ゼフが言えなかったこと
バーデ区の吹き溜まり。錆びたトタン屋根が折り重なる路地裏の廃屋で、ルカは荒い息を吐きながら肩の傷を抑えていた。
先ほどニアが放った弾丸は、皮一枚を掠めたに過ぎない。だが、その一撃が突きつけた「実力差」という絶望は、ルカの心に深く、重い鉛を流し込んでいた。
「……痛むか」
暗闇の中で、ゼフが低く尋ねた。彼は壁に背を預け、手持ちの古い包帯をルカに放り投げた。
「これくらい、平気だよ。……それより、ごめん。僕の足がすくんだせいで、爆破に失敗した」
「謝るな。あんな化け物じみた連中が出てくるなんて、誰も予想してねぇよ」
ゼフはそう言って鼻を鳴らしたが、その声にはいつもの覇気がなかった。彼は窓の外、遠くで輝く中央タワーの光をじっと見つめている。その横顔には、十八歳の少年には似つかわしくない、湿った後悔の色が張り付いていた。
「ねえ、ゼフ。……第2章の、愛国テストの時」
ルカは包帯を巻きながら、ずっと胸に引っかかっていた問いを口にした。
「あの時、君は何かを言いかけて止めたよね。……この国は、愛国なんて呼べる代物じゃないって。どうして、あの時最後まで言わなかったの?」
ゼフの肩が、びくりと揺れた。
沈黙が流れる。廃屋の隙間から吹き込む夜風が、ヒューヒューと笛のような音を立てていた。
「……覚えてるか、ルカ。六年前の、あの夏の日を」
ゼフが、ぽつりと語り始めた。
「俺たちの家の隣に住んでた、あの『おじさん』のことだ」
ルカの脳裏に、記憶の断片が蘇る。いつも笑顔で、学校帰りの自分たちに飴をくれた、腕のいい時計職人の老人。
「あの日、街は今の百倍くらい騒がしかった。民主化を叫ぶデモ隊と、それを鎮圧しようとする内務省の連中が、そこら中でやり合ってた。……おじさんは、デモに参加してたわけじゃなかった。ただ、道端で倒れてた学生を助けようとしただけだった」
ゼフの拳が、みしみしと音を立てて握りしめられる。
「俺は見てたんだ。窓の隙間から。……おじさんが、真っ黒な車両に押し込まれるのを。あいつらは、慈悲なんてこれっぽっちも見せなかった。おじさんがどんなに叫んでも、無視して、ゴミみたいに放り込んで……。それから二度と、おじさんは帰ってこなかった」
ルカは、息を呑んだ。自分は、その事実を知らなかった。いや、電波の影響で「忘れて」いたのかもしれない。
「俺は怖かった。……何かを言えば、自分も消される。自分だけじゃない、隣にいるお前まで連れて行かれる。……だから、あの日以来、俺は『何も言わないこと』を覚えたんだ」
ゼフは自嘲気味に笑い、ルカを真っ直ぐに見据えた。
「学校で、マサト王の肖像画に礼をする時。愛国テストで嘘八百を並べる時。……俺は、ずっとお前の顔を見てた。お前だけには、笑ったままでいてほしかったんだ。あのおじさんの最期みたいな、絶望した顔をさせたくなかった。お前が何も知らずに、この偽物の平和の中で『普通』に生きていられるなら、俺は一生、口を閉ざして笑うピエロにだってなってやるって……そう思ってた」
「ゼフ……」
「でも、結局は無駄だった。お前の親父さんは連行され、俺たちはお尋ね者だ。……皮肉なもんだよな。お前を守るために飲み込み続けてきた言葉が、今じゃ喉に詰まって、吐き気がしやがる」
ゼフが第2章で見せた、あの空虚な沈黙。
それは臆病さゆえの沈黙ではなく、唯一の友人を「この世界の闇」から遠ざけるための、あまりにも不器用で、孤独な保護だったのだ。
「……ありがとう、ゼフ。僕のために、そんなに苦しんでくれてたんだね」
ルカは立ち上がり、包帯を巻き終えた肩を動かした。
「でも、もういいんだ。僕は、もう『笑ってるだけ』の子供じゃない。君が隠してくれた闇を、今度は僕が一緒に背負う番だ。……二人で、あの連中から全部奪い返そう」
ルカの言葉に、ゼフは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて短く、力強く笑った。
「……ああ。そうだな。もう、黙って笑うのは終わりだ」
ゼフの瞳から、迷いが消えた。
六年前のトラウマに縛られていた少年が、初めて自分の意志で、友とともに歩む決意をした瞬間だった。
その時、拠点の奥から、セオの慌ただしい足音が聞こえてきた。
「――二人とも、感傷に浸る時間は終わりだ。客人が来ているぞ」
「客人?」
ルカとゼフが顔を上げると、セオの背後に、一人の女性が立っていた。
薄汚れた研究衣を脱ぎ捨て、より動きやすい旅装に着替えたノアだ。彼女の表情は、先ほどまでとは打って変わって、冷徹なまでの緊張感に満ちていた。
「……政府が動いたわ。ルカ君、あなたの父親が移送される場所が分かった」
ノアの言葉に、ルカの心臓が大きく跳ね上がった。
「移送……。どこへ?」
「第七施設。……そこへ向かう輸送車に、政府の『特別な猟犬』が同行している。……イヴという、水龍の竜人よ」
ルカは地図を広げた。
ゼフが隣で、決意を固めたように拳を合わせる。
友の想いを知り、自らの弱さを認め、少年たちは次なる地獄へと足を踏み出す。
偽りの平和が、完全に崩壊しようとしていた。




