孤独の教室で研がれる刃 —— 盤上に置かれる者
七歳になる頃には、周囲の大人たちは完全に二分されていました。
——必要最低限のことしか言わず、距離を取る人々。
——「さすがですわ」と褒めながら、恐怖と嫌悪を隠せない人々。
どちらも同じでした。
(仕方ありませんわ。“知らないもの”を嫌うのは当然ですもの)
わたくし自身、自分が何者なのか言語化できていたわけではありません。
ただ一つだけ、確かなことがありました。
——わたくしは、人の考えていることが少しだけ“先”に見える。
問いを投げられる前から、何を聞かれるかわかる。
叱られる前に、どの言葉が選ばれるか読める。
声の高さ、視線の揺れ、指先の動き、椅子のきしみ——
そうした微細な断片が“次の一手”を教えてくれるのです。
便利でした。
でも同時に——
(つまらない)
会話は答え合わせ、叱責は予定調和。
そんな中でただ一人、母だけは違いました。
母の「黙り方」が読めなかったのです。
わたくしが難しい本を読み上げると、母は微笑みました。
「すごいわね、マリアベルは」
声は柔らかく、目尻には誇らしさの光。
けれどその奥に、うっすらと影が差しているのをわたくしは見ました。
(……お母さまは、わたくしを“自分の手から離れていくもの”として見ている)
その理解が胸を冷やしました。
どうしても母だけには指摘できませんでした。
もし言えば、もっと遠くへ行ってしまう気がしたのです。
***
家庭教師はいなくなりましたが、
屋敷の書物のほとんどが「自由にしていい」と与えられました。
父は教えることを諦め、書庫の鍵をわたくしに渡しました。
「好きなだけ読めばいい。……ただ、身体だけは壊すなよ」
諦めと期待が同じ手のひらに混ざっていました。
歴史書、戦記、農政、財務、系譜。
物語よりも、現実の仕組みを解き明かす本ばかりを読みました。
やがて——屋敷の内だけでは満足できなくなりました。
(紙の上の理屈だけでは、“人”は動きませんもの)
七歳の終わり頃には、こっそり使用人たちの仕事場を覗き、
愚痴や相談、噂話を耳に入れるようになりました。
それらは教科書よりもずっと価値のある「現実」でした。
「塩の仕入れ先を一軒増やしてみてはいかがかしら」
「次の市では、小麦より芋を多めに買ったほうがよろしいですわ」
最初は笑われました。
でも二度、三度「当たった」あと、
人々の目は変わりました。
「お嬢様が言ってた通り、隣村の塩倉が火事だとよ」
「なんでわかるんだろうな……市場の空気を見るだけ、って話だが」
わたくしは空を見上げる使用人たちの視線を感じながら書庫へ戻りました。
(わたくしは空気を見ているのではありませんわ)
値段、動き、修繕状況。
小さな歪みの先に大きな出来事が起こる。
それは予知ではなく、観察と推論。
けれど周囲には「予知」に見えました。
そして噂は、想像以上に速く広まっていったのです。
***
八歳の夏。
父に呼ばれました。
執務室には見慣れない紋章の封筒。
銀を基調に、鋭い意匠。
辺境伯——領域の主の印でした。
「……マリアベル」
困惑、誇らしさ、恐れ。
混じった父の表情は、わたくしにとって見慣れた色でした。
「辺境伯閣下から、お前に“会いたい”とのお達しだ」
母の持つカップが震えました。
「お会いすると……どうなるのかしら」
「……わからん。だが、閣下が“個人名指し”で呼ぶことは滅多にない」
どこかで噂を聞いたのでしょう。
理由はどうでも良いことでした。
(この家の中だけでは、もう済まされないのですわね)
母を見ると、母は笑っていました。
笑いながら、膝の上で手をぎゅっと握りしめて。
(嬉しさ、誇らしさ、そして手放す覚悟……)
それらすべてが見えてしまう自分を、少しだけ恨みました。
わたくしが屋敷に留まり続ければ——
父の仕事を奪い、母の居場所を奪い、
家族を“わたくしの正しさ”で追い詰めてしまう未来が見えました。
ならば。
「お受けいたしますわ。閣下がお望みならば、喜んで」
母の指先から力が抜けました。
安堵とも諦めともわからない色。
父は目を伏せてから、当主の顔に戻りました。
「……そうか。準備を整えよう。出立は三日後だ」
わたくしの中で、何かが音を立てて切り替わったのがわかりました。
もう“家の娘”ではない。
ひとりの“駒”として。
***
三日後。
屋敷の前には辺境伯家の紋章旗を掲げた馬車。
護衛の騎士たち。
普通の遊学ではないことは明らかでした。
母が最後まで手を握っていました。
「寒くない? お腹は?」
「大丈夫ですわ、お母さま」
ケープの襟を少し整えると、
母の表情がわずかに和らぎました。
(……本当に、いやな子どもですわ)
そう自嘲しながらも、
手を離すときにはほんの少し力を込めました。
「行ってまいります」
父は距離を保ったまま、
「己を見失うなよ」
ただそれだけ。
馬車が動き出し、
屋敷が見えなくなるまで窓を見つめました。
最後に見えたのは、
小さな母の背中と、それを支えるように立つ父の影。
角を曲がると、すべてが途切れました。
***
辺境伯領の中心都市までは三日。
一日目は見慣れた村々。
二日目は森が深くなり、
三日目の朝、霧が晴れたとき——
わたくしは“本物の城”を見ました。
高い石壁。
複雑な防衛線。
古い傷と新しい補修。
(……ここを守っているのが、あの方)
門が開き、馬車が中庭へ。
兵士たちの声。
それらは“戦場に近い音”に聞こえました。
「マリアベル・エーメルト様とお見受けします」
出迎えの執事は、評価と観察だけを目に宿していました。
「閣下がお待ちです。——すぐにお通ししてよろしいか」
確認のようで命令。
わたくしは頷きました。
(ここから先は、戻れませんわね)
恐怖も期待もなく、
ただ“見てみたい”。
巨大な盤面を動かしてきた人間が、
一体どんな目をしているのか。
廊下を抜け、扉の前で止まる。
ノック。
「——辺境伯閣下。マリアベル・エーメルト様をお連れいたしました」
「入れ」
その一言で空気が変わりました。
息を吸い込みます。
扉が開きました。
わたくしは、
自分よりも遥かに上位の“怪物”と対面する寸前にいました。




