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普通の朝、普通の嘘

 教室の窓から差し込む朝日は、吐き気がするほど清らかだった。

 ちり一つ落ちていないワックスがけされた床に、規則正しく並んだ机と椅子。そのすべてが、この「シンセシア」という国が正しく、清潔で、秩序に満ちていることを証明している。

「――いいですか、皆さん。私たちが今、こうして穏やかに微笑んでいられるのは、ひとえにマサト王の慈悲深い統治があるからです」

 教壇に立つ年配の女性教師が、黒板の上に掲げられた肖像画を恭しく指し示した。

 そこに描かれているのは、知的な瞳の奥に静かな熱を宿した、若き国王マサト。二十八歳という若さでこの国の頂点に立ち、わずか六年で荒廃していたシンセシアを近代的な科学国家へと作り替えた「救国の英雄」だ。

 ルカは無感情にペンを走らせ、教師が口にする美辞麗句をノートの端に書き写した。

 周囲を見渡せば、クラスメイトたちは一様に、柔らかで穏やかな微笑みを浮かべて教師の話に耳を傾けている。その笑顔に淀みはない。誰もが心から幸福を享受しているかのように見える。

 だが、ルカは知っている。その微笑みは、スピーカーから流れる「感情調整電波」と、毎朝欠かさず服用を義務付けられている「神経安定剤」によって、精密に調律されたものだということを。

 隣の席では、幼馴染のゼフが退屈そうに頬杖をついていた。彼はこのクラスで唯一、完璧な笑顔を作っていない。といって反抗的な態度を取るわけでもなく、ただ「何も考えていない」ような空虚な表情で窓の外を眺めている。

 その後ろの席には、友人のミラがいた。彼女はいつものように俯き、音もなく教科書をめくっている。彼女もまた、この「完璧な日常」に積極的に馴染もうとはしていない一人だった。

 ホームルームが終わるチャイムが鳴ると、スピーカーから朝のメロディが流れ出した。

「では、今日の授業を始めます。マサト王への感謝を込めて、まずは礼を」

 教師の合図で、クラス全員が立ち上がり、一糸乱れぬ動作で肖像画に頭を下げる。

 ルカもそれに合わせた。首を下げた視線の先、自分の手がわずかに震えているのが分かった。だが、顔を上げたときには、ルカもまた周囲に溶け込むような、無害で穏やかな少年の笑みを作り上げていた。

 放課後の街は、銀色の高層ビルが立ち並び、自動運転の車両が静かに滑る近未来的な様相を呈していた。

 中央区クロン。ここには、かつての魔法時代の面影など微塵もない。すべてはマサト王が掲げる「科学による平等の実現」のもとに作り替えられた景色だ。

「……なぁ、ルカ。今日も寄っていくか?」

 校門を出たところで、ゼフが声をかけてきた。

「いや、今日はいい。父さんの帰りが早い日なんだ」

「そうか。じゃあな」

 ゼフは短く手を振ると、反対側の歩道へと歩いていった。彼の歩き方はどこか重く、周囲の陽気な市民たちの足取りとは明らかに異質だった。

 ルカは一人で家路につく。道すがら、広場の中央にそびえ立つ真っ白な石像の前を通った。二百年前に魔王を倒したとされる勇者アルセリアの像だ。

 かつては人々の信仰の対象だったその像も、今ではマサト政権のプロパガンダ美術の一つとして利用されている。像の足元には、マサト王の言葉が刻まれたプレートが誇らしげに設置されていた。

 その広場の端に、古びた、けれどはっきりと読み取れる標識があるのを、ルカは見逃さなかった。

『←バーデ区(獣人居住指定区域)』

 そちらへ向かう道は、華やかな中央区とは対照的に、街灯も少なく薄暗い。ルカは一瞬だけその標識に目を向けたが、すぐに視線を正面に戻した。そこにあるのは、自分のような「人間」が立ち入るべきではない場所。差別の象徴であると同時に、この国の「闇」が押し込められた場所だ。

 背後に視線を感じて振り返ると、少し離れたところをミラが歩いていた。彼女はルカと目が合うと、小さく俯いて視線を逸らした。彼女もまた、何かを抱えながら、この「清潔な街」を歩いているのだろうか。

「ただいま」

 自宅のドアを開けると、換気扇の回る音と、少し焦げたような夕食の匂いが漂ってきた。

「おかえり、ルカ。早いじゃないか」

 リビングでは、父がエプロン姿でフライパンを握っていた。父はマサト政権下の国営工場で働く真面目な労働者だ。

「今日は課題が少なかったんだ。手伝うよ」

「いや、もうできる。座ってろ」

 食卓に並んだのは、合成肉のステーキと蒸した野菜。味は悪くないが、どこか味気ない。

 食事中、父は珍しく口数が少なかった。何度も何かを言いかけては飲み込み、手元のコップを弄んでいる。

「……父さん、どうかしたの?」

 ルカが尋ねると、父はびくりと肩を揺らし、周囲を警戒するように視線を動かした。リビングの隅で、マサト王の笑顔を映し出すテレビの音が、やけに大きく響いている。

「いや……なんでもないんだ。ただ、最近、工場の同僚が一人いなくなったと思ってな」

「いなくなった?」

「ああ。ガルツという男だ。あいつ、あんなにマサト王を崇拝していたし、愛国テストだっていつも満点だったのに、急に――」

 そこまで言って、父はハッと息を呑んだ。

 テレビのニュース番組が、明るいファンファーレと共に切り替わったからだ。

『――臨時ニュースです。内務省は本日、反政府活動家の一斉検挙を行ったと発表しました。治安維持法に基づき、国家の平穏を乱す思想を持った市民が適切に保護されました。国民の皆さんは、引き続き安心してお過ごしください』

 画面には、黒い車両に押し込まれる数人の男たちの姿が映し出されていた。その中の一人の横顔が見えた瞬間、父の手からフォークが滑り落ち、カランと乾いた音を立てて床に転がった。

「父さん……?」

「……なんでもない。なんでもないんだ、ルカ。私は、何も言っていないぞ」

 父の顔から血の気が引いていく。その瞳には、昼間のクラスメイトたちが見せていたような穏やかさは微塵もなく、ただ剥き出しの恐怖だけが宿っていた。

 テレビの中では、キャスターが華やかな笑顔で話を続けている。

『続いてのニュースです。新型神経安定剤の国民配布が明日より開始されます。より豊かな心の平穏のために、服用を忘れないようにしましょう』

 ルカは初めて、そのテレビ画面を真っ直ぐに「見た」。

 鮮やかな色彩、流暢な喋り、そして完璧な秩序。そのすべてが、巨大な嘘の上に塗り固められている。

 この世界は、清潔で、秩序正しく、そして、何かが決定的に壊れている。

 ルカの胸の奥で、まだ名前のつかない熱い感情が、静かに鎌首をもたげようとしていた。

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