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亀裂の前夜

 翌朝、教室の空気は昨日にも増して張り詰めていた。

 机の上に置かれた薄型の情報端末が、淡い青色の光を放っている。今日は月に一度の「愛国テスト」の日だった。このテストの結果は単なる成績ではなく、市民としての「忠誠心」を数値化し、居住区のランクや配給される薬品の質にまで影響を及ぼす。

『問十五:マサト王が提唱する「種族間の真の平等」を実現するために、市民が果たすべき最も重要な義務を述べよ』

 ルカは淀みなく選択肢を選び、回答を入力していく。正解は決まっている。国家への絶対的な帰依と、秩序を乱す分子への監視だ。

 周囲からは、電子ペンが画面を叩く無機質な音だけが聞こえる。ルカはふと、隣の席のゼフに目をやった。彼は端末を睨みつけたまま、微動だにしない。その拳は白くなるほど握りしめられ、画面にはまだ一文字も入力されていなかった。

 ルカは胸の奥を刺されるような感覚を覚えながらも、自分のテストを終わらせた。送信ボタンを押すと、即座に「一〇〇点」という数字が冷徹に表示される。模範的な市民。誇らしいはずの数字が、今は自分を縛り付ける鎖の重さのように感じられた。

 テスト終了の合図とともに、教室に弛緩した空気が流れる。だが、それは安堵ではなく、義務を果たしたことへの空虚な沈黙だった。

「……くだらねぇ」

 隣で、ゼフが小さく、けれど鋭い声を漏らした。

「しっ、ゼフ!」

 ルカが慌てて制止するが、ゼフは止まらなかった。彼は自分の端末に表示された真っ赤な落第点を見せつけるように放り出すと、椅子を鳴らして立ち上がった。

「こんなもんで何が分かるんだよ。昨日まで笑ってたやつが急にいなくなるような街で、何が愛国だよ、何が――」

「ゼフ、やめろ!」

 ルカは立ち上がり、ゼフの腕を強く掴んだ。教室の隅に設置された監視カメラのレンズが、滑らかな動作で二人の方を向く。数人のクラスメイトが、恐怖と、あるいは「通報すべきか」という迷いを孕んだ瞳でこちらを見ていた。

 ゼフはルカの手を振り払おうとしたが、ルカの瞳に宿る必死の光を見て、わずかに毒気を抜かれたように息を吐いた。

「……悪い。なんでもねぇよ」

 ゼフはそのまま教室を飛び出していった。追いかけようとしたルカの足を、教師の冷ややかな声が止める。

「ルカ君、席に戻りなさい。彼は……後で内務省の指導が必要なようですね」

 教師の表情は「穏やか」そのものだった。その完璧な笑顔が、何よりも恐ろしい凶器に見えた。ルカは震える膝を抑え、椅子に座り直すことしかできなかった。ゼフが最後に言いかけて飲み込んだ言葉。それがこの国では、命を落とすに等しい禁忌であることを、二人は痛いほど理解していた。

 同時刻、シンセシア中央タワーの上層階。

 街を一望できる軍議室には、冷たい静寂が満ちていた。

 円卓の中央には立体図ホログラムの地図が浮かび上がり、赤く塗られた軍隊の動線が隣国との国境線を越えようとしていた。

「――フェーズ1は完了した。電波による国内の統制は九八%の成功率を維持している」

 落ち着いた、それでいて威圧感のある声が響く。声の主はマサトだった。彼は軍服の上から羽織ったコートの襟を正し、鋭い眼光を地図に向けた。

「次はフェーズ2、隣国侵攻計画に移行する。エネルギー資源の確保と、電波技術のさらなる拡大。これがシンセシアを恒久的な平和へと導く唯一の道だ」

「御意に」

 短く、氷のように冷たい返声が上がった。

 マサトの傍らに控えるのは、銀髪の女性将校、フィラだった。彼女は直立不動の姿勢で、一切の感情を排したアイスブルーの瞳を地図の一点に固定している。

 マサトは満足げに頷くと、彼女の肩に軽く手を置いた。

「フィラ。お前の故郷も、この計画によって『浄化』される。喜ばしいことだろう?」

 フィラの視線の先にあるのは、侵攻ルートの直上にある小さな都市の名だった。かつて彼女が育ち、そして身分制度の廃止によってすべてを失った場所。

「……自分は、王の意志を執行するのみです」

 フィラは表情を変えず、ただ短く答えた。だが、軍帽の陰で、彼女の指先がほんの一瞬だけ、制服の生地を強く掴んだのをマサトは気づかない。

「そうだ。お前には私だけがいればいい。他の何も必要ない」

 マサトの言葉は、慈愛に満ちた宣告だった。

 フィラは静かに目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、かつての故郷の青い空か、あるいは、これから自分が踏みにじることになる名もなき誰かの日常か。

 彼女が再び目を開けたとき、そこには一筋の揺らぎもない「王の剣」としての輝きだけが戻っていた。

 学校の廊下で、ルカは一人、ゼフが去っていった方向を見つめていた。

 窓の外では、今日も巨大な中央タワーが、見えない電波を街中に降り注いでいる。空はどこまでも青く、街角のスピーカーからは平和を讃える陽気な音楽が流れている。

 だが、ルカには聞こえていた。完璧に調律されたその旋律の裏側で、何かが決定的に、修復不可能な音を立てて軋み始めているのを。

 父の怯えた顔、ゼフの絶望した瞳、そして、テストの「一〇〇点」という数字。

 ルカの中で、昨日まで「普通」だと思っていた日常が、音を立てて崩れ落ちようとしていた。

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