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歴史という不純物

 瓦礫が静止し、物理法則が凍結した絶対領域。その中心でマサトは、まるでオペラの指揮者のように優雅に十指を動かしていた。

 彼の鮮やかな深い青のジャケットには、煤ひとつ飛んではいない。紺のベスト越しに覗く白いシャツも、首元の赤いネクタイも、この世界の崩壊を拒絶するかのように完璧な形状を維持している。

「――ムダだよ、ガルツ君。君のその節くれ立った腕、老いた筋肉の繊維……その組成はすでに私の網膜が解析を終えている。君が踏み込むより先に、その細胞結合をゼロに戻そう」

 マサトは穏やかに微笑み、掌を真っ直ぐに突き出した。指先から溢れ出す高密度の魔力が、不可視の分解振動となってガルツの巨体に襲いかかる。

 だが、その瞬間。

 ガルツは避けるどころか、哄笑を上げて一歩踏み出した。

「……ガハッ! あいにくだな、王様。俺の細胞はな、あんたの綺麗な計算表に載るほど等質じゃねぇんだよ!!」

 ガルツの体に刻まれた、無数の傷。火傷の跡、重機に挟まれた痕跡、そして六十二年分、ラーヴェンの底辺で浴び続けてきた煤と泥。

 それらはマサトが望む「洗脳された清浄な市民」のデータには存在しない、計算外の不純物そのものだった。

「――っ、何だと? 構造が……安定しない? 君の腕にあるその炭素組成は、一体何の汚れだというんだ……!」

 マサトの眉が、わずかに、本当にわずかにピクリと動いた。

 彼の『元素読取げんそよみ』は、完璧に均質化された物質こそを容易に分解できる。だが、ガルツの肉体には、マサトが否定し続けた「雑多な歴史」が、不純物という名の防壁となって凝縮されていた。

「今だ、セオ! やっちまえ!!」

「言われなくても! ……マサト、お前に俺の最後の発明品をプレゼントしてやる!」

 後方で、ボロボロになったセオが叫び、無理やり端末を床の端子に叩きつけた。

 それはタワーを止めるためのプログラムではない。セオが六年間の逃亡生活で集め続けた、電波によって「消去されたはずの市民の絶叫」――その波形を、マサトが直接制御しているタワーの魔力伝達管に、不純物として逆流させる『ギルティ・パッチ』。

「――グ……アッ……!? この……ノイズは……何だ……!?」

 マサトの脳内ネットワークに、計算不可能な負の熱量が流れ込んだ。

 二百年分。奪われた貴族の慟哭。無視された獣人の呻き。そして、六年前のあの日、彼が「美しく掃除した」はずの広場の死臭。

 マサトの瞳に、不自然なエラーログのような青い光が点滅する。だが、彼はそれでもなお、姿勢を崩さない。左手でデスクに残った冷え切った缶コーヒーを掴み、喉を鳴らして飲み干した。

「……面白いね。感情という名の非論理的なデータを、私の解析システムにぶつけてくるなんて。……だが、不愉快だ。論理的ではない……実に、美しくない」

 マサトは缶を床へ静かに置くと、両掌を大きく広げた。

 彼の指先から、バチバチと火花が散る。それは魔法の光ではない。あまりの演算過負荷に、彼自身の神経系がショートしかけている物理的なスパークだ。

 それでも、彼の紺のベストには一点の汚れもなく、茶色の革靴は大理石の破片の上でも毅然と立ち続けていた。

「ノイズなら……平均化(均質化)すれば済むこと。……世界中の脳を私のプロセッサと同期させ、全市民の苦痛を『零』へと固定しよう」

「させない……! あんたに、これ以上……みんなを数字扱いにさせないッ!!」

 ルカはガルツが作った一瞬の道、分解が滞ったその隙間に飛び込んだ。

 父、エドワードのポッドの前で、マサトという名の冷徹な巨神を見上げる。

 

 マサトの完全覚醒は、まだ終わっていない。

 彼は指先を美しく交差させ、今度はこのフロア自体の「重力」そのものを分解し始めた。

「――浮かびなさい、亡霊ども。空虚な情熱など、私の作り上げた重力加速度の中では一ミリも前へ進めないのだよ」

 部屋が、そして世界が、マサトの意思ひとつでバラバラの幾何学模様に解体されていく。

 崩れゆく空間、浮遊するデスク。

 その光景の中心で、汚れ一つない王者の姿だけが、地獄の中で最も完成された美しさを保ち続けていた。

 だが。

 ルカの『観察眼』は、ついにその奥、マサトの指先を動かしている「心臓」の激しい不整脈ビートを、確信をもって捉えていた。

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