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獣人街区の夜明け前

 ラーヴェンの最外縁、第十八「バーデ」居住区。

 中央タワーからの青白い光が、スモッグに遮られて届かないこの場所は、昼夜を問わず重油と鉄錆の匂いが澱んでいた。剥き出しの配管、継ぎ接ぎだらけのトタン壁。そこは「人間」たちが優雅な微笑みを浮かべるクロン区と同じ街とは、到底信じがたい。

「……まただ。あっちのラインから外された」

 古いプレス工場の裏手。狼族の若者、ガランが、煤で汚れた大きな手を震わせて吐き捨てた。

 彼のような獣人は、かつての明治維新になぞらえた身分制度廃止以来、「平等」の名のもとに職を保証されたはずだった。だが、現実の彼らに与えられるのは、人間が避ける過酷な「肉体資源」としての労働、あるいは補助金の分配基準からあからさまに外れた「特別調整区」での生活だ。

「言うなよ。聞かれるぞ」

 隣で資材を運ぶ兎族の男が、長い耳を怯えたように垂らし、首を横に振った。

「IDカードに『種族コード』が記録されている限り、俺たちが店に入れる範囲も、就ける職業も決まっている。逆らえば、『適性なし』として移送されるだけだ」

 バーデ区の空気には、洗脳電波の影響すら届きにくいほどの重い「絶望」が充満していた。

 政府は公式メディアを通じて、遠回しに獣人を「管理されるべき性質の民」として描写し続ける。教科書には「魔王の眷属を教化し、社会に受け入れたマサト王の慈愛」が書き殴られ、それが国民の共通認識となっていた。

 クロン区では蔑称が日常的に使われ、街角には「獣人立ち入り禁止」の隠語メタメッセージを含んだ看板が当然のように置かれている。

 

「……あそこに住んでいた少女のこと、覚えてるか?」

 ガランが、路地裏の廃屋を指差した。

 かつて、そこには背中に白い羽、尻尾には悪魔の尾を持つという、奇妙な『双翼種』の少女――シャルが住んでいた。

「どちらの種族にも属さない、気味の悪い子だって……俺たちでさえ、彼女を追い出した」

 その少女は今、マサト政権の最高幹部の一人となり、圧倒的な『武』で自分たちを震え上がらせている。同族からさえ疎外され、拠り所を持たなかった孤独な魂に、最初に「居場所」という餌を与えたのは、皮肉にも支配者であるマサトだったのだ。

 差別の構造は、政府と民衆、さらには獣人同士の間にも複雑な網の目を広げ、誰もが誰かを見下さずにはいられない仕組み(レイヤー)を作り上げていた。

 だが、今夜。

 そんな絶望の街に、小さな、けれど確かな変化が起きようとしていた。

 配給される神経安定剤の袋を手に取ったガランは、その場で中身を排水溝へとぶちまけた。

「……ガラン、お前……!」

「俺はもう、薬で笑うのをやめる」

 ガランは真っ直ぐに顔を上げた。その鋭い狼の瞳には、電波では決して生み出せない、ぎらついた「個」の意志が燃えていた。

 バーデ区の至る所で、同様の動きが始まっていた。

 ある老女は「また店を断られた」という憤りを薬で誤魔化すのをやめ、ある職工は、自分が単なる「代替品」として扱われることに声を上げ始めた。

 差別の重さに喘いできた魂が、洗脳の霧から解き放たれ、本来持っていたはずの「奪われた記憶」と「怒り」を、自分の腕の中に手繰り寄せようとしているのだ。

「……あいつらは言った。種族を越えた平等、豊かなシンセシアだと」

 ガランの低く太い声が、澱んだ空気の中を響いていく。

「だが俺たちは知っている。俺たちが笑っているとき、心の一部は泣いていることを。……薬がなきゃ、この国の冷たさに凍えちまうってことをな」

 遠く、第七施設へと繋がる幹線道路の方角。

 そこで戦っているルカという人間の少年が、政府を根底から揺さぶろうとしているという噂は、風のようにこの街にも届いていた。

「俺たちの夜明け前だ」

 ガランは、足元に落ちていた「マサト王の慈悲」を謳うビラを踏み躙った。

 革命は、兵士の躊躇だけでは成し遂げられない。

 最も低い場所に置かれ、最も深く尊厳を削られてきた「底辺」の者たちが、自らの膝をつくのをやめ、泥まみれの拳を握りしめたとき。

 独裁という名の壁は、もはや巨大な虚構に過ぎないことを、ラーヴェンの夜空は目撃しようとしていた。

 シンセシア、異世界の異郷。

 そこに積もった二百年分の差別の煤が、今、革命という名の業火にくべられようとしていた。

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