シャルの問い
雨は上がり、ラーヴェンの街には不気味なほど静かな湿り気が残っていた。
中央タワーの展望回廊。シャルは手すりに身を乗り出し、広域索敵魔術『天測』を展開していた。彼女の瞳に映るのは、星図のように配置された無数の光点だ。
その端の方で、ひときわ激しく、けれど消え入りそうに明滅する二つの『星』がある。
ルカと、瀕死のゼフだ。
「……ルカ、まだ泣いてる。ゼフ、消えそう」
シャルは、感情の乗らない声で呟いた。
彼女には理解できなかった。なぜ、あんなにボロボロになりながら、死にゆく『星』を抱えて叫び続けるのか。機能を失った部品は、捨てるのが効率的だ。それが、マサトから教わったこの世界の「正しさ」のはずだった。
けれど、天測の図面越しに伝わってくるルカの『星』の波動は、言葉にできないほど熱く、鋭く、シャルの胸の奥にある空洞を、ちりちりと焼くように震わせていた。
「……シャル、分からない。分からないの、嫌だ」
彼女は天測を閉じると、翼を羽ばたかせてヴェロニカの執務室へと向かった。
ヴェロニカは、アンティークのソファに深く腰掛け、銀の懐中時計を見つめていた。アッシュグレーの髪を解き、太く長い尻尾を床にゆったりと横たえている。
シャルが部屋に入ってくると、彼女は黄金色とエメラルドグリーンのオッドアイを細め、わずかに微笑んだ。
「あら、シャル。また私のところへ? 今日は随分と『星』が騒がしかったようね」
「ヴェロニカ。……シャル、また聞きたい。……『感情』って、何ですか?」
シャルの二度目の問い。
ヴェロニカは懐中時計を閉じ、カチリ、という硬質な音を響かせた。
「……まだ、そんなことを言っているの? 感情なんて、ただのバグよ。マサト王が作り上げたこの完璧な構造において、唯一のノイズ。……そんなものに価値を見出すのは、時間の無駄だわ」
「……でも、アイリス、言ってた。楽しい、って。……アイリスのあれ、ラベルだけど。……でも、ルカのあれ、ラベルじゃない。……とても、熱い」
シャルは、自分の胸を抑えた。
ヴェロニカは、立ち上がってシャルの元へ歩み寄った。彼女の長身が、シャルに影を落とす。
「……ラベル。そうね、アイリスのそれは正しいわ。私たちは、自分の壊れた心に『楽しい』や『悲しい』というラベルを貼って、ようやく他人の振りをしている。……でも、シャル。貴女はまだ、そのラベルすら上手く貼れないほど、純粋なのよ」
ヴェロニカの手が、シャルの頬を撫でた。その指先は、驚くほど冷たかった。
「……ヴェロニカは、ラベル、貼ってるの?」
「……私は、支配という名の鎧を着ているだけよ。……でもね、シャル。そんな私にも、一度だけ……ラベルを貼るのを忘れた夜があったわ」
ヴェロニカの視線が、遠い過去へと向けられる。
まだ彼女が「古狐の時計屋の娘」だった頃。差別と、裏切りと、喪失の荒波に揉まれ、すべてを失った夜。
「……一度だけ、泣いた夜があるの。……それ以来、私は涙を捨てた。泣いても何も変わらないし、消えたものは戻ってこない。……支配した相手の恐怖だけが、私がこの世界に存在した唯一の『証』になる。……感情なんて、その邪魔でしかないのよ」
ヴェロニカの言葉は、自分自身を呪うような響きを持っていた。
シャルは、その言葉の意味を、やはり完全には理解できなかった。
けれど、ヴェロニカの冷たい指先が、わずかに震えていることだけは分かった。
「……シャルも、いつか、泣く?」
「……貴女には、そんな夜は来ないわ。私が、そうさせない。……貴女は、そのまま、美しい人形のままでいればいいのよ」
ヴェロニカはそう言うと、シャルの水晶の角を優しく撫で、そのまま部屋を出て行った。
一人残されたシャルは、暗い部屋の中で自分の翼を見つめた。
天使の翼と、悪魔の尻尾。
どちらにもなれず、何者でもない自分。
彼女は、再び『天測』を開いた。
遠く、バーデ区の闇の中で、ルカの『星』が、まだ消えずに燃え続けている。
「……ルカ。……あなたの、その熱いもの。……シャルに、見せて」
それは、忠誠心でも、義務感でもない。
ただの、名前のない好奇心。
けれど、その好奇心こそが、マサト王が最も恐れる『バグ』の正体だった。
シャルの白い翼が、月光を吸い込んで淡く発光する。
彼女はまだ知らない。
ヴェロニカが語った「一度だけ泣いた夜」の記憶が、やがて自分の魂をも揺さぶり、剥き出しの絶望と対峙させることになる未来を。
その時、拠点に担ぎ込まれたゼフの容態が急変したという報告が、彼女の天測にノイズとなって混じり込んだ。
シャルの瞳が、一瞬だけ、かつてないほど激しく揺れ動いた。




