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綻びの最上階(前編)

 中央タワーは、もはや静謐な支配の塔ではなかった。

 下層でフィラが引き起こした大軍の足止め、そして市街地での民衆の蜂起による供給エネルギーの不安定化により、タワーの内部機構は断続的なショートと警報音を撒き散らしていた。

「――っ、また視界が……! これ、あの時の……エレノアの霧か!?」

 七十五層。マサトの居住区を目前にした円形広場は、一面の淡い紫色の煙に包まれていた。かつての補助電波塔の時とは比べものにならないほど濃い。呼吸をするだけで喉の奥が焼け、平衡感覚が狂い出す猛毒のカーテン。

 ルカは『観察眼』で必死に霧の揺らぎを捉えようとしたが、その瞬間、横合いから銀の礫が猛スピードで飛来した。

「えへっ、あはははは! 何これ、真っ暗じゃーん! 逆に面白くない!?」

 高笑いと共に、アイリスが壁を蹴って舞い降りた。彼女の氷青色の瞳は、視覚を奪われた空間でも「楽しさ」という狂気にぎらついていた。

「アイリス……!? 君もマサトを守るつもりか!」

「まーもーる? そんなのどーでもいーの。でも、シャルが最近全然遊んでくれないからさ。君たちを凍らせれば、アイツまた私のこと見てくれるかなーって!」

 アイリスの振るう氷の槍が、ルカをかすめる。そこに呼応するように、霧の深淵からエレノアの冷徹な声が響いた。

「……聞き捨てなりませんわね、アイリス。貴女の無軌道な遊びで私の霧をかき消さないで。これは……私の最後の『生存戦略』なのですから」

 霧の中から、プラチナブロンドを濡らしたエレノアが姿を現した。扇で口元を覆っているが、その瞳にはかつての旧貴族としての余裕はなく、ただ追い詰められた者特有の狡猾な光が宿っている。

「……エレノア様。あんたは、自分の命が惜しいからマサトについていたのね」

 ミラの言葉が、エレノアの眉間に深いシワを刻んだ。

「お黙りなさい、旧王国の『残党』。私のような、種族も地位も剥奪された獣人が、この残酷な世界でどれほどの苦しみを味わってきたか……貴女のような温室育ちの子供に分かってたまるものですか。私は、マサト様が作る新しい秩序に自分の価値を売り払ったのよ。裏切り者が作ったその旗と共に、心中なんて真っ平!」

 エレノアが扇を薙ぐ。霧が物理的な圧力を持ち、ミラを壁へと押し飛ばした。

 敵同士であるエレノアとアイリス。だが、今の彼女たちは、崩壊するタワーの中で自らの存在を繋ぎ止めるため、互いの毒と氷を最悪の形で混じり合わせ、地獄のようなトラップを形成していた。

「アイリス! 君は知ってるはずだ、マサトが君たちをどう見てるかを! シャルだって……!」

「うるさーい! 君、分かった風なこと言わないでよ!」

 ルカの説得に対し、アイリスが豹のデカ尻尾を激しく床に叩きつける。その瞬間、足元が瞬時に凍りつき、さらにそこへエレノアの毒霧が吸着してゆく。氷結による「呼吸停止」という最悪の攻撃。

「ノア! 解毒剤の効果は!」

「ダメ……。タワーが魔力を吸収してて、生成速度が追いつかない……! このままだと……!」

 絶体絶命の瞬間。

 その混乱を切り裂いたのは、誰の声でもなかった。

 ――タワー全体が、かつてないほど激しい縦揺れに襲われた。

 ドォォォォォン……!

 轟音。外から、何百、何千という民衆の声が聞こえてくる。それは悲鳴ではない。咆哮だ。中央タワーを物理的に破壊し始めた民衆の怒りが、ついに支配の防壁を物理的に穿ち始めていた。

「なっ……何事!? タワーが……倒れると言うの!?」

「あはは! マジやばっ! 死ぬのもイベントなら面白――っ!?」

 崩落した天井から降り注いだ瓦礫が、エレノアとアイリスを分断した。

 もはや決闘どころではない。

 エレノアは恐怖に目を見開き、自身の誇りであるはずのドレスさえ泥に汚し、タワーの中枢へと這うようにして逃げ出した。アイリスはそれを見て一瞬固まったが、すぐに愉快そうに舌を出し、その影を追うように跳び上がる。

「追いかけましょう、ルカ! マサトの元へ逃げる気よ!」

「ああ。……行くぞ、これが本当の最後の夜だ!」

 もはや敵も味方もない。

 ただ崩れゆく神殿の中で、剥き出しになった魂が、互いの「出口」を求めて交差していく。

 

 次々とショートする施設。

 混乱の極致に達した霧と氷の通路。

 その向こう側――ついに現れる、玉座の間への大階段。

 ルカたちは瓦礫を蹴り上げ、もはや正気を失いかけたエレノアたちの背を、怒涛の勢いで追随した。

 マサトとの最終対面は、もはや静かな議論の場ではない。

 崩れ去る国家という、断末魔の声と共に始まることになる。

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