数式を撃ち抜く鼓動
瓦礫が宙に浮き、磁力線が青白い稲妻となって壁を這う。崩壊の一途を辿る『真理の回廊』は、マサトが放つ圧倒的な魔圧によって、異質な重力圏へと変貌していた。
マサトは依然として落ち着いた様子で、左手の掌をひらりとルカの方へ向けた。
「――構成、理解。空気中の窒素と酸素の結合を励起。爆発しなさい」
刹那、マサトの指先から、目に見えないエネルギーの波が奔った。
ルカの目前の空間が急激に膨張し、熱波が爆音と共に弾ける。
「くあぁぁぁっ!」
吹き飛ばされるルカ。その体は床を転がり、鋭い大理石の破片で脇腹を深く抉られた。鮮血が床の黒に飛び散る。
マサトは悠然と、歩みを止めることはない。紺のベストの上に羽織った青のジャケットの裾が、彼自身の放つ魔力の風に揺れている。
「驚くことはないよ、ルカ君。私に見える世界では、すべての物体は座標と構成元素のデータに過ぎない。君が心臓を動かすために燃焼させている糖分、血中の鉄分……そのすべてが、私の手のひらの上で操作可能な数字でしかないんだ」
マサトの五指が、ピアノを奏でるかのように繊細に動く。
その指先一つひとつから、高密度の魔力が糸のように伸び、崩落した天井のコンクリート片を空中で再構築してゆく。再構成された瓦礫は、鋭利な矢の群れへと姿を変え、意志を持ったかのようにルカたちを包囲した。
「ゼフ、ミラ……避けるな! 耐えるんだ!」
「言うのは簡単だぜ……っ!」
ゼフは焼け残った槍の石突きを床に突き立て、飛来する『瓦礫の矢』を根性で叩き落としていく。ミラの銃撃も、マサトの周囲に展開された磁力障壁によって、衝突した瞬間に火薬そのものを「分解」され、乾いた不発音を鳴らすばかりだった。
圧倒的な力。科学の英知を極めた天才が、その頭脳と直結した膨大な魔力を振るえば、奇跡など起きるはずもない。
だが、マサトの美しい横顔に、ルカはかすかな違和感を上書きし続けていた。
マサトの視線が、モニターではなく、絶え間なくルカ自身の動きを追っている。ルカが血を流すたび、ゼフが呻きを上げるたびに、マサトの計算速度はミリ秒単位で「上昇」を強いられていた。
「ノア……今のうちだ! 『停止装置』を!!」
ルカの叫びに、物陰に潜んでいたノアが、残された最後の回路を叩き起こした。
それは感情調整電波の「停止」ではない。その三層構造を逆手に取った、『共鳴ノイズ』の一斉照射。
「……計算、妨害……。意味はないと言ったはず――っ!?」
マサトの表情が、初めて苦痛に歪んだ。
彼の優れた観察眼が読み取る、世界の構成データ。そこにノアが送り込んだ「剥き出しの悲鳴」が、非論理的な不純物として彼の脳内ネットワークに流れ込んだのだ。
六年前の亡霊たちの声。薬で消された、名前のない慟哭。
完璧だった計算式が、そのわずかな感情のノイズによって微かな桁ズレ(バグ)を引き起こす。
「……私の……理論を汚すな……!」
マサトの両掌に、暴力的なまでの青い光が集約される。
彼は赤いネクタイを緩める余裕さえ失い、ウルフマッシュの黒髪を激しく振り乱した。手のひらから溢れ出すのは、もはや繊細な分解ではない。すべてを均等に破壊しようとする、底知れない「拒絶」の manaの奔流だ。
「消えなさい……不確定なゴミどもが! 計算しきれない愛や怒りなど、この清浄な数式の前にはノイズに過ぎないんだよ!!」
放たれた衝撃。最上階の窓ガラスが一斉に粉々に砕け散り、タワーの中枢が断末魔を上げるようにきしみ始める。
だが。
その極光の中を、ルカは這うようにして、前へ進んでいた。
指先の感覚はない。全身の骨がきしみ、脳裏には「死」という答えが点滅している。
けれど、マサトには見えず、ルカに見えるものが一つだけあった。
(――あんたは、泣いてるんだ、マサト)
データの奥底。完璧な論理の鎧の、その隙間。
両親を奪われ、絶望から立ち直るために、世界そのものを計算可能なモデルに落とし込もうとした、ひとりの孤独な十五歳の少年の残り火。
「マサト!! あんたが計算しているのは、世界じゃない! あんた自身の……淋しさだけだろ!!」
ルカの言葉が、マサトの手のひらから溢れる青い光を貫いた。
衝撃が空間を裂き、崩壊する玉座の間の中心で、二人の「観測者」の視線が至近距離で交錯した。
マサト、第二段階。
絶対的な静寂を保っていた男の、冷徹な仮面がついに割れ、剥き出しになった魂の「熱」が、この死の演算装置を暴走させようとしていた。
勝負はついに、最終局面へ。
計算可能な絶望を、計算不能な人間の鼓動が、今、完全に凌駕しようとしていた。




