文字海の戦場 ―側近初任務
最初の「任務」は、剣でも、毒でも、使者でもなかった。
わたくしに与えられたのは——
ただ、山のような紙だった。
◆
「三年分の戦況報告と、出納帳、意見具申、査閲記録。……それから、村落側からの嘆願書もだな」
そう言って、辺境伯閣下は腕を軽く振った。
書庫の奥、石壁に囲まれた冷えた部屋。
そこに、木箱がいくつも積み上げられている。
封蝋の割れかけた報告書。
縁が脂と土で汚れた出納帳。
丁寧な筆と、震えるような筆致が混ざり合った嘆願書。
それらが、雑多に、無慈悲に、ただ紙として積まれていた。
「三年分……ですの?」
口に出してから、自分でも愚問だと思った。
目の前に積み上がっているのだから、疑う余地はない。
閣下は椅子に深く腰を下ろし、頬杖をついた。
「王都から、監査官が来る」
それだけを言う声に、わずかな倦怠と、微かな興味が混じっていた。
「諸君らの公正を信じている……とは、あちらも建前では言うのだろうが。実際には、“何か見つかれば儲けもの”と思っておる。王都の役人というものは、大体そういう生き物だ」
「……不正の有無を、事前に洗い出せ、と?」
「“不正がない”と言い切れる地は、どこにもないさ」
閣下は目を細めた。
そこに映るのは人間への失望ではなく、人間そのものへの冷静な理解だ。
「戦地では、誰もが生き延びようと足掻く。村落を守るために偽装する者もおれば、己の懐を肥やすために帳簿を弄る者もいる。書類を積み上げているうちに、何が原形で何が誤魔化しなのか分からなくなっている者も多い」
指先で机を軽く叩く。
「——わたしが知りたいのは、“誰がどこまで”やっているのかだ」
その視線が、わたくしを射抜いた。
「王都の監査官より先に、わたしに答えを出せ。マリアベル」
◆
紙は、静かに積もっていた。
初日。
最初に手をつけたのは、戦況報告書だった。
形式は整っている。
日付、天候、敵影、損害、補給。
だが——それらをただ順に追っても、何も見えてはこない。
「読む」のでは遅すぎる。
必要なのは、「見る」こと。
文字の癖。
同じ言い回しの反復。
数字の並び方。
戦であれば、矛と盾の重さ、兵の呼吸、足音の間隔を見るように。
これは、紙の戦場だ。
まず、書き手を分けた。
同じ筆跡、同じ癖のある言葉遣い。
気圧の記録だけ妙に詳細な者。
敵の特徴だけ饒舌に書き立てる者。
損害を書き渋る者。
報告書の右上に、こっそりと印をつけていく。
丸。
三角。
四角。
星。
内容ではなく、「書き方」で分類する。
二日目、三日目。
次は数字に印をつけた。
補給品の出入り。
矢束、穀物、油、薬草。
桁数の揺れ。
増減の波。
何も起こらなかった日の数字の「落ち着き方」。
村落からの嘆願書と照らし合わせる。
「今期、矢が足りない」と訴える村。
「税は重いが戦は静か」と書く村。
「息子を徴兵から戻してほしい」と滲ませる母親の文字。
それらと、戦況報告の数字は、必ずどこかで相互に噛み合うはずだった。
——噛み合っていない場所があるとすれば、それは“嘘”だ。
◆
四日目。
わたくしは一度机から離れ、窓を開けた。
外は静かな朝だった。兵の掛け声、鍛冶場の槌音、畑を行き来する者たちの足音。
この城砦が呼吸をしている気配が、かすかに伝わってくる。
机に戻る。
出納帳を、最初から最後まで一気に追った。
そこでは人間味は消え、数字だけが行進している。
それでも——熟れていない嘘は、足をもつれる。
「……ここですわね」
つぶやきが零れた。
一箇所ではなかった。
あからさまな改竄ならば、誰でも気づく。
そうではない。
小さな食い違い。
二桁の上下。
半月早い支出。
奇妙なまでに「きれいすぎる」損耗率。
一つひとつは誤差と呼べる範囲。
だが、それが半年、一年と積み重なったら——?
そしてそれが、ある一人の管轄にだけ偏っていたとしたら?
その者の名を、わたくしはまだ一度も会ったことがなかった。
報告書に記された肩書きは控えめだ。
「第○遊撃隊長」「臨時防衛責任者」「周辺村落連絡役」。
だが——紙の上で動くその人物は、控えめでも無害でもなかった。
戦死者の報告。
行方不明者。
焼かれた畑の面積。
それらの数字の揺れが、少しずつ、しかし確実に、
「何かを隠そうとしている人間の手つき」を示していた。
◆
五日目。
わたくしは、書庫を出て、城内の古い地図を広げた。
報告書に出てくる地名を、ひとつずつ指でなぞる。
ここで、ハイラット出没。
ここで、盗賊団の壊滅。
ここで、村落の一部焼失。
地図の上には、血と煙の跡が、紙よりも正直に残っている。
(——ここで本当に“焼けた”のかしら)
疑いが芽生えた地点に、小さな石を置いていく。
嘆願書と照らし合わせる。
「畑は焼けましたが、神殿だけは無事でした」
「家を失った者は、親戚のもとへ身を寄せております」
それらの文章が示す風景と、戦況報告に書かれた「焼失率」は、微妙に噛み合わない。
焼かれた面積のわりに、避難先の記述が少なすぎる。
——「いない」人間が、そこにはいる。
死んだことにされたのか。
どこかへ売られたのか。
徴発の名目で連れ去られたのか。
わたくしには、まだそこまでは断定できない。
だが一つだけは確かだ。
「紙の上で、誰かが消されている」。




