白い都の盤上に立つ
王都が見えたとき、わたくしはまず、空の色を測りました。
高い城壁の向こうに広がるのは、よく磨かれた銀のような薄い青。
曇りでも快晴でもない、中途半端な空。
(悪くは、ありませんわね)
晴れきってもいない。荒れもしない。
つまり——今日は、「試験日」に向いている。
馬車が石畳を叩き、車輪がきしむ。
同乗している商人が、退屈を紛らわせるように小言を漏らしました。
「まったく、この検問の列じゃ商売あがったりだ……」
声は不満を言っているのに、指先は衣服の裾をいじるだけで、拳を握らない。
息は少し荒いけれど、目はどこか楽しげ。
(文句を言うのが、好きなだけですわね)
そんな小さな観察を、わたくしは半ば無意識に積み上げていました。
列の進みは遅い。けれど、身体に溜まる退屈の重さは、わたくしには心地よかった。
退屈はすなわち、「考える余白」になるからです。
——今日、王都ギルドに入る。
辺境伯閣下からの紹介状。
王都ギルド長に向けた推薦文。
「使える駒」としての期待と、「失敗したら切り捨てる」という冷たい前提。
その全てを、わたくしはすでに受け入れていました。
(さて。わたくしは、どれほど通用いたしますでしょう)
幼い頃から、村の大人たちを、家庭教師を、そして領主の補佐官たちを、次々と黙らせてきた。
辺境伯の側近として数字と行動を読み続け、戦場の地図を机の上で見てきた。
けれど、王都は別の盤。
ここでは、剣も槍も振るわれない。
代わりに飛び交うのは——言葉と、視線と、噂と、印章。
(楽しみですわ)
わたくしは、内側でだけ微笑みました。
馬車がようやく城門をくぐる。
途端に、空気が変わりました。
匂い。
音。
歩く速度。
視線の流れ。
一瞬で、「ここは戦場だ」と理解できました。
叫び声はない。血も流れていない。
けれど、人々の一歩一歩が、何かを競い合っている。
誰が先に店を構えるか。
誰が誰より高く売るか。
誰が誰より早く出世するか。
その「競走の匂い」が、辺境とはまるで違っていました。
わたくしは、無意識に背筋を伸ばしました。
「マリアベル・エーメルト嬢。……ここからは、あなた一人です」
御者が荷台を開きながら告げます。
辺境伯から預けられた男で、彼の役目は門まで。
「十分でしてよ。ここから先は、わたくしの戦場ですもの」
荷をひとつ肩にかけ、わたくしは王都の石畳に最初の一歩を刻みました。
---
王都ギルド本部は、中央通りから一本入った広場にそびえていました。
高いアーチ型の入口。
磨き上げられた真鍮の装飾。
外壁に掲げられたいくつもの紋章と認定証。
それはまるで、「この街で死んだ者たちの数」を別の形で示しているように見えました。
(よくもまあ、ここまで“飾り”を積み上げましたわね)
装飾が多いほど、裏側の汚れを隠したくなるもの。
扉を押し開きます。
——光。
外の喧騒とは違う、冷たい白さがホールを満たしていました。
大理石の床が陽光を跳ね返し、その上を何十人もの冒険者や商人が行き交う。
声が重なり、
革靴と鎧の音が響き、
紙と金属の擦れる音が、絶え間なく耳に刺さる。
それらを、わたくしは一拍で「処理」しました。
(全体でおよそ五十人。
怒鳴っている者は二人。笑っている者は五人。
それ以外は——自分のことで手一杯)
ざっと見ただけで、その場にある感情の大枠は読み取れます。
けれど、わたくしが本当に見るのは「細部」。
受付カウンターに並ぶ女たちの姿。
立ち位置。姿勢。視線。声の高さ。
それらが、「ここはどういう場所か」を教えてくれる。
右端の窓口。
明るく笑いながら、客の肩を軽く小突いている受付嬢が一人。
彼女の前には、すでに金貨の袋が三つ積まれています。
(あの笑顔——あれは“庶民を気持ちよく使う”タイプですわね)
中ほどの窓口。
背筋をまっすぐ伸ばし、丁寧すぎるほどの敬語を崩さない女が一人。
彼女の相手は、明らかに身なりの良い商人や小貴族。
(こちらは“上下関係に酔わせる”タイプ)
左端。
仏頂面のまま、書類を淡々とさばいている女が一人。
客は少ないけれど、その窓口に並ぶ者は皆、顔に諦めの色を浮かべている。
(クレーム処理。嫌われ役)
——すべての窓口が、“役割”で分かれている。
そして、その中心。
一段高い席で、全体を静かに見渡している女がひとり。
白金に近い髪をきちんと結い上げ、藍色の制服を乱さず着こなしている。
表情は柔らかくも硬くもない、不思議な「中庸」。
(——あれが、ここの“頂点”)
わたくしは一歩前に出て、その女と目を合わせました。
目が合った瞬間、理解します。
(この人は、“わたくしと同じ側”ですわ)
観察する側。
測り、分類し、選別する側。
女はすぐに視線を外しました。
けれど、その一瞬までに、互いの情報はもう交換されている。
気づいた。
気づかれた。
それだけで十分でした。
---
「ご用件を伺ってもよろしいかしら?」
落ち着いた声が、背後からかかりました。
振り返ると、先ほどの白金の女——リリアナが、すぐ近くに立っていました。
歩く音がしなかった。
気配も、ほとんど感じなかった。
(足音を消す癖。背筋——軍人出身か、軍人を見慣れていらっしゃるか……)
そういった分析は、言葉が交わされる前に終わっています。
わたくしはスカートの裾をつまみ、礼を取りました。
「マリアベル・エーメルトと申します。
辺境伯閣下よりの紹介で参りました」
差し出した封筒を、リリアナは一瞥して受け取りました。
紋章を確認し、蝋を親指で軽くなぞる。
「……なるほど。例の“駒”ね」
あっさりとした言葉。
けれど、その瞳は笑っていない。
(そう呼ばれていることくらい、当然知っておりますわ)
わたくしは、微笑を崩しませんでした。
「駒であることに、不満はございませんわ。
盤面さえ把握できていれば、十分ですもの」
その返答に、リリアナの目がわずかに細くなります。
計算。
試験。
興味。
ひとつ、ひとつ。
「……あなた、何歳?」
「十二ですわ」
「十二で、自分を“駒”と呼ぶのは、あまり良い趣味とは言えないわね」
「他人に呼ばれる前に、自分で決めておきたいだけですの」
リリアナの口元が、ほんのわずかに上がりました。
笑う、というより「線が緩んだ」に近い。
「いいわ。話が早い子は好きよ」
彼女は封筒を胸の前で軽く叩きました。
「辺境伯閣下の推薦状——内容はすでに聞いているわ。
“王都本部の受付嬢として実務に就かせ、同時に情報官として鍛えよ”」
その言い方に、わたくしは目を瞬きました。
「……“情報官”と、明言されておりますの?」
「ええ。わたしたちの間ではね」
リリアナは肩をすくめます。
「書類上は“補助要員”。
でも、あなたみたいな子をただの手元扱いするほど、ここも鈍くはないの」
(つまり——最初から、“両方の主”の間に立たされるわけですのね)
辺境伯。
王都ギルド。
どちらも権力を持ち、どちらも優先順位を間違えれば牙を向く主。
わたくしは、胸の奥に小さな熱を感じました。
恐怖ではなく——興奮。
「ご期待に沿えるよう、努めさせていただきますわ」
「期待なんてしていないわ」
リリアナはあっさりと言い切りました。
「“壊れなければ”それでいい。
王都は、才能のある子どもを壊す場所としては世界一優秀だから」
ふと、彼女は奥の控え室に視線を投げます。
制服姿の若い受付嬢たちが何人か集まり、ささやき合っている。
好奇心。
興味。
嫉妬。
警戒。
その全てが、距離を保ちながらこちらを伺っていました。
「さ、紹介してあげる。今日からあなたは“王都ギルド本部・受付嬢候補”よ」
その一言で、わたくしの新しい盤上生活が始まりました。
---
控え室で、簡単な自己紹介が行われました。
「アデールです。よろしくね、マリアベルちゃん」
「わたしはソラナ。とりあえず何かわからなかったら聞いて」
外見も声も、特別変わったところはない。
むしろ、どこにでもいる「普通の街娘」に見えます。
ですが、わたくしは一人ひとりの「癖」を即座に拾い上げていきました。
アデールは、相手の名前を呼ぶときに語尾を少し上げる。
ソラナは、人を褒めるときに必ず自分の話を一行挟む。
(アデールは“距離を詰めすぎる癖”。
ソラナは“自分の価値を確認したい癖”。)
それはそのまま、彼女たちの「扱い方」。
アデールには、適度に頼る。
ソラナには、こまめに「さすがですわね」と返してあげればいい。
そうして得た些細な好意は、後で大きな情報になる。
リリアナは、そんなわたくしの視線の動きを横目で見ていました。
(気づいていらっしゃる)
わたくしも、それを理解していました。
だから——隠さない。
隠したところで、隠していること自体を見抜かれる。
それなら最初から「観察する子」であることを正面から示し、受け入れられる形を探したほうがいい。
「では、今日は窓口の補助から始めましょうか」
午前の鐘が鳴ると同時に、リリアナが告げました。
「最初の二時間は、わたしの後ろで“見るだけ”。
口を出したくなっても、絶対に出さないこと」
「承知しましたわ」
それはわたくしにとって、ある意味もっとも難しい試験でした。
——見えるのに、口を出さない。
——理解しても、修正しない。
失敗は、指摘した瞬間に「責任」が生まれる。
辺境伯の下で最初に覚えた鉄則です。
だからこそ、今日のわたくしは「記録者」であることに徹しました。
リリアナが立つ第一窓口。
そこに次々客が訪れる。
疲れ切った中年の冒険者。
妙に高価な指輪をした若い商人。
自信過剰な新米パーティ。
クレームを握りしめた老人。
そのたび、リリアナの「笑顔」が変わります。
とはいえ、口角の角度はほとんど変わらない。
目の形も、声の高さも、大きくは違わない。
変わるのは——「沈黙の長さ」。
中年の冒険者には、敢えて沈黙を多く挟む。
相手が自分の不満や疲れを勝手に吐き切るまで、相槌だけで流す。
若い商人には、逆に言葉を重ねる。
「さすがですわ」「ご存じとは思いますが」と、相手の自尊心をくすぐる言葉を選び続ける。
新米パーティには、「質問」を投げる。
装備の質、最近受けた依頼、行ったことのある地方。
それらを聞きながら、彼らの実力値を、リリアナは頭の中で静かに数値化していく。
(これは……)
わたくしにはわかりました。
リリアナの頭の中には、「客の分類表」がある。
そこには条件と条件が掛け合わされ、
「この顔にはこの仕事」「この口調の人間にはこの金額」が、自動的に割り当てられている。
それは魔法でもスキルでもなく、
徹底した経験と記録と訓練の結晶。
(“無色の怪物”)
何の力も持たず、ただ「見て、覚え、計算する」だけでここまで到達した人間。
わたくしは、内心で敬意を抱きました。
(わたくしも、ああなるのでしょうね)
自分の終着点を、一つ見た気がしました。




