断ち切られた糸
中央タワー七十層、重力制御と高張力鋼の資材が複雑に絡み合う『空の階』。
そこは剥き出しの鉄骨が空中に浮遊し、一歩踏み外せば地上四〇〇メートルへの自由落下が待つ、死の綱渡りのような戦場だった。
「――そこ。……動かないでって言ってる、でしょ?」
空間を裂くような、銀色の火花。
ルカの視界が、肉眼では捉えきれない無数の「死線」に覆われた。ハクアが放つ一ミリにも満たない超高張力鋼線だ。それが月光を反射し、格子状に張り巡らされ、ルカたちの動線を完全に封鎖している。
「くっ……! 前に進めない……!」
ルカは身をよじるが、服の袖がかすっただけで、布地が音もなく裂けた。
その鋼線の結節点に、ハクアが立ち、その背後には守るようにニアが蹲っていた。
「マサト王は、ここにはいらっしゃらない。……君たちの歩みは、この俺が、この腕(武)が尽きるまで、ここで止める」
ハクアの声は冷徹だ。だが、その耳先が微かに震え、腰に巻かれたデカ尻尾が焦燥に震えているのを、ルカは見逃さなかった。
「ハクア、そんなに強張ってちゃ、鋼線に熱が伝わりすぎだよぉ……」
背後のニアが、震える声で笑う。
「大丈夫……。わたし、見てるから。路地の反射も、弾丸の軌道も、全部見えてるから、大丈夫だよ、ハクア」
ニアは銃を構えるが、その手が小刻みに震えている。空間認知能力が、自分たちが追い詰められている現状を、皮肉にも鮮明に捉えすぎているのだ。
「……ハクアさん! もういいんだ! 君も気づいているんだろ。外の兵士たちも、民衆も……みんなマサトから離れ始めてる!」
「離れる……? それがどうした」
ハクアは、さらに多くの鋼線を展開し、まるで蜘蛛のように空中を滑走した。
「……世界中が背を向けても、マサト王が俺を拾ったという事実は変わらない。俺に、戦うための意味を与えてくれたのは、あの方だ。……もしこの場所(檻)を失えば、俺には……二百年戦うことしかできなかった俺には、何も残らないんだ!!」
それは、誇りではなく「寄る辺」のない者の叫びだった。
ハクアのフラグ⑭『続けられなくなることへの恐怖』が、鋼線の一撃一撃に苛烈な重さを乗せていく。
「……セオ、ノア! 今だ!」
ルカの叫び。その瞬間、ノアが手元に温めていた電磁攪拌ポッドが爆発した。鋼線を支持していた磁力アンテナを、セオがハッキングで強引にショートさせたのだ。
「なっ……!?」
空中の鋼線が、緩む。
支えを失った鉄骨が崩落し、爆煙が立ち込めた。
「ハクア!」
ニアが叫び、手を伸ばした。
だが、その手は空を斬った。ルカたちが計算通りに仕掛けた分断。崩壊する足場によって、ニアとハクアの間に巨大な亀裂が生まれる。
「あ……ああ、あ、ハクア! いない、どこ? 見えない、何にも見えないよお!」
依存先であるハクアの気配を失い、ニアは錯乱して自傷するように自分の腕を引っ掻き始めた。空間認知の異能が暴走し、彼女は自分の存在の境界さえ見失っていく。
「――っ、ニア!!」
ハクアは鋼線を使い、必死に彼女の元へ跳ぼうとした。だが、崩落する資材にその「見えない武器」が絡まり、自らの誇りであった鋼線が、皮肉にも自らを拘束する鎖となった。
「放せ! あいつの側に行かなければ……! 俺がいなければ、あいつは……!」
ハクアは狂ったように鋼線を引きちぎろうとする。二百年間、守ってきた己の武の尊厳を、自らで汚すように。
「ハクアさん……。……ニアが探しているのは、戦う君じゃないよ。……君の、温かい腕だろ」
ルカは、崩れそうな鉄骨の上を走り、ニアの体を抱きかかえた。
「あ……ああ……?」
「もう見なくていい。……ハクアは、すぐそこにいる」
ルカがニアを、安全な足場――ハクアが必死に腕を伸ばしているすぐ傍へと運び出した。
鋼線から自由になったハクアが、倒れ込んだニアを力一杯抱きしめる。デカ尻尾が彼女の震える体を優しく包み込み、耳と耳が重なり合った。
「……ハ、ハクア……。ここに、いる……?」
「ああ。……ここにいる、ニア。……どこにも行かない。王の剣でなくなっても……お前の場所には、なり続ける」
二百年、戦いの中にしか「生」を見出せなかった武人は、ボロボロに引きちぎれた鋼線と、膝の上に泣きじゃくる一人の少女を見つめ、静かに敗北を認めた。
それは、呪いのような忠誠からの、初めての「退却」だった。
「……ルカ。……マサト王には、報告しなくていい。……ハクア・ペトラコフは、ここで戦い、ここで消えた……そう伝えてくれればいい」
ハクアはルカから視線を外し、最愛の依存先を抱え、闇の中へと消えていった。
二つの『星』は重なり合い、戦いから解放された静かな軌道を描き始めていた。




