消えた夜
その夜、シンセシアの街を包んでいたのは、あまりにも静謐で、暴力的なまでの安らぎだった。
ルカはリビングのソファに深く腰掛け、消え入りそうな手元の明かりだけで、学校の課題に向き合っていた。隣の台所では、父が明日の弁当の準備をしている。換気扇の回る規則正しい音と、時折響く包丁の音。昨日までのルカなら、それを「平和な日常の調べ」だと疑いもしなかっただろう。
だが、今のルカの耳には、その音がひどく頼りなく、薄氷の上を歩くような危うさを孕んで聞こえた。
「……ルカ。まだ起きていたのか」
父が手を止めて、こちらを振り返った。その顔は、昨夜よりもさらに痩せこけたように見えた。目の下には深い隈があり、視線は泳いでいる。
「うん、もう寝るよ。父さんも、あんまり無理しないで」
「ああ、分かっている。分かっているんだ。ただ……少し、胸が騒いでな」
父は言いかけて、また口を閉ざした。第1章でガルツの名前を出そうとして止めたときと同じ、あの「拒絶」の表情だ。父はそれ以上何も語らず、ただ力なく笑って見せた。その笑顔は、もはや神経安定剤で作られた模範的なものではなく、ただの壊れかけた仮面のようだった。
その時だった。
深夜の静寂を切り裂き、建物の外で複数の重厚なエンジン音が止まった。
ルカの心臓が、嫌な予感に跳ね上がる。窓の外を覗くと、街灯の光を反射する黒塗りの車両が数台、自宅の前に並んでいた。車体には、内務省の紋章――平和を象徴する鳩を意匠化した、歪なマークが刻まれている。
「……逃げろ、ルカ」
父の声は、震えていた。だが、その瞳には、ここ数日にはなかった覚悟の光が宿っていた。
「裏の非常口から出ろ。いいか、決して振り返るな。ゼフのところへ行け。あの子なら、お前を――」
父の言葉を遮るように、玄関のドアが激しく叩かれた。
「内務省だ! 国民の安全確保のため、任意同行を求める!」
事務的で冷徹な声。次の瞬間、ドアが物理的な衝撃で破壊され、黒い防護服に身を包んだ男たちがなだれ込んできた。
「父さん!」
ルカは叫び、父の元へ駆け寄ろうとした。だが、その体は背後から伸びてきた力強い腕に、強引に引き留められた。
「離せ! 父さんが、父さんが連れて行かれる!」
「馬鹿野郎、落ち着けルカ! 今出たら、お前まで消されるぞ!」
耳元で響いたのは、ゼフの声だった。いつの間に現れたのか、彼はルカの体を羽交い締めにし、影の中に押し込めていた。ゼフの腕は岩のように硬く、ルカがどれほど暴れても微動だにしない。
ルカの視線の先で、父が男たちに両脇を抱えられ、引きずられていく。
父は一度だけ、ルカの方を振り返った。
その目は、恐怖に震えてはいなかった。悲しみでも、絶望でもない。ただ、何かを託すような、そして息子が生き延びていることに安堵したような――言葉にする術を持たない、深い慈しみの色を湛えていた。
父の唇が、音もなく動いた。
(生きろ)
そう言った気がした。直後、父の体は黒い車両の中へと消え、ドアが閉まる無機質な音が深夜の街に響き渡った。
嵐が去った後の室内には、ひっくり返った椅子と、壊れたドアだけが残されていた。
ゼフはルカを放すと、床にへたり込んだ友人の肩を、何も言わずに強く叩いた。ルカは声も出せず、ただ父がいなくなった暗い玄関を見つめ続けていた。
不意に、リビングのテレビが自動的に起動した。緊急放送の信号を受信したのだ。
『――臨時ニュースです。内務省は、国家転覆を企てていた反政府活動家の一斉検挙を完了しました。逮捕された者たちは、現在、適切な再教育施設へと送られています』
画面には、先ほどまで外にいた黒い車両の列が映し出されていた。キャスターは、まるで祝辞を述べるかのような明るい声で話を続ける。
『これにより、私たちの誇るシンセシアの秩序はより強固なものとなりました。市民の皆さんは、マサト王の守護のもと、安心して眠りについてください。明日は、より素晴らしい一日となるでしょう』
ルカは、初めてテレビの画面を真っ向から見据えた。
今、この瞬間、自分の世界は、自分の「普通」は、音を立てて砕け散ったのだ。それなのに、画面の中の男は、世界は何一つ変わっていないのだと微笑んでいる。
ルカの瞳に、初めて暗い炎が宿った。
それは、ただの悲しみではなかった。この嘘に満ちた世界への、そして何もできなかった自分への、剥き出しの怒りだった。
ルカの「普通の朝」は、もう二度と訪れない。




