零れ落ちた懐中時計
『真理の回廊』を支配する時計の針が、狂ったように高速で逆転し始めていた。
ヴェロニカが掲げる懐中時計。そこから溢れ出す濃密な魔力が、現実の因果をズタズタに切り裂き、ルカたちの存在を時間の狭間へと押し潰そうとする。
「……消えなさい。不確かな『明日』など、この完全な停滞の中には不要よ」
ヴェロニカの黄金色の瞳が、冷徹な美しさを湛えて細められる。彼女の一振りが、空間そのものを『断絶』させ、ゼフの槍を、ノアの結界を、まるで存在しなかったかのように消去していく。
絶体絶命。視界が白濁し、ルカの意識が遠のきかけたその瞬間――。
ルカの『観察眼』が、一筋のノイズを捉えた。
それは、ヴェロニカが刻む『完璧な時間』の中に混じった、微かな機械油の匂い。
そして、彼女が懐中時計を握り込む指先に宿った、一瞬の「震え」。
(――違う。彼女は、時間を支配しているんじゃない。時間に、追われているんだ!)
ルカは喉が焼けるような叫びと共に、自らの命を燃やすほどの集中力で、歪んだ因果の隙間に飛び込んだ。ヴェロニカの不可視の不可侵領域。そこに唯一、生身の拳を突き入れるために。
「……マサトへの投資なんかじゃない!! あんたはただ、自分が『消える』のが、怖いだけだろッ!!」
ルカの絶叫が、時計の鳴動を上書きした。
激突。ルカの拳が懐中時計を支える銀鎖を弾き、衝撃が彼女のオッドアイを大きく揺らした。
その瞬間。
壊れた歯車が飛散するように、ヴェロニカの意識の奥底、二百年間封じ込めてきた「記憶の泥濘」が溢れ出した。
――そこは、煤煙の匂いと、静かなギアの回転音に満ちた、小さな時計屋だった。
若き日のヴェロニカは、父の傍らで、真鍮の針をピンセットで掴みながら微笑んでいた。魔王が倒れ、魔法の時代が終わろうとしても、職人の手の中にある時間は、いつだって誠実だった。
『ヴェロニカ、いいか。時計は、想いを刻む器だ。主が消えても、このネジの巻き心地だけは残るんだよ』
優しかった父の手。
だが、その手はやがて、前国王が掲げた「平等化」という名の、無機質な暴力によって奪われた。
身分の剥奪。職業の制限。
代々守ってきた時計屋は「旧特権階級の残滓」として焼き払われ、獣人としての蔑称と共に、彼女は冷たい雨の中へと放り出された。
それからの二百年。
彼女が愛したもの。慈しんだ仲間。誇りにしていた技術。そのすべてが、歴史の奔流に流され、跡形もなく消えていった。
『……また、消えた』
鏡を見るたび、自分の輪郭が薄くなっていくような感覚。長く生きれば生きるほど、自分がこの世界に存在しているという「証」が、指の間から零れ落ちていく。
だから。
だから彼女は、支配を選んだ。
マサトという名の巨象に魂を売り、絶対的な構造の歯車となることで、支配した相手の『恐怖』の中に、自分の名を永遠に刻みつけようとしたのだ。
『私が私でいられるのは……誰かを、縛っている間だけ……!』
脳裏に浮かぶ、父の焼け焦げた懐中時計。
フラッシュバックの果て。
現実に立ち戻った彼女の目の前にあったのは、敵であるはずの少年の、ひどく熱く、必死な眼差しだった。
「……ヴェロニカ!! あんたは、消えたりしない!! 支配なんかしなくても、あんたに人生をめちゃくちゃにされた俺たちが……この痛みが、あんたが生きてきた証明だ!!」
ルカの手が、彼女の胸元に零れた懐中時計――彼女の「傷の核心」を、真っ向から掴み取った。
「――っ!?」
バキ、と乾いた音がして、銀の時計の蓋が砕け散る。
同時に、ヴェロニカを覆っていた『支配の鎧』が、剥がれ落ちるように霧散した。
ヴェロニカは、大きく後退し、大理石の壁に背を預けた。
崩れ、縋ることはない。
けれど、そのオッドアイからは、これまでの絶対的な超越性は失われていた。アッシュグレーの髪が乱れ、剥き出しになった彼女の「孤独」が、荒い吐息と共に溢れ出す。
「……面白いわね。支配者ではなく、被害者の憎しみの中に私を探すだなんて」
彼女は、血の滲んだ唇を噛み切り、自嘲気味に笑った。
「マサト王への投資は……大赤字ね。二百年かけて積み上げた私の時間が、たった一人の子供の熱(体温)に、負けるだなんて」
彼女はゆっくりと、自分の空っぽの手のひらを見つめた。
そこにあった懐中時計は、もう動かない。
だが、不思議なことに。自分の輪郭が薄れていくあの恐怖は、今はどこにもなかった。
この少年の瞳に刻まれた、鮮明な自分への敵意。
それこそが、彼女が二百年間求めてやまなかった、どんな魔術よりも強固な『自分がここに存在した証』そのものだったから。
「……行きなさい。扉は、もう開いているわ」
彼女は懐中時計を床に落とした。
それは彼女にとっての降伏ではなく、支配者という役職からの、静かな離脱だった。
「ヴェロニカ……!」
「ルカ! 先を急ごう!」
ゼフに促され、ルカは一度だけ彼女を振り返り、そして、重厚な扉の奥へと駆け出した。
背後に残された古狐は、一度も追撃しようとはしなかった。
彼女はただ、落ちた時計の部品を、愛おしそうに見つめている。
二百年分の虚無が、少年の拳によって穿たれ、ようやく風が通るようになった。
タワーの崩壊を告げる大音響が、彼女の周囲の石造を崩していく。
「……ああ。お父様。時計の修理は……終わりましたわ」
最強の門番が座を譲り。
物語はついに、この地獄を作り上げ、最果てで待つ男――国王マサトとの最終対面へと踏み込んだ。




