孤独の教室で研がれる刃—— 答えを持つ子ども
六歳になったころ、わたくしの家の中では「ため息」という音が増えていきました。
いつからか、その数を数えるのをやめてしまうほどに。
母が茶器を持ち上げるたび、ひとつ。
父が書類を閉じるたび、ひとつ。
玄関の扉が開いて家庭教師が帰っていく背中を見送るときには、ふたつ、みっつ。
どれも声にならないため息でしたが、わたくしにははっきりと意味がわかりました。
(——また、ひとり減った)
五歳のときに論破してしまった家庭教師は、あれきり戻ってきませんでした。
その後に来た者たちも、みな同じような顔をして去っていきました。
最初のうち、父は「本当に頭がよくてね」と笑っていましたのに、
いつしか言葉を選ぶようになりました。
「……少し、素直さが足りないのかもしれないな」
「子どもらしさ、というものが……」
母は笑って頷きながら、茶器の皿にそっと爪を立てていました。
底面に細かい傷が増えていくたびに、
わたくしはそれが家庭教師の在籍期間と見事に比例していることを知りました。
***
新しい家庭教師が来たのは、わたくしが六歳の春でした。
若い男でした。二十代の前半ほどでしょう。
背筋が真っすぐで、目には理想の光が少しだけ宿っていました。
袖口は擦り切れていて、裕福な育ちではないけれど、
学問で身を立てようとしている者が持つ“清潔さ”を身にまとっていました。
「本日付で、エーメルト家のお嬢様のご指導を仰せつかりました、ゲアハルトと申します」
丁寧に頭を下げて、微笑みました。
父も母も、どこか安堵したような表情を見せました。
「今度こそ、長く続いてくれればいいがね」
「どうぞ、娘を……よろしくお願いいたします」
わたくしは、用意された椅子に静かに腰かけていました。
ゲアハルトの目には期待と、ほんの少しの緊張。
それは「自分の力を証明したい」という若者の色。
(この人は——これまで教えてきた子どもたちを“できが悪い”と思っておられるのでしょうね)
挨拶、手の組み方、目線の使い方。
褒める言葉より先に、
「ここでは秩序を教えてやらねば」という空気が混じっていました。
わたくしは何も言いません。
最初に何を言うかで人は態度を変えます。
だから、いつだって相手に先に喋らせるのです。
「さっそくですが——本日は、読み書きの復習から始めましょう」
ゲアハルトは簡単な読本を置きました。
大きな文字、広い行間。
七、八歳向けの初歩の本。
「こちらを、声に出して読んでみてください」
わたくしは本を閉じました。
「……お嬢様?」
「これは、もう読みました」
淡々と告げました。
「この本は、三冊ある基礎読本のうちの一冊目です。
二冊目と三冊目は、父の書庫にありますわ。
——あちらの棚の、左から三段目、中央の列です」
ゲアハルトの表情が止まりました。
その「一瞬の空白」——何を意味するか、わたくしにはわかります。
(どうしてそれを知っている? と、問いたいのでしょう)
けれど教師としての威厳が、それを口にさせない。
「では……他のものを」
取り繕うように別の課題。
簡単な計算、歴史の年代、地理の名称。
わたくしは間違えずに答えました。
考え込む時間も、ほとんど必要ありません。
ゲアハルトの額に汗がにじみました。
最後には少し意地になったように、十歳向けの難題を出しました。
「では——“なぜ”その戦が起きたのか、あなたの言葉で説明してごらんなさい」
わたくしは首をかしげ、淡々と答えました。
「当時の税率と、周辺諸侯の人口推移、鉄鉱の採掘量、兵の雇用形態が組み合わさって
“戦わざるを得ない構造”ができていたから、ですわ」
「……構造?」
「はい。戦自体が目的ではありません。
現状維持を望むあまり、自ら選択肢を潰してしまったのです。
殿方がたまにする“変えたくないのに、勝手に壊してしまう”あれと似ておりますわ」
その瞬間、ゲアハルトの瞳の奥で何かが砕けました。
理想、自尊心、「教える側」という立場。
どれも一気に色を失ったようでした。
その日の授業はそこで終わり、
翌日、ゲアハルトは「急用ができた」と言い残し屋敷を去り、戻ることはありませんでした。




