境界の間合い ―辺境伯との“無音の対局
扉が開いた瞬間——わたくしは、この部屋の空気が“形”を持っていると理解した。
書物の匂いではない。
香油の匂いでもない。
もっと乾いて、しかし重い……まるで鉄そのものが呼吸しているような空気。
視界の奥、壁際に整然と並んだ武具たちが、それを説明していた。
槍、剣、折れた盾——。
どれも飾り物ではなく、刃こぼれ、血の痕、磨いた跡を持つ。
戦場の“記録”としてここに存在していた。
そして、その中心に——
辺境伯がいた。
壮年の男。
背は高く、肉付きは厚く、それでも贅肉はひとつもない。
額には深い皺、手には無数の古傷。
ただ立っているだけで、部屋の温度が変わるような人だった。
◆
視線が交わった瞬間、わたくしは呼吸が一拍遅れた。
(……この人、“隙”がない)
人の視線には必ず揺れがある。
好奇心、警戒、優越、苛立ち、嘲り……
人は“完全な無色”でいることなどできない。
だが、この男は——
表情も、眉も、目も、揺れなかった。
読み取れるものが、何ひとつ存在しなかった。
(……こちらの観察の“一歩先”を、すべて予定している目)
初めてだった。
目が合った瞬間に、観察を封じられたのは。
辺境伯は口を開いた。
「——マリアベル・エーメルトか」
声は低く、穏やかですらあった。
だがその穏やかさは、木箱に見せかけて内側に刃を仕込んだような圧を持っていた。
「はい。お呼び立ていただき、光栄に存じます」
わたくしは深く礼をした。
背筋の角度、首の傾け方、言葉選び——
すべて“相手の反応が一歩遅れるはず”の動きである。
だが。
「なるほど」
辺境伯の反応は、さらにその一歩先を行っていた。
たった一言で、胸の奥がざわついた。
(……何を“なるほど”と感じたの?)
情報がない。
読み筋がない。
ただ一瞬、視線の奥で“理解”の光が走った。
それはわたくしが他者に向ける反応とまったく同じものだった。
◆
「近う寄れ」
促され、わたくしは机の前へ進んだ。
机には紙束が数枚積まれている。
わたくしに関する情報——学習速度、行動記録、使用人の証言、買い付けの成功率、
そして“不可解な予測”の数々。
(……“わたくしの観察者”は、この人)
辺境伯は紙束を指で叩き、淡々と告げた。
「お前の言動は、常人よりだいぶ速いらしいな」
わたくしは肯定も否定もせず、静かに待った。
「三歳で言語の構造を分析したとある。
四歳で周囲の嘘を全て見抜き、『気味が悪い』と言われた。
五歳で家庭教師を泣かせて追い返した」
「……意図はありませんでした」
「だろうな」
即答。
(……読まれている?)
いいえ——違う。
読んでいるのは心ではなく、
情報の脈絡、流れ、傾向。
わたくしが“反応”を見るように、
この人は“事象”を見る。
思考の方式は違えど、質が似ている。
(……わたくしに似ている)
初めて出会う、対等の盤面を持つ者——そう思った。
◆
「一度、問おう」
その声が落ちた瞬間、室内の空気が鋼の糸のように張り詰めた。
「お前は自分が“普通ではない”と自覚しているか?」
呼吸を一瞬止めた。
嘘をつけば——この男は二度と信用しない。
そう直感ではなく“確信”した。
「……はい。自覚しております」
「それを恥じているか?」
「いいえ」
「誇っているか?」
——詰まった。
恥じてもいないし、誇ってもいない。
「……誇れるほどの成果を出したわけではないと存じます」
辺境伯の眉が、わずかに動いた。
意外、ではない。
“期待の外の答え”に対する反応。
そして、低く笑った。
「面白い」
その一言で空気が変わった。
威圧の中に、興味と好奇心が混ざり始めた。
(……この人は、“使える駒”を欲しているのではない)
(“自分と同質の怪物”を探している)
◆
「マリアベル」
名前を呼ぶ声は、刃よりも鋭かった。
「お前の持つ異能は、神秘でも魔術でもない。
ただの“理解速度”だ。
しかし——理解は戦場では剣より重い」
「……剣より、ですか」
「剣は一本しか斬れん。
理解は十を動かし、百を殺し、千を救う」
語っているのは理念ではなく、“経験”。
命が動く場で、結果が数万人の生死となる世界を知る者の声だった。
辺境伯は椅子を立ち、わたくしの前に歩み寄る。
重いが迷いのない足取り。
「——マリアベル。
お前を我が側近候補として迎えたい」
来た。
この呼び出しの本質。
選抜——それが真意。
だが、辺境伯はさらに続ける。
「ただし“イエス”と言えば、もう人生は戻らん。
家の娘としての未来は消える。
お前は数字となり、情報となり、剣より冷たい役目を担う」
その声には、不思議な温度があった。
(……これは、警告?)
八歳の子どもに告げる内容ではない。
だが、わたくしは迷わなかった。
「お誘いに感謝いたします、閣下」
そして——微笑んだ。
「わたくしの人生は、元より“戻る場所”などございませんでした」
長い沈黙。
やがて、辺境伯はかすかに微笑んだ。
「……ならば、決まりだ」
それは“戦場の勝者の笑み”ではなく、
新しい“刃”を得た者の笑みだった。
◆
「まずは——ひとつだ」
辺境伯は机の札を取り、わたくしに渡した。
裏には数字の羅列。
「この数字の意味を、明日の朝までに解け。
側近に加わる者の最低条件だ」
挑発ではない。
試験ですらない。
(……“共通言語を持てるかどうか”の確認)
わたくしは頷いた。
「了解いたしました、閣下」
札を胸に当て、礼をした瞬間——
「マリアベル」
「はい」
「お前はいずれ“王都”へ送ることになる。
あそこはここより遥かに濁っている。
そして——怪物は、ああいう場所でこそ必要とされる」
その瞳は底が見えない黒。
「生き残れ。
わたしの“目”として」
その言葉を聞いた瞬間、
わたくしの心臓は初めて速く打った。
(——この人の下でなら、世界の“底”まで見える)
歓喜だった。
「必ずや」
短く告げ、礼をして退室した。
◆
扉が閉じられた瞬間、廊下の空気が現実に戻る。
護衛の騎士たちがわたくしを見る。
評価でも警戒でもなく——驚愕。
十年ぶり。
閣下が「側近候補」を個別に呼びつけたのは、十年ぶりだと彼らは知っていた。
(十年ぶり……?)
歩きながら、わたくしは胸の奥で小さく笑った。
(わたくし、本当に……戻れませんわね)
だが、それは恐怖ではなかった。
“ようやく、自分の居場所を見つけた”という静かな喜びだった。
——わたくしはまだ八歳。
——だがこの日、マリアベル・エーメルトは
自分の手でレールを外し、
怪物としての道を歩き始めた。




