表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/16

境界の間合い ―辺境伯との“無音の対局




扉が開いた瞬間——わたくしは、この部屋の空気が“形”を持っていると理解した。



書物の匂いではない。


香油の匂いでもない。


もっと乾いて、しかし重い……まるで鉄そのものが呼吸しているような空気。



視界の奥、壁際に整然と並んだ武具たちが、それを説明していた。



槍、剣、折れた盾——。


どれも飾り物ではなく、刃こぼれ、血の痕、磨いた跡を持つ。


戦場の“記録”としてここに存在していた。



そして、その中心に——



辺境伯がいた。



壮年の男。


背は高く、肉付きは厚く、それでも贅肉はひとつもない。


額には深い皺、手には無数の古傷。



ただ立っているだけで、部屋の温度が変わるような人だった。





視線が交わった瞬間、わたくしは呼吸が一拍遅れた。



(……この人、“隙”がない)



人の視線には必ず揺れがある。


好奇心、警戒、優越、苛立ち、嘲り……


人は“完全な無色”でいることなどできない。



だが、この男は——



表情も、眉も、目も、揺れなかった。


読み取れるものが、何ひとつ存在しなかった。



(……こちらの観察の“一歩先”を、すべて予定している目)



初めてだった。


目が合った瞬間に、観察を封じられたのは。



辺境伯は口を開いた。



「——マリアベル・エーメルトか」



声は低く、穏やかですらあった。


だがその穏やかさは、木箱に見せかけて内側に刃を仕込んだような圧を持っていた。



「はい。お呼び立ていただき、光栄に存じます」



わたくしは深く礼をした。


背筋の角度、首の傾け方、言葉選び——


すべて“相手の反応が一歩遅れるはず”の動きである。



だが。



「なるほど」



辺境伯の反応は、さらにその一歩先を行っていた。



たった一言で、胸の奥がざわついた。



(……何を“なるほど”と感じたの?)



情報がない。


読み筋がない。


ただ一瞬、視線の奥で“理解”の光が走った。



それはわたくしが他者に向ける反応とまったく同じものだった。





「近う寄れ」



促され、わたくしは机の前へ進んだ。



机には紙束が数枚積まれている。


わたくしに関する情報——学習速度、行動記録、使用人の証言、買い付けの成功率、


そして“不可解な予測”の数々。



(……“わたくしの観察者”は、この人)



辺境伯は紙束を指で叩き、淡々と告げた。



「お前の言動は、常人よりだいぶ速いらしいな」



わたくしは肯定も否定もせず、静かに待った。



「三歳で言語の構造を分析したとある。


四歳で周囲の嘘を全て見抜き、『気味が悪い』と言われた。


五歳で家庭教師を泣かせて追い返した」



「……意図はありませんでした」



「だろうな」



即答。



(……読まれている?)



いいえ——違う。


読んでいるのは心ではなく、


情報の脈絡、流れ、傾向。



わたくしが“反応”を見るように、


この人は“事象”を見る。



思考の方式は違えど、質が似ている。



(……わたくしに似ている)



初めて出会う、対等の盤面を持つ者——そう思った。





「一度、問おう」



その声が落ちた瞬間、室内の空気が鋼の糸のように張り詰めた。



「お前は自分が“普通ではない”と自覚しているか?」



呼吸を一瞬止めた。



嘘をつけば——この男は二度と信用しない。


そう直感ではなく“確信”した。



「……はい。自覚しております」



「それを恥じているか?」



「いいえ」



「誇っているか?」



——詰まった。


恥じてもいないし、誇ってもいない。



「……誇れるほどの成果を出したわけではないと存じます」



辺境伯の眉が、わずかに動いた。


意外、ではない。


“期待の外の答え”に対する反応。



そして、低く笑った。



「面白い」



その一言で空気が変わった。


威圧の中に、興味と好奇心が混ざり始めた。



(……この人は、“使える駒”を欲しているのではない)



(“自分と同質の怪物”を探している)





「マリアベル」



名前を呼ぶ声は、刃よりも鋭かった。



「お前の持つ異能は、神秘でも魔術でもない。


ただの“理解速度”だ。


しかし——理解は戦場では剣より重い」



「……剣より、ですか」



「剣は一本しか斬れん。


理解は十を動かし、百を殺し、千を救う」



語っているのは理念ではなく、“経験”。


命が動く場で、結果が数万人の生死となる世界を知る者の声だった。



辺境伯は椅子を立ち、わたくしの前に歩み寄る。


重いが迷いのない足取り。



「——マリアベル。


お前を我が側近候補として迎えたい」



来た。


この呼び出しの本質。


選抜——それが真意。



だが、辺境伯はさらに続ける。



「ただし“イエス”と言えば、もう人生は戻らん。


家の娘としての未来は消える。


お前は数字となり、情報となり、剣より冷たい役目を担う」



その声には、不思議な温度があった。



(……これは、警告?)



八歳の子どもに告げる内容ではない。


だが、わたくしは迷わなかった。



「お誘いに感謝いたします、閣下」



そして——微笑んだ。



「わたくしの人生は、元より“戻る場所”などございませんでした」



長い沈黙。



やがて、辺境伯はかすかに微笑んだ。



「……ならば、決まりだ」



それは“戦場の勝者の笑み”ではなく、


新しい“刃”を得た者の笑みだった。





「まずは——ひとつだ」



辺境伯は机の札を取り、わたくしに渡した。


裏には数字の羅列。



「この数字の意味を、明日の朝までに解け。


側近に加わる者の最低条件だ」



挑発ではない。


試験ですらない。



(……“共通言語を持てるかどうか”の確認)



わたくしは頷いた。



「了解いたしました、閣下」



札を胸に当て、礼をした瞬間——



「マリアベル」



「はい」



「お前はいずれ“王都”へ送ることになる。


あそこはここより遥かに濁っている。


そして——怪物は、ああいう場所でこそ必要とされる」



その瞳は底が見えない黒。



「生き残れ。


わたしの“目”として」



その言葉を聞いた瞬間、


わたくしの心臓は初めて速く打った。



(——この人の下でなら、世界の“底”まで見える)



歓喜だった。



「必ずや」



短く告げ、礼をして退室した。





扉が閉じられた瞬間、廊下の空気が現実に戻る。



護衛の騎士たちがわたくしを見る。



評価でも警戒でもなく——驚愕。



十年ぶり。


閣下が「側近候補」を個別に呼びつけたのは、十年ぶりだと彼らは知っていた。



(十年ぶり……?)



歩きながら、わたくしは胸の奥で小さく笑った。



(わたくし、本当に……戻れませんわね)



だが、それは恐怖ではなかった。



“ようやく、自分の居場所を見つけた”という静かな喜びだった。



——わたくしはまだ八歳。


——だがこの日、マリアベル・エーメルトは


自分の手でレールを外し、


怪物としての道を歩き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ