みを感じているはずだ。ルカの拳は、彼のあばら骨を確かに砕いた。

 だが、マサトの計算脳エンジンは、もはや己の肉体の損傷さえ「データの変動」として処理していた。

「……父さんを、返せ……っ!! こんな地獄、あんたが勝手に書き直しただけじゃないか!!」

 ルカがマサトの胸ぐらを掴み、吠える。

 その刹那。マサトのアイスブルーの瞳が深く沈み、過去という名の『破綻した記録エラーログ』が、二人の意識の接点を伝って逆流し始めた。

 ――そこにあったのは、十五歳の冬。

 「平等化」を旗印に掲げた前国王の私兵たちが、マサトの実家へ踏み込んできた夜の情景だった。

 ルカたちが想像するような「悲劇のヒーローの物語」など、そこには欠片も存在しない。

 泣き叫ぶ両親。許しを請う、惨めで不格好な人間。十五歳のマサトはその様子を、部屋の隅で、冷めた目で見つめていた。

(なぜ泣くのか。酸素が足りなくなる。騒音が脳を揺らす。この『事象』を排除するための最短の解を導き出せばいいのに)

 その瞬間に、彼の異能『元素読取げんそよみ』は覚醒した。

 彼が最初に「分解」したのは、襲ってきた兵士たちの首でも、命乞いをする父の口でもなかった。

 彼はただ、この『見苦しい場面のすべて』が、あまりにも非論理的な数式のミス(ゴミ)であることに耐えきれず、覚醒した手のひらで、実家の建材すべてを塵に変えたのだ。

 

 自らの力で両親をも塵の下に埋め、灰色の瓦礫の中にたった一人で立ち、彼は確信した。

 感情とは、数式の入力ミスだ。

 過去とは、無駄な記憶容量の浪費だ。

 だから、それらすべてを「再教育デリート」し、自分だけが正しいと定義する「定数」によって世界を満たせば、二度とあのような不格好な事象は起きないはずだった。

(……ヴェロニカを雇ったとき、私は期待していたのだ。時間を支配する者がいれば、私の計算を過去にまで拡張できると。……だが彼女は、『感情という名の執着』を手放せなかった。……そこが第一の計算違いか。再教育の深度を三%深めるべきだった)

 マサトの思考が、ルカの耳に直接、氷の礫となって降り注ぐ。

 彼は悔いているのではない。自身の罪を悔やんでいるのではない。

 彼は、自らの統治ゲームに敗れたこの瞬間において、何が敗因だったのかを、まるで修正パッチを当てるエンジニアのような無機質さで精査し続けている。

(……ニアというサンプル。あの共鳴能力をハクアという脆弱な心体に繋いだのが第二のミス。フィラに関しては、当初から不確定要素として除外すべきだった。あの子に足りなかったのは愛国心ではない。思考を止めるための、もう一層のプロトコルだ。……それがあれば、今回のバグは発生しなかった……)

 マサトは右手を動かし、崩落しかかった天井の塵の組成を読み取った。

 もはや魔力も、理屈も通用しない崩壊のさなか。それでも、彼の指先は、灰の中にまだ生きている自身の「支配の続き」を計算し続けている。

「……マサト!! まだ……まだ反省してないのか!! あんた、それでも人間なのかよ!!」

 ルカが絶望と共に問いかけたその時、マサトはふっと、静かに笑った。

 初めて見る、どこか和らいだ、しかし完全に壊れた男の笑顔。

「反省……? そんな意味のない行為をなぜ私が。……ルカ君、私は今、『成功した場合のシミュレーション』に忙しいんだよ。……君がもう少し鈍感だったら。あるいは私が、愛というラベルをもっと巧みに君の脳へ貼り付けられていれば。……そう、マサト王への愛を、母へのそれと、一〇〇%混同させていれば。……今頃、私は玉座で紅茶を飲み、君は私の忠実な『腕』として微笑んでいたはずなのだが」

 マサトは汚れた深い青のジャケットのボタンを、一つだけ留め直した。

 彼は敗北さえも、次の機会の踏み台にすらしない。

 彼はただ、正解のない問いの迷宮に自らを閉じ込め、永遠に解けることのない数式の中に閉じこもる。それだけが、あの夜に親さえも捨て、己を空洞へと堕とした彼の、唯一の存在証明なのだ。

「……私は……何を、間違えた……。成分比……? 照射角度……? それとも……君の心という名の、この手に残る……一五℃という、計算外の『体温おんど』のせい、なのかな……?」

 マサトは手のひらをルカの顔へと近づけ、最後に優しく微笑んだ。

 

 地獄を作った男は、地獄の中でも、自分の作ったロジックを抱きしめたまま死んでいく。

 崩壊する中央タワーの最上階、砕け散る窓。

 ルカとマサト、二人の影が、黎明の光を切り裂き、地上四〇〇メートルという名の『終幕』へと真っ逆さまに突き落とされた。

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