イヴの仕事
深夜のラーヴェン郊外、廃棄されたコンテナヤードに、場違いなほど澄んだ水の匂いが漂っていた。
月明かりを反射して淡く輝く、水色のロングヘア。腰まで届くその髪は、夜風に揺れるたびにさらさらと涼やかな音を立て、周囲の錆びた鉄の臭いを洗い流していく。
イヴは、黒白のフリルが鮮やかなクラシックなメイド服の裾を整え、無機質なコンテナの群れを静かに見つめていた。頭部からは、ガラスのように透明な紫色の二本の角が優雅に伸び、その下では水色の柔らかな獣耳が、微かな音を拾うようにぴくぴくと動いている。
「――目標地点に到達。これより、残留分子の掃討を開始します。マサト王」
通信機に向かって発せられた声は、鈴の音のように美しい。だが、そこには一切の温度がなかった。紫色の瞳は潤んでいるように見えて、その実、焦点はどこにも合っていない。感情の一部を意図的に削り取られた彼女の瞳は、まるで深い湖の底のように、何も映さず、何も語らなかった。
彼女が細い指先を空に向けると、周囲の湿気が急速に凝縮され、鋭利な水の刃へと形を変えた。
「超高圧水流」
放たれた水の刃は、分厚い鋼鉄のコンテナを、熱したナイフでバターを斬るかのように容易く両断した。中から飛び出してきた数人の武装した男たちが、悲鳴を上げる暇もなく弾き飛ばされる。
イヴは、返り血一滴浴びることなく、瓦礫の山となったヤードを歩いた。その背後では、水龍の証である長くてつるつるとした尾が、モチモチとした質感で地面を静かに這っている。
ふと、破壊されたコンテナの影に、小さな木箱が転がっているのが目に留まった。
その箱の表面には、拙い筆致で色とりどりの花が描かれている。
それを見た瞬間、イヴの脳裏に、厚い霧の向こう側から呼びかけるような、遠い記憶の断片がフラッシュバックした。
(――イヴ、見て! お庭の噴水、もっと高くできる?)
それは、今から二百年も前の記憶。
魔法独立戦争が終わった直後、彼女が仕えていた貴族の家の、幼い令嬢の声だった。
あの日、彼女は庭園で令嬢と遊び、得意の水魔法で虹を作って笑わせた。令嬢の弾けるような笑顔と、「イヴ、すごい!」という賞賛。自分を一個の「人間」として愛してくれた、温かな家族。
だが、その幸せは、前国王が掲げた「平等化」という名の嵐によって、無残に引き裂かれた。
貴族制度の廃止。主君の家は没落し、家族は反政府活動の容疑で次々と連行されていった。
(申し訳ございません。私には、どうにも……)
連れ去られる主人夫妻の背中を見送りながら、彼女はただ、立ち尽くすことしかできなかった。
行き場を失った彼女を待っていたのは、解放という名の放逐、そして内務省による強制捕獲だった。
第七施設。冷たい実験台の上。
繰り返される投薬と電波の照射。彼女の「優しすぎる心」は、マサト政権に従事する上で不要なノイズと見なされ、丁寧に削ぎ落とされていった。
(もう、御主人様はいません。ならば、今の御主人様に従うだけ……)
現在の主であるマサトは、彼女に「王の猟犬」としての役割を与えた。
かつての主君を奪ったシステムそのものの手先となることに、疑問を抱く心さえ、今の彼女からは失われている。
イヴは、再び焦点の合わない瞳でコンテナの中を覗き込んだ。
そこには、革命組織の連絡員が逃げ遅れたのか、数枚の書類と、子供が描いたらしいマサト王への抗議の落書きが残されていた。
「……ここで、誰かが暮らしていた」
言葉が、無意識に唇から零れ落ちる。
彼女の胸の奥で、微かな、本当に微かな疼きが走った。
それは痛みですらなく、ただ「何かが欠けている」という、得体の知れない恐ろしさだった。
もし、自分にまだ感情があれば。もし、二百年前のように、主人のために涙を流せたのだとしたら。
今の自分は、この凄惨な光景を見て、怒ったのだろうか。それとも、悲しんだのだろうか。
「……感情があれば、私は私を許せなかったのかもしれない」
イヴは、丁寧に深くお辞儀をした。
それは、誰もいない廃墟に対する、あまりにも礼儀正しく、そして空虚な、彼女なりの弔いだった。
長い水色の髪が、深々とした礼に合わせて地面に垂れる。
彼女は再び、感情のない「形式的な形式」へと戻っていった。
「マサト王。目標エリアの制圧、完了しました。これより、第七施設への輸送車に合流します」
彼女は、一度も振り返ることなく現場を去った。
水色の獣耳が、冷たい夜風を捉えて微かに震える。
彼女が運ぶのは、ルカの父親をはじめとした、新たな「実験体」たち。
かつて自分がされたように、魂を削られ、部品へと作り替えられる運命の人々。
彼女の中に芽生え始めた「感情への気づき」という小さな種が、いつ、どのように芽吹くのか。それを知る者はまだいない。ただ、彼女が歩く足跡には、夜露のように冷たい水の跡だけが、いつまでも残っていた。




