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文字海の戦場 ―紙の刃を見抜く日―




さらに数日をかけて、わたくしは二種類の報告書を作った。



一つは、形式どおりのまとめ。



戦局全体の推移。


損害の推計。


補給線の問題点。


村落の疲弊度。



王都の監査官が欲しがるであろう、


「無難な」情報の束。



もう一つは——閣下以外には見せるつもりのない一覧表だった。



名前。


役職。


管轄地。


報告書の癖。


数字の揺れ方。


噛み合わない嘆願。


怪しい時間帯。



わたくしはそれを、《紙上戦果推定》と名付けた。



誰も血を流していない。


しかし、数字と文字の上で“死んでいる”者たちが何人いるのか。



その推計だった。





報告の日。



重く閉ざされた執務室の扉を、ノックする。



「入れ」



低い声に従い、わたくしは資料を抱えて中へ進んだ。



辺境伯閣下は机に肘をつき、顎に指を添えながら、窓の外を眺めていた。



視線だけが、こちらを捉える。



「——終わったか」



「はい。三年分、ひととおり目を通しました」



「“目を通した”だけで済むなら、楽でいいのだがな」



皮肉めいた言葉。


だが、その裏にわずかな期待の気配があることを、わたくしは知っていた。



机上に、まず「無難なほう」の報告書を置く。



「こちらが、王都向けの戦況整理です。


戦線はおおむね安定、ただし補給線に負荷が蓄積しつつあること。


村落の疲弊度は限界手前ですが、まだ持ちこたえ得る範囲にあること。


敵勢力の増減は、ここ十ヶ月ほどは“変則的な静穏”に移行していること」



閣下は黙ってページをめくる。



目の動きが早い。


紙の上の情報を脳内の盤面に落とし込む速度が、他の誰よりも速い人だった。



彼の指先が、一箇所で止まる。



「……“変則的な静穏”、か」



「はい。戦闘頻度は減っております。


ですが、そのわりに行方不明者の報告が減っておりません」



わたくしは、二冊目の資料を取り出した。



閣下の前に置くとき、一瞬だけ逡巡した。



これは、危険な紙だ。



読む者も、書いた者も、持つ者も——全員を危うくする可能性がある。



だが、ここへ来ると決めた時点で、この道を選んだのだ。



「こちらが……“もうひとつ”の戦況です」



閣下の眉が、わずかに動いた。



表紙には何も書かれていない。


ただ白紙。



中身だけが、毒。



閣下はゆっくりと、しかし迷いなくページを開いた。





静寂が、部屋を満たす。



紙をめくる音だけが続いた。



三ページ目で、閣下の指が止まる。



そこには、ある一人の名が、何度も何度も登場していた。



遊撃隊長。


臨時防衛責任者。


村落調停役。



肩書きだけ見れば、重くも軽くもない。


しかし、その名にまつわる数字の揺れは——重かった。



報告書の言い回しの癖。


損害の割合。


補給品の行き先。



わたくしは、それらを全て記号と線で結びつけていた。



閣下の目が、一度だけ紙から離れ、わたくしを見た。



「……“殺しておる”と見るか、“守っておる”と見るか」



咎める色ではなかった。


問いの声だ。



わたくしは、少しだけ考えた。



この人物が、数字を弄っているのは間違いない。


戦死を水増ししている箇所もあれば、逆に減らしている箇所もある。



補給品の流れも、報告と実態がズレている。



だが——それがすべて、私利私欲のためとは限らなかった。



「現場を見ておりませんので、断言はできません。


ですが、書類の上だけで申し上げるなら——」



ひと呼吸置いてから、言葉を継ぐ。



「“守ろうとしている”ほうに、傾いているように見えます」



閣下の目が、細くなる。



「根拠は?」



「行方不明者の数が、戦闘報告のわりに“少なすぎる”のです。


普通に戦っていれば、もっと“消える”はず。


ですが、この人物の管轄では、行方不明者が節目ごとに“戻ってきている”。別の名簿で、ですが」



わたくしは別紙を示した。



そこには、補給係の名簿、村落側の納税記録、徴兵解除の申請書が並べてある。



「戦死とされた名が、数ヶ月後に“農具の支給者”として現れています。


別の場所では、“徴兵解除された者”の家庭に、なぜか補助米が優先的に配られている」



数字を追っただけの人間には、見えない繋がりだ。



閣下はページを戻し、別の箇所を見る。



「では——この“過剰支出”は?」



「そこは、守るために“盗んでいる”ように見えます」



自分でも、ひどい言い方だと思った。



だが事実、そうとしか読めなかった。



「他の管轄に比べて、矢と油の消費が多すぎます。


実際に使ったか、あるいは、どこかに備蓄しているか。


いずれにせよ、帳簿の上では“戦闘に費やした”ことになっておりますが——嘆願書を読む限り、その村はここ半年、静かすぎます」



敵が来ていない。


それでも矢と油は「消えている」。



どこへ。



誰の命を守るために。



あるいは、誰かに渡すために。



そこまでは、この紙だけでは断定できない。



だが、「ただ金を盗んでいる」者の数字ではないことは、分かった。





閣下は本を閉じた。



机の上で、指先が軽くリズムを刻む。



「なるほど」



短い言葉だった。



「おおかた、わたしが危惧していた通り——いや、それ以上だな」



「……以上?」



「わたしが王都に出すべき報告は、“不正はあり得るが、現時点で重大な悪意ある横領は確認できない”というものだ」



閣下はあくまで現実的だった。



「“守るために盗む”者たちの存在は、黙認せざるを得ないこともある。この辺境ではな。だが——王都の連中はそうはいかん。“数字の外側”を見る目を持たぬ者ほど、数字だけを信じる」



だから、と彼は続けた。



「君のこの“もうひとつの戦況”は、わたしの机から外に出すわけにはいかない」



予想していた答えだ。



それでも、本能的に喉が熱くなるほどの悔しさはあった。



この紙の上には、誰かの必死の足掻きが積もっている。


名もなき兵や、農夫や、母親や、隊長たちの「ぎりぎりの線」がある。



それを、闇に戻さねばならない。



「——納得は、しているのかね?」



閣下の問いに、わたくしは少し考えてから答えた。



「納得ではなく、了解ですわ」



彼の口元が、わずかに歪む。



「違いは?」



「納得は、自分の中で感情を収めること。


了解は、“感情とは別に行動を決める”ことです」



わたくしはゆっくりと息を吐いた。



「わたくしは、閣下の“目”としてここにおります。


この紙をどう扱うかを決めるのは、わたくしではなく閣下」



「君は、それでいいのか?」



「よくはありませんわ」



正直に言った。



「ですが——」



机の上の資料を見下ろす。



「ここでわたくしの感情を優先したら、この紙の中の誰かが“また”死ぬかもしれません。


王都の監査官に全て渡せば、“守るために盗んだ者”まで一緒に処罰されるかもしれない」



それは、わたくしの望む未来ではない。



「わたくしの望みは、“盤面そのもの”を壊さないことです。


誰が正しく、誰が間違っているかより前に——盤がひっくり返らないようにすること」



辺境伯閣下の目が、そこで初めて細く笑った。



「……盤面の維持、か」



「はい」



喉の奥に、言葉がひとつ引っかかっていた。



けれど、今ここで出すべきではないと思った。



わたくしはその代わりに、別の問いを口にした。



「閣下。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」



「何だ」



「この“守るために盗んでいる者”を——どうなさるおつもりですか?」



閣下は少しだけ目を伏せた。



「……まだ、決めかねている」



正直な答えだった。



「しかし、“殺す必要のない者”だとはわかった。君のおかげでな」



その言葉は、褒め言葉というより、重い確認のように聞こえた。



わたくしは、ようやく息をついた。





「マリアベル」



報告が一段落したあと、閣下は別の紙束を取り出した。



そこには、王都から送られてきた通達や、他領からの書簡が混ざっている。



「“王都送り”の話だ」



少し前から噂には聞いていた。


だが、こうして正式な文面として目の前に置かれると、その重さは違う。



「王都ギルドが、“辺境で使える目と耳”を欲しがっている」


「……わたくしを、でしょうか」



「他に誰がいる」



閣下はあっさりと言ってのけた。



「君は今日、自分の目と頭で三年分の戦場を歩いた。


王都の監査官とて、その境地に辿り着ける者はそう多くない」



机を軽く指で叩く。



「紙の上で戦場を読む目は、王都のほうが必要とする」



わたくしは、一瞬言葉を失った。



予感はあった。


それでも、それはどこか遠い未来の話だと勝手に思っていた。



だが——世の中の決定は、往々にして当人の準備が整う前に下される。



「嫌か?」



閣下の問いは、直接だった。



わたくしは、少しだけ考えるふりをした。



本当は、もう答えは決まっていた。



「“嫌”という感情は、ございます」



正直に言う。



「ですが、それ以上に——面白そうですわ」



閣下の口元が、またわずかに歪んだ。



「王都は、ここよりずっと醜く、ずっと美しいぞ。


嘘も、虚飾も、権力も、欲も——すべてが“正しい顔”をして歩いている」



「……それを、見てみたいのです」



わたくしは机上の白紙を見つめた。



「ここでは“紙”の戦場のみ。


ですが、王都には“人間そのものの戦場”があるのでしょう?」



辺境伯閣下の視線が、鋭くなる。



「君は、本当に——怪物になるつもりか」



もう一度、問われた気がした。



わたくしは、笑った。



この時ばかりは、仮面ではない笑みだったかもしれない。



「閣下がお望みなら」



「わたしが望んでいるのは、“壊れない怪物”だ」



閣下は立ち上がり、窓の外を見た。



夕陽が、砦の城壁を赤く染めている。



「盤面そのものを守ると言ったな。


なら、あらゆる駒の泣き声に、いちいち心を砕いていては務まらん」



「承知しております」



「それでも——」



閣下は、振り返らずに続けた。



「紙の外側で死んだ者たちのことを、時々でいい、思い出してやれ」



一瞬だけ、喉が詰まった。



その言葉は、慰めでも理屈でもなかった。



ただ、酷く人間臭い願いだった。



わたくしは少しだけ背筋を伸ばし、深く一礼した。



「——了解いたしました、閣下」





その夜、わたくしは自室に戻ると、机の上に一枚の紙を広げた。



誰にも出すつもりのない、私的な記録。



《側近初任務において判明したこと》



一、書類は、人を殺す。


一、書類は、人を生かす。


一、誰かを守るために数字を歪める者がいる。


一、その歪みを整える役もまた、必要である。


一、わたくしはその役を選び、選ばれた。



最後の行だけ、一度書いてから、少しだけ迷って書き換えた。



《わたくしは、“盤面を壊さない怪物”になる》



ペンを置く。



窓の外では、辺境の空が暗く沈みかけていた。



遠雷のような音が、はるか彼方で響く。



(いつか——この紙の戦場を、王都という盤面へ持ち込む日が来る)



そのときまでに、わたくしはもっと多くの「血塗れの書類」を見なければならない。



壊れないために。


壊すべき場所と、守るべき場所を見誤らないために。



そう思いながら目を閉じた夜——



まだ見ぬ白い都で、一人の少年が、まったく別の盤面で静かに成長していることを、



このときのわたくしは、まだ知らない。



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