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文字海の戦場 ―側近初任務




最初の「任務」は、剣でも、毒でも、使者でもなかった。



わたくしに与えられたのは——



ただ、山のような紙だった。





「三年分の戦況報告と、出納帳、意見具申、査閲記録。……それから、村落側からの嘆願書もだな」



そう言って、辺境伯閣下は腕を軽く振った。



書庫の奥、石壁に囲まれた冷えた部屋。


そこに、木箱がいくつも積み上げられている。



封蝋の割れかけた報告書。


縁が脂と土で汚れた出納帳。


丁寧な筆と、震えるような筆致が混ざり合った嘆願書。



それらが、雑多に、無慈悲に、ただ紙として積まれていた。



「三年分……ですの?」



口に出してから、自分でも愚問だと思った。


目の前に積み上がっているのだから、疑う余地はない。



閣下は椅子に深く腰を下ろし、頬杖をついた。



「王都から、監査官が来る」



それだけを言う声に、わずかな倦怠と、微かな興味が混じっていた。



「諸君らの公正を信じている……とは、あちらも建前では言うのだろうが。実際には、“何か見つかれば儲けもの”と思っておる。王都の役人というものは、大体そういう生き物だ」



「……不正の有無を、事前に洗い出せ、と?」



「“不正がない”と言い切れる地は、どこにもないさ」



閣下は目を細めた。


そこに映るのは人間への失望ではなく、人間そのものへの冷静な理解だ。



「戦地では、誰もが生き延びようと足掻く。村落を守るために偽装する者もおれば、己の懐を肥やすために帳簿を弄る者もいる。書類を積み上げているうちに、何が原形で何が誤魔化しなのか分からなくなっている者も多い」



指先で机を軽く叩く。



「——わたしが知りたいのは、“誰がどこまで”やっているのかだ」



その視線が、わたくしを射抜いた。



「王都の監査官より先に、わたしに答えを出せ。マリアベル」





紙は、静かに積もっていた。



初日。



最初に手をつけたのは、戦況報告書だった。



形式は整っている。


日付、天候、敵影、損害、補給。



だが——それらをただ順に追っても、何も見えてはこない。



「読む」のでは遅すぎる。


必要なのは、「見る」こと。



文字の癖。


同じ言い回しの反復。


数字の並び方。



戦であれば、矛と盾の重さ、兵の呼吸、足音の間隔を見るように。



これは、紙の戦場だ。



まず、書き手を分けた。



同じ筆跡、同じ癖のある言葉遣い。


気圧の記録だけ妙に詳細な者。


敵の特徴だけ饒舌に書き立てる者。


損害を書き渋る者。



報告書の右上に、こっそりと印をつけていく。



丸。


三角。


四角。


星。



内容ではなく、「書き方」で分類する。



二日目、三日目。



次は数字に印をつけた。



補給品の出入り。


矢束、穀物、油、薬草。



桁数の揺れ。


増減の波。


何も起こらなかった日の数字の「落ち着き方」。



村落からの嘆願書と照らし合わせる。



「今期、矢が足りない」と訴える村。


「税は重いが戦は静か」と書く村。


「息子を徴兵から戻してほしい」と滲ませる母親の文字。



それらと、戦況報告の数字は、必ずどこかで相互に噛み合うはずだった。



——噛み合っていない場所があるとすれば、それは“嘘”だ。





四日目。



わたくしは一度机から離れ、窓を開けた。



外は静かな朝だった。兵の掛け声、鍛冶場の槌音、畑を行き来する者たちの足音。



この城砦が呼吸をしている気配が、かすかに伝わってくる。



机に戻る。



出納帳を、最初から最後まで一気に追った。



そこでは人間味は消え、数字だけが行進している。



それでも——熟れていない嘘は、足をもつれる。



「……ここですわね」



つぶやきが零れた。



一箇所ではなかった。



あからさまな改竄ならば、誰でも気づく。


そうではない。



小さな食い違い。


二桁の上下。


半月早い支出。


奇妙なまでに「きれいすぎる」損耗率。



一つひとつは誤差と呼べる範囲。


だが、それが半年、一年と積み重なったら——?



そしてそれが、ある一人の管轄にだけ偏っていたとしたら?



その者の名を、わたくしはまだ一度も会ったことがなかった。



報告書に記された肩書きは控えめだ。



「第○遊撃隊長」「臨時防衛責任者」「周辺村落連絡役」。



だが——紙の上で動くその人物は、控えめでも無害でもなかった。



戦死者の報告。


行方不明者。


焼かれた畑の面積。



それらの数字の揺れが、少しずつ、しかし確実に、


「何かを隠そうとしている人間の手つき」を示していた。





五日目。



わたくしは、書庫を出て、城内の古い地図を広げた。



報告書に出てくる地名を、ひとつずつ指でなぞる。



ここで、ハイラット出没。


ここで、盗賊団の壊滅。


ここで、村落の一部焼失。



地図の上には、血と煙の跡が、紙よりも正直に残っている。



(——ここで本当に“焼けた”のかしら)



疑いが芽生えた地点に、小さな石を置いていく。



嘆願書と照らし合わせる。



「畑は焼けましたが、神殿だけは無事でした」


「家を失った者は、親戚のもとへ身を寄せております」



それらの文章が示す風景と、戦況報告に書かれた「焼失率」は、微妙に噛み合わない。



焼かれた面積のわりに、避難先の記述が少なすぎる。



——「いない」人間が、そこにはいる。



死んだことにされたのか。


どこかへ売られたのか。


徴発の名目で連れ去られたのか。



わたくしには、まだそこまでは断定できない。



だが一つだけは確かだ。



「紙の上で、誰かが消されている」。



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