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洗脳という名の鏡

 夜明け前のシンセシアは、いつもなら静謐な揺りかごのように穏やかなはずだった。

 中央タワーから発せられる微弱な「感情調整電波」が、眠りに就く人々の脳波をなぞり、不規則な夢を規則正しい「平穏」へと書き換える。それがこの国における、汚れなき眠りの形だった。

 だが、今夜のラーヴェンの街には、その完璧な調律から外れた「不協和音」が満ちていた。

 繁華街の広場。いつもならマサト王の慈悲を讃える音楽が流れる街頭スピーカーは、激しいノイズを撒き散らしていた。セオが放ったバックドアによる介入と、各地で発生している不自然な通信障害が、この完璧なシステムの皮膚を一枚ずつ剥ぎ取っている。

 街灯の光に照らされた鏡張りのビルの窓。そこに映るのは、かつてのように整列し、穏やかに微笑む「模範的な市民」の姿ではない。

 一人の老人が、膝を折って号泣していた。

 一人の母親が、虚空を見つめ、腕の中にいない「何か」を求めて名前を呼び続けていた。

 電波が乱れ、脳の深層に隠されていた『第十七アパートメント』の記憶、あるいは『六年前の赤ん坊の声』が、不完全なまま表面へと浮き上がってきているのだ。

 人々は、鏡の中の自分を見つめ、愕然としていた。そこにいるのは幸福な市民ではなく、大切なものを奪われ、傷つき、それを自覚することさえ禁じられてきた「空っぽの器」に過ぎなかったのだから。

 施設を囲む検問所の詰め所。そこでも、崩壊は極致に達していた。

 机の上には、一冊の軍用手帳が開きっぱなしで置かれている。それは第30章で揺らぎを見せていた兵士、カイルのものだった。

 最後の一節には、震える文字でこう記されていた。

『――俺の右手に染みついている、この硝煙の匂いは何だ。昨日、訓練校を卒業したはずなのに、なぜ十年前の銃身の熱さを覚えている。

 マサト王の顔を見ると、胸が熱くなる。だが、それは恋心でも尊敬でもない。焼熱した鉄を押し付けられるような、鋭い苦痛だ。

 俺が今日、銃を向けて殺したのは誰だ。……鏡を見た。そこに映っているのは、英雄マサト王を守る忠義の盾ではなく、自分の心を自分に売り渡した、卑怯な亡霊の姿だった』

 手帳は、主の手を離れて床に転がった。カイルは今、持ち場を離れ、洗脳の霧から解き放たれつつある己の足で、この不毛な防壁の向こう側へと走り出していた。彼だけでなく、施設内では、銃を捨て、自らの頭を抱えて呻く兵士たちが続出している。

 「鏡」は割れた。

 マサトが作り上げたこの国という名の巨大な鏡は、王の美しさを映す道具ではなく、国民一人ひとりが自らの醜悪な真実と向き合うための凶器へと変貌していた。

 一方、第七施設の深部。

 「処理室」へと続く最奥の通路を、ルカ、ミラ、そしてセオとノアが駆け抜けていた。

 外部の混乱により、施設の防衛システムは一時的なマヒ状態に陥っている。だが、その静寂は不気味だった。ここには電波の影響を受けない「特別な調整を受けた個体」――即ち、感情を完全に捨てさせられた猟犬たちが、マサトへの絶対的な愛だけを武器に待ち構えているはずなのだ。

「……もうすぐだ。このハッチの先が、お前の親父さんが収容されている、第零調整槽だ」

 セオが、汗を拭いながら重厚な耐圧扉のパスワードを入力する。

 ルカは、第27章でゼフが語った父の言葉を反芻していた。

(――俺たちの戦いを忘れさせて、普通の少年として生きさせてくれ)

 父の願いを裏切り、自分は今、この血なまぐさい革命の中心にいる。

 けれど、ルカに後悔はなかった。父の戦いを忘れ、何不自由なく「普通」に生きる幸福よりも、たとえ傷だらけでも父と共に真実を見据える苦痛を、彼は自分の意志で選択したのだ。

 プシュ、という激しい減圧音とともに、重厚な扉が開いた。

 青白い液体に満たされた無数のシリンダー。その最深部、ひときわ大きく、血管のような配線が絡み付いたポッドの前に、ルカは立ち止まった。

「……父さん」

 そこには、六年前から時が止まったままのように痩せこけた、けれど、まぎれもない父・エドワードの姿があった。

 

「ルカ。……来るんだ、父さんに。もう一歩、近付いてごらん」

 その優しく、包み込むような声。

 だが、その声は目の前のポッドから響いたのではない。

 背後の闇の中から、足音もなく近づいてきた「影」から発せられたものだった。

 ルカが振り返ると、そこには漆黒のスーツに身を包んだ、優雅な立ち姿の男が立っていた。

 ウルフマッシュの黒髪を無造作にかき上げ、顔の左半分に、カリスマ的な知性と、それ以上に深く澄んだ狂気を宿した瞳――。

 マサト王。

 この地獄を作り上げ、父を、そして民の魂を奪った張本人が、慈悲深い笑みを浮かべてそこに立っていた。

「久しぶりだね、ルカ君。……いや、エドワードの『希望』と呼ぶべきかな。お前がここへ来ることを、私は誰よりも、君の父親以上に待ち望んでいたよ」

 ルカが見つめたのは、自分自身のルーツである父の無残な姿と、それを「美しき犠牲」と呼ぶ独裁者の微笑みだった。

 社会の崩壊が外で頂点に達する中、最深部ではついに、運命の主役たちがその顔を突き合わせた。

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