感情という名のラベル
第七施設の冷たい雨が降り続く深夜。狙撃を終えたシャルは、濡れた翼を重そうに引きずりながら、中央タワーの奥深く、最高幹部ヴェロニカの執務室へと足を運んでいた。
豪奢な彫刻が施された扉が開くと、そこにはアンティークの懐中時計が刻む規則正しい音だけが支配する、静謐な空間が広がっていた。
「あら、シャル。ずいぶんと濡れているわね。天使の羽が台無しよ」
デスクに座り、銀の細鎖付きの懐中時計を弄んでいたヴェロニカが、顔を上げた。
アッシュグレー混じりのシルバーの髪を、低めの位置でツインテールに結んだ長命種の古狐。ミディアム丈の紺色の襟の大きなトレンチコートを羽織った彼女の瞳は、右が誘うような黄金色、左が心を凍らせる宝石のようなエメラルドグリーンのオッドアイだ。
彼女は一七二センチの長身をしなやかに揺らし、シャルへと歩み寄った。
「シャル、お仕事した。……でも、少しだけ、ここ、変な感じ」
シャルは、紺色のストライプのシャツワンピースの上から、自らの胸を抑えた。
心臓は動いている。けれど、そこには何の熱も宿っていない。
「ヴェロニカ、教えて。……『感情』って、何ですか?」
シャルの無垢な問いに、ヴェロニカの手が止まった。
彼女は黄金色の右目でシャルを見つめ、少しだけ悲しげに、けれど余裕たっぷりの笑みを浮かべた。その背後では、太く長い尻尾がサラサラと音を立てている。
「……感情? そんなの、ただの『消えるもの』よ、シャル。砂の城や、解けていく時計と同じ。形があるように見えて、手に取った瞬間に指の間から零れ落ちていく。……一番、信じてはいけないものね」
ヴェロニカはそう言うと、シャルの水晶のような角にそっと触れた。
彼女もまた、二百年以上の時を生き、関わったすべてが消えていく虚無を味わい続けてきた。支配することでしか自らの存在を証明できない彼女にとって、感情とは、弱者が抱く不確かな幻想に過ぎなかった。
「……ヴェロニカも、笑わない。シャル、笑い方、よく分からない」
そこへ、場違いなほど軽快な足音が響いた。
「おっつー! 何何? 二人してシリアスモード? やばくなーい?」
現れたのは、雪豹獣人のアイリスだった。スポーティなギャルウェアを揺らし、丸っこい獣耳をピョンピョンと動かしながら、彼女はシャルの隣に並んだ。
「アイリス。……お仕事、終わったの?」
「バッチリ! 超絶に氷漬けにしてきたし! あーあ、マジで仕事って楽しいよねー!」
アイリスは満面の笑みを浮かべ、シャルの肩を叩いた。
だが、その笑顔を見つめるシャルの瞳には、冷ややかな観察の色が混じっていた。
「アイリス。……あなたの『楽しい』、それ、ラベルでしょ。……シャルと、同じ。同じ場所から、来た匂いがする」
アイリスの笑顔が、ほんの一瞬だけ、静止した。
雪豹のデカ尻尾が、不自然な角度でぴたりと止まる。
「……あははっ、シャルったら何言ってんの? 私たちはマサト王に拾われた、ラッキーな女の子じゃん。同じ場所って、この素晴らしいシンセシアのことでしょ?」
アイリスはすぐにテンションを戻したが、その氷青色の瞳の奥に、剥き出しの「迷い」が一瞬だけ過ったのを、シャルは見逃さなかった。
二人は知っている。自分たちがマサトに拾われる前、どこで、どのような「実験」を繰り返されていたのか。名前ではなく番号で呼ばれ、魂の形を歪められていたあの暗い施設のことを。
「……ま、いいわ。シャル、お仕事のご褒美に、美味しいお茶でも淹れてあげましょう。アイリスも、少しは落ち着きなさい」
ヴェロニカが二人を促す。
だが、そのやり取りの最中、シャルの手元の通信機に、一通の暗号データが届いた。
発信元は不明。だが、そこには革命組織の潜伏先をあえて外した、偽の警備配置図が添付されていた。
「……フィラ。……やっぱり、あなただったのね」
シャルは、画面を消した。
かつての同僚、そして自分を撃ち抜かなかった将校の「背信」を、彼女はまだマサトには報告しなかった。それが彼女なりの『感情の理解』への第一歩なのか、あるいはただの気まぐれなのか、彼女自身にも分からなかったからだ。
一方、雨のバーデ区。地下拠点のベッドの上で、ゼフは死の淵を彷徨っていた。
「ゼフ! しっかりしろ、ゼフ!」
ルカの叫びが響く。シャルの『星穿ち』が穿った傷は深く、セオの応急処置も限界に近かった。
「……あ、アニキ……。逃げ……ろ……」
ゼフの掠れた声に、ルカは歯を食いしばった。
その時、拠点のドアが静かに開き、ミラが駆け込んできた。彼女の手には、差出人不明の封筒が握られていた。中には、第七施設の最も手薄な侵入経路と、医療用ポッドの起動コードが記されていた。
「これ……誰が?」
「……分からない。でも、これがあれば、ゼフを助けられるかもしれない」
ルカは、その情報の「主」に思いを馳せた。
雨の夜に撃たれ、雨の夜に救われる。
敵と味方の境界線が、どろどろに溶けていく。
少年たちは、まだ見ぬ救済者への疑念と希望を抱きながら、再び立ち上がる準備を始めた。
中央タワーの窓の外では、ヴェロニカが淹れた紅茶の香りが漂っていた。
シャルは、温かいカップを両手で包み込んだ。
感情とは、消えるもの。
ラベルのように、貼り付けられるもの。
けれど、今、彼女の指先に伝わるこの確かな熱だけは、どのデータにも記されていない「真実」のように思えた。




