文字海の戦場 ―紙の刃を見抜く日―
さらに数日をかけて、わたくしは二種類の報告書を作った。
一つは、形式どおりのまとめ。
戦局全体の推移。
損害の推計。
補給線の問題点。
村落の疲弊度。
王都の監査官が欲しがるであろう、
「無難な」情報の束。
もう一つは——閣下以外には見せるつもりのない一覧表だった。
名前。
役職。
管轄地。
報告書の癖。
数字の揺れ方。
噛み合わない嘆願。
怪しい時間帯。
わたくしはそれを、《紙上戦果推定》と名付けた。
誰も血を流していない。
しかし、数字と文字の上で“死んでいる”者たちが何人いるのか。
その推計だった。
◆
報告の日。
重く閉ざされた執務室の扉を、ノックする。
「入れ」
低い声に従い、わたくしは資料を抱えて中へ進んだ。
辺境伯閣下は机に肘をつき、顎に指を添えながら、窓の外を眺めていた。
視線だけが、こちらを捉える。
「——終わったか」
「はい。三年分、ひととおり目を通しました」
「“目を通した”だけで済むなら、楽でいいのだがな」
皮肉めいた言葉。
だが、その裏にわずかな期待の気配があることを、わたくしは知っていた。
机上に、まず「無難なほう」の報告書を置く。
「こちらが、王都向けの戦況整理です。
戦線はおおむね安定、ただし補給線に負荷が蓄積しつつあること。
村落の疲弊度は限界手前ですが、まだ持ちこたえ得る範囲にあること。
敵勢力の増減は、ここ十ヶ月ほどは“変則的な静穏”に移行していること」
閣下は黙ってページをめくる。
目の動きが早い。
紙の上の情報を脳内の盤面に落とし込む速度が、他の誰よりも速い人だった。
彼の指先が、一箇所で止まる。
「……“変則的な静穏”、か」
「はい。戦闘頻度は減っております。
ですが、そのわりに行方不明者の報告が減っておりません」
わたくしは、二冊目の資料を取り出した。
閣下の前に置くとき、一瞬だけ逡巡した。
これは、危険な紙だ。
読む者も、書いた者も、持つ者も——全員を危うくする可能性がある。
だが、ここへ来ると決めた時点で、この道を選んだのだ。
「こちらが……“もうひとつ”の戦況です」
閣下の眉が、わずかに動いた。
表紙には何も書かれていない。
ただ白紙。
中身だけが、毒。
閣下はゆっくりと、しかし迷いなくページを開いた。
◆
静寂が、部屋を満たす。
紙をめくる音だけが続いた。
三ページ目で、閣下の指が止まる。
そこには、ある一人の名が、何度も何度も登場していた。
遊撃隊長。
臨時防衛責任者。
村落調停役。
肩書きだけ見れば、重くも軽くもない。
しかし、その名にまつわる数字の揺れは——重かった。
報告書の言い回しの癖。
損害の割合。
補給品の行き先。
わたくしは、それらを全て記号と線で結びつけていた。
閣下の目が、一度だけ紙から離れ、わたくしを見た。
「……“殺しておる”と見るか、“守っておる”と見るか」
咎める色ではなかった。
問いの声だ。
わたくしは、少しだけ考えた。
この人物が、数字を弄っているのは間違いない。
戦死を水増ししている箇所もあれば、逆に減らしている箇所もある。
補給品の流れも、報告と実態がズレている。
だが——それがすべて、私利私欲のためとは限らなかった。
「現場を見ておりませんので、断言はできません。
ですが、書類の上だけで申し上げるなら——」
ひと呼吸置いてから、言葉を継ぐ。
「“守ろうとしている”ほうに、傾いているように見えます」
閣下の目が、細くなる。
「根拠は?」
「行方不明者の数が、戦闘報告のわりに“少なすぎる”のです。
普通に戦っていれば、もっと“消える”はず。
ですが、この人物の管轄では、行方不明者が節目ごとに“戻ってきている”。別の名簿で、ですが」
わたくしは別紙を示した。
そこには、補給係の名簿、村落側の納税記録、徴兵解除の申請書が並べてある。
「戦死とされた名が、数ヶ月後に“農具の支給者”として現れています。
別の場所では、“徴兵解除された者”の家庭に、なぜか補助米が優先的に配られている」
数字を追っただけの人間には、見えない繋がりだ。
閣下はページを戻し、別の箇所を見る。
「では——この“過剰支出”は?」
「そこは、守るために“盗んでいる”ように見えます」
自分でも、ひどい言い方だと思った。
だが事実、そうとしか読めなかった。
「他の管轄に比べて、矢と油の消費が多すぎます。
実際に使ったか、あるいは、どこかに備蓄しているか。
いずれにせよ、帳簿の上では“戦闘に費やした”ことになっておりますが——嘆願書を読む限り、その村はここ半年、静かすぎます」
敵が来ていない。
それでも矢と油は「消えている」。
どこへ。
誰の命を守るために。
あるいは、誰かに渡すために。
そこまでは、この紙だけでは断定できない。
だが、「ただ金を盗んでいる」者の数字ではないことは、分かった。
◆
閣下は本を閉じた。
机の上で、指先が軽くリズムを刻む。
「なるほど」
短い言葉だった。
「おおかた、わたしが危惧していた通り——いや、それ以上だな」
「……以上?」
「わたしが王都に出すべき報告は、“不正はあり得るが、現時点で重大な悪意ある横領は確認できない”というものだ」
閣下はあくまで現実的だった。
「“守るために盗む”者たちの存在は、黙認せざるを得ないこともある。この辺境ではな。だが——王都の連中はそうはいかん。“数字の外側”を見る目を持たぬ者ほど、数字だけを信じる」
だから、と彼は続けた。
「君のこの“もうひとつの戦況”は、わたしの机から外に出すわけにはいかない」
予想していた答えだ。
それでも、本能的に喉が熱くなるほどの悔しさはあった。
この紙の上には、誰かの必死の足掻きが積もっている。
名もなき兵や、農夫や、母親や、隊長たちの「ぎりぎりの線」がある。
それを、闇に戻さねばならない。
「——納得は、しているのかね?」
閣下の問いに、わたくしは少し考えてから答えた。
「納得ではなく、了解ですわ」
彼の口元が、わずかに歪む。
「違いは?」
「納得は、自分の中で感情を収めること。
了解は、“感情とは別に行動を決める”ことです」
わたくしはゆっくりと息を吐いた。
「わたくしは、閣下の“目”としてここにおります。
この紙をどう扱うかを決めるのは、わたくしではなく閣下」
「君は、それでいいのか?」
「よくはありませんわ」
正直に言った。
「ですが——」
机の上の資料を見下ろす。
「ここでわたくしの感情を優先したら、この紙の中の誰かが“また”死ぬかもしれません。
王都の監査官に全て渡せば、“守るために盗んだ者”まで一緒に処罰されるかもしれない」
それは、わたくしの望む未来ではない。
「わたくしの望みは、“盤面そのもの”を壊さないことです。
誰が正しく、誰が間違っているかより前に——盤がひっくり返らないようにすること」
辺境伯閣下の目が、そこで初めて細く笑った。
「……盤面の維持、か」
「はい」
喉の奥に、言葉がひとつ引っかかっていた。
けれど、今ここで出すべきではないと思った。
わたくしはその代わりに、別の問いを口にした。
「閣下。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「この“守るために盗んでいる者”を——どうなさるおつもりですか?」
閣下は少しだけ目を伏せた。
「……まだ、決めかねている」
正直な答えだった。
「しかし、“殺す必要のない者”だとはわかった。君のおかげでな」
その言葉は、褒め言葉というより、重い確認のように聞こえた。
わたくしは、ようやく息をついた。
◆
「マリアベル」
報告が一段落したあと、閣下は別の紙束を取り出した。
そこには、王都から送られてきた通達や、他領からの書簡が混ざっている。
「“王都送り”の話だ」
少し前から噂には聞いていた。
だが、こうして正式な文面として目の前に置かれると、その重さは違う。
「王都ギルドが、“辺境で使える目と耳”を欲しがっている」
「……わたくしを、でしょうか」
「他に誰がいる」
閣下はあっさりと言ってのけた。
「君は今日、自分の目と頭で三年分の戦場を歩いた。
王都の監査官とて、その境地に辿り着ける者はそう多くない」
机を軽く指で叩く。
「紙の上で戦場を読む目は、王都のほうが必要とする」
わたくしは、一瞬言葉を失った。
予感はあった。
それでも、それはどこか遠い未来の話だと勝手に思っていた。
だが——世の中の決定は、往々にして当人の準備が整う前に下される。
「嫌か?」
閣下の問いは、直接だった。
わたくしは、少しだけ考えるふりをした。
本当は、もう答えは決まっていた。
「“嫌”という感情は、ございます」
正直に言う。
「ですが、それ以上に——面白そうですわ」
閣下の口元が、またわずかに歪んだ。
「王都は、ここよりずっと醜く、ずっと美しいぞ。
嘘も、虚飾も、権力も、欲も——すべてが“正しい顔”をして歩いている」
「……それを、見てみたいのです」
わたくしは机上の白紙を見つめた。
「ここでは“紙”の戦場のみ。
ですが、王都には“人間そのものの戦場”があるのでしょう?」
辺境伯閣下の視線が、鋭くなる。
「君は、本当に——怪物になるつもりか」
もう一度、問われた気がした。
わたくしは、笑った。
この時ばかりは、仮面ではない笑みだったかもしれない。
「閣下がお望みなら」
「わたしが望んでいるのは、“壊れない怪物”だ」
閣下は立ち上がり、窓の外を見た。
夕陽が、砦の城壁を赤く染めている。
「盤面そのものを守ると言ったな。
なら、あらゆる駒の泣き声に、いちいち心を砕いていては務まらん」
「承知しております」
「それでも——」
閣下は、振り返らずに続けた。
「紙の外側で死んだ者たちのことを、時々でいい、思い出してやれ」
一瞬だけ、喉が詰まった。
その言葉は、慰めでも理屈でもなかった。
ただ、酷く人間臭い願いだった。
わたくしは少しだけ背筋を伸ばし、深く一礼した。
「——了解いたしました、閣下」
◆
その夜、わたくしは自室に戻ると、机の上に一枚の紙を広げた。
誰にも出すつもりのない、私的な記録。
《側近初任務において判明したこと》
一、書類は、人を殺す。
一、書類は、人を生かす。
一、誰かを守るために数字を歪める者がいる。
一、その歪みを整える役もまた、必要である。
一、わたくしはその役を選び、選ばれた。
最後の行だけ、一度書いてから、少しだけ迷って書き換えた。
《わたくしは、“盤面を壊さない怪物”になる》
ペンを置く。
窓の外では、辺境の空が暗く沈みかけていた。
遠雷のような音が、はるか彼方で響く。
(いつか——この紙の戦場を、王都という盤面へ持ち込む日が来る)
そのときまでに、わたくしはもっと多くの「血塗れの書類」を見なければならない。
壊れないために。
壊すべき場所と、守るべき場所を見誤らないために。
そう思いながら目を閉じた夜——
まだ見ぬ白い都で、一人の少年が、まったく別の盤面で静かに成長していることを、
このときのわたくしは、まだ知らない。




