フィラの静かな亀裂
中央タワーの最上層に位置する作戦司令室は、外界の喧騒を一切遮断した、絶対的な静寂に包まれていた。
フィラは、直立不動の姿勢でメインモニターを見つめていた。白銀のセミロングヘアが、無機質なLEDの光を反射して冷たく輝く。ダークグレーの軍服は一分の乱れもなく、襟元のアイスブルーのラインが、彼女の瞳と同じ色を湛えていた。
画面には、バーデ区の一部――革命組織の活動が疑われる第十二居住ブロックの熱源マップが投影されている。
「――マサト王より、最終裁定が下った。当該区域に対し、無差別電磁爆撃による『広域浄化』を執行する」
背後で、内務省の担当官が淡々と告げた。
「実行プログラムは、最高幹部である貴女の認証を待っている。……フィラ将校、速やかに承認を」
フィラは、静かに右手をコンソールにかざした。
承認ボタンを押せば、数分後には第十二ブロックの上空から高出力の電磁波が降り注ぐ。それは電子機器を破壊するだけでなく、範囲内にいる生物の脳神経に過負荷を与え、廃人化させる「見えない死神」だ。
そこに潜伏している革命組織を根絶やしにするため。マサト王が望む完璧な秩序を守るため。
自分は、そのための「心臓」であり、「剣」であるはずだった。
ふと、指先が触れる直前、画面の隅に表示された詳細データが、彼女の視界を掠めた。
第十二ブロック、第十七アパートメント。
そこには、第7章で彼女が粛清リストの中に見た、あの「六歳の子供」の記録があった。
名前は、イアン。
かつて自分が家を追われ、両親を失い、雨の中で震えていたあの頃の自分と同じ、救いのない瞳をした少年。
(……自分は、何を躊躇している)
フィラは、自らの内に生じた「熱」を否定するように、アイスブルーの瞳を細めた。
感情は不要だ。慈悲も、迷いも、すべてはマサト王の歩みを妨げるノイズに過ぎない。自分を救ってくれたのは王であり、自分を生かしているのは王の意志だ。
だが、軍帽の陰で、彼女の脳裏には、第7章でその少年の名前にペンを走らせた時の、あの消えない違和感が蘇っていた。
自分がこの手で「承認」を押せば、あの少年は、自分の過去と同じように、冷たい光の中で砕け散る。
それは、王が目指す「正しい世界」のために、本当に必要な犠牲なのか。
「……フィラ将校? どうされました。早く承認を」
担当官の催促が飛ぶ。
フィラは、ゆっくりと目を開けた。
彼女の指先が、承認ボタンではなく、その隣にある「状況再確認」のコマンドへと滑った。
彼女は、自分でも信じられないほど滑らかな手つきで、現場の監視ドローンのデータを書き換え始めた。
「――待て。現地の映像に異常がある」
フィラの声は、氷のように冷たく、一点の揺らぎもなかった。
「標的を確認。……いや、これは囮だ。革命組織の主力はすでに当該区域を離脱している。……爆撃を行えば、無意味なエネルギー消費と、不必要な民間人の被害を招くだけだ。作戦の有効性は、現在、零%に等しい」
「なっ、馬鹿な! 先ほどのスキャンでは確かに――」
「スキャンデータの改竄だ。敵側にハッカーがいる。……自分は、無効な作戦への承認を拒否する」
フィラは、流れるような操作で爆撃プログラムを強制停止させた。
そして、イアンという名の少年が含まれる居住リストを、密かに「避難完了」という偽造データへと書き換える。
『標的逃走。以上』
彼女が入力したその短い言葉は、冷徹な報告であると同時に、彼女が生まれて初めて犯した、王への「反逆」だった。
数分後。
司令室の自動ドアが開き、マサトが姿を現した。
彼は優雅な足取りでフィラの側に歩み寄ると、画面に表示された『作戦中止』の文字を、興味深げに眺めた。
「……珍しいな、フィラ。お前が私の命令に対し、独断で異を唱えるとは」
「……王。自分は、最も効率的な勝利を選択したに過ぎません」
フィラは膝をつき、最敬礼を送った。だが、背中に羽織ったダークグレーのマントの内側、鮮やかなアイスブルーの裏地が、彼女の動揺を示すように微かに震えていた。
マサトはしばらくの間、無言で彼女を見下ろしていた。
その瞳には、知性と狂気が同居する、マサト特有の底知れない光が宿っている。
「……いいだろう。お前の『科学的直感力』は信頼している。だが、フィラ」
マサトは、彼女の顎を指先でクイと持ち上げた。
「私の剣に、意志は必要ない。必要なのは、対象を斬り伏せるための鋭さだけだ。……今回のような不手際は、二度目はないと思え」
「……御意に」
「罰として、今日からお前を最高幹部の職務から解く。軍将校としての階級を一段階下げ、現場の監視任務へと降格だ。……自分を見つめ直すがいい」
マサトは冷たく言い放つと、一度も振り返らずに部屋を去っていった。
一人残されたフィラは、ゆっくりと立ち上がった。
降格処分。それは、彼女にとって、王からの信頼を失ったという死刑宣告にも等しい。
だが、彼女の胸の奥に残っていたあの「冷たい澱」は、不思議なことに、今は少しだけ晴れていた。
(自分は、守ったのか。……あの、名もなき子供を)
フィラは、腰に佩いた妖刀「紅鳴」の柄を、強く握りしめた。
漆黒の刀身に、赤い脈がうっすらと脈打っている。まるで、彼女自身の心臓の鼓動と呼応するように。
彼女の中に生じた亀裂は、まだ小さく、静かだ。
だが、その一筋の光は、やがて彼女の「絶対忠誠」という氷の仮面を、内側から粉々に砕いていくことになる。
フィラは、一礼して司令室を出た。
アイスブルーの瞳の奥で、王への忠誠ではない、何かもっと切実で、痛みを伴う感情が、初めてその産声を上げていた。




