ガルツの夜
第七施設の深部、排気ダクトの中は、重苦しい機械の駆動音と、微かなオゾンの匂いに満ちていた。
ガルツは、煤まみれの大きな掌を鉄板に当て、這いずるようにして暗闇を進んでいた。六十二歳という年齢は、この狭い空間を移動するにはいささか酷なはずだった。節々が軋み、古傷が疼く。だが、彼の瞳は驚くほど静かで、一点の曇りもなかった。
「……ここだ。第三廃棄スロットの真上」
ガルツは一度動きを止め、自身の呼吸を整えた。
耳を澄ませば、格子戸越しに下の階層の音が聞こえてくる。コツコツという軍靴の音、そして――神経を逆なでするような、甲高い電子音の断続的な鳴動。
(……マサト王が作り上げた、魂の加工場か)
ガルツは格子越しに下を覗き込んだ。そこは「調整室」と呼ばれる、清潔で、あまりにも冷酷な白い部屋だった。
いくつものカプセルが並び、その中には拘束された人々が、目を開けたまま、焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。彼らの頭部には無数の電極が貼り付けられ、中央の巨大なアンテナが発する「感情調整電波」を直接、脳の奥深くまで叩き込まれていた。
彼らが流すのは、悲しみの涙ではない。過負荷を与えられた神経が、勝手に垂れ流すただの分泌物だ。
ガルツは、その中の一つのカプセルに目を止めた。
「……ルカ。ルカ、逃げろ……」
聞き間違えるはずのない声だった。
カプセルの中で、青白い肌をした男が、うわ言のように繰り返していた。かつての工場の同僚であり、戦友であり、何より一人の少年の幸福を願っていた、ルカの父、エドワードだった。
エドの声はひどく掠れ、もはや言葉としての形を失いつつあった。だが、彼が最期まで手放そうとしていないもの、マサトの洗脳さえも拒絶し続けている何かが、その短い名前の中に凝縮されていた。
「エド。……もういい、もういいんだ。……ルカは、ここに来ている。……お前の願った通り、自分の足で歩いてな」
ガルツは格子に指をかけ、静かに囁いた。届くはずのない声だが、エドの指先がほんの一瞬だけ、痙攣するように動いた。
ガルツは再び、ダクトの中を這い出した。
彼の中に、燃え上がるような復讐心や、正義への渇望があったわけではない。ただ、自分の隣で働いていた男が奪われ、その息子が泣いている。ならば、自分という人間にできることは、その鎖を叩き壊し、彼らを再び巡り合わせることだけだ。
英雄になるつもりもなければ、被害者の代表として叫ぶつもりもない。
(……することがあるから、する。それだけだ)
ガルツはかつて、六年前の広場で立ち尽くしていた。
若き日のセオが絶叫し、血の匂いが立ち込める中、自分は何の力もなく、ただそこにいることしかできなかった。あの日からずっと、彼の中の時計は止まっていた。自分の沈黙が、この歪な平和という名の地獄を作り上げる一助になってしまったのではないか。その自責の念だけが、今日まで彼を突き動かしてきた。
「――おっと。老いた鼠が、ずいぶんと深く潜り込んだものね」
不意に、進行方向から低い声が響いた。
ガルツが反射的に手元のスパナを握りしめると、ダクトの分岐点に、一人の影が立っていた。
アイスブルーの瞳を闇に光らせ、降格された後の軍服を纏ったフィラだ。彼女は、手にした紅鳴の鞘を静かに撫で、ガルツの行く手を遮っていた。
「フィラ……王の猟犬が、こんな薄汚い場所に何の用だ」
「……王の剣なら、今、自分の腰で眠っている。……ガルツと言ったな。脱走者のあなたが、なぜ戻ってきた」
フィラの問いに、ガルツは動じなかった。
「……俺の仲間が、まだあそこで待っている。……それ以上の理由など、この世のどこを探してもない」
フィラは、しばらくの間、無言でガルツを見つめていた。
二人の間に流れるのは、殺意でも敵意でもない。ただ、互いに自らの意志で、自らが信じる道を歩もうとする者同士の、ひどく静謐で重厚な時間だった。
やがて、フィラは一歩、身を引いた。
「……自分も、同じ場所へ行く。……行くべき場所へ。……道を空ける。一分だけだ」
ガルツは驚きに眉を上げた。だが、何も問い返すことはしなかった。
「……助かる」
ガルツはフィラの傍らをすり抜け、再び奥へと進んでいく。
すれ違う瞬間、ガルツは一度だけ足を止め、若き将校の背中に声をかけた。
「……いい目になったな。……マサトに見せられている幻覚よりも、その瞳の方が、ずっと美しいぞ、将校」
フィラは答えなかった。ただ、紅鳴の鞘を一度だけカチリと鳴らした。
ガルツは一人、暗闇を駆け抜ける。
背後にはフィラという不思議な救い。前方にはエドという救うべき命。
彼の大きな掌には、六年前の無力だった自分には持てなかった、確かな未来の感触が宿っていた。
「ルカ。……もうすぐだ。……おじさんが、道を作ってやる」
英雄ではない一人の老いた労働者の夜が、革命の最終局面を、静かに、そして劇的に動かそうとしていた。
ガルツが選んだ「すること」は、今、歴史の歯車と完全に噛み合った。




