死の砦と最初の誤算②
被害が少なくて済む。
その言い回しが、妙に耳に残った。
誰かを送れば、その誰かは、ほぼ確実に戻らない。 つまり、必ず「被害」は出る。
その上でなお、「少なくて済む」選択をしろと。
(世界は本当に、きれいな仕事をさせてくれませんこと)
内心でため息を吐きながらも、わたくしは微笑んだ。
「承知いたしました。……書類を拝見して、候補をいくつか挙げておきますわ」
「頼む」
長は、それ以上何も言わなかった。 それは彼なりの「これ以上、お前に罪悪感を抱かせたくない」という配慮かもしれないし、単に疲れているだけかもしれない。
わたくしには、どちらでも構わない。
必要なのは、事実だけだ。
* * *
部屋を出て、自室兼用の小さな書類部屋に戻る。
机の上に、先ほどの文書を静かに並べた。
第七封鎖区画。 死の砦。 地下の未確認振動。 封鎖機構の維持確認。 生還を前提としない構造。
そして——「適任者の派遣」。
(適任者、ね)
ペン先で紙を軽く叩きながら、わたくしは「適任」という単語の意味を分解していく。
この文脈で“適任”とは。
戦力的に十分であること。 精神的に耐えられること。 記録上、送り込む理由が作れること。 消えたあとに、誰も大きな声で騒がない位置にいること。
……そしてもうひとつ。
もし、想定外の事態が起きたときに——
生還してしまったときに。
王都にとって、最も“扱いやすい”者であること。
わたくしは、意図的に、その可能性に目を向けた。
(生還。……たとえ文字にしても、現実味がありませんわね)
この十数年、死の砦から戻ってきた者はいない。 少なくとも、ギルドの公式記録には、一件もない。
噂話レベルでさえ、聞いたことがない。
あの砦は、「死ぬための場所」であり、「死んだことにされるための場所」でもある。
中で命を落とす。 あるいは戻ってきても、口を封じられる。
どちらにせよ、外界から見れば「いなかったこと」になる。
そういうふうに設計されている。
(わたくしは、そういう場所だと理解している)
だから、これまではそれで足りていた。 死の砦は、わたくしの盤上には乗らない。
盤の外にある「黒塗り」。 そこに駒を置く者のことなど、読む必要はなかった。
——今日までは。
* * *
机の引き出しから、別の封筒を取り出す。
数日前に届いた、辺境伯閣下からの返書だ。
いつものように、王都の動向報告への簡潔なコメントが続き、その末尾に、短い一文が添えられている。
《西方街道沿いの小村にて、“メイスを持つ少年”の噂が複数一致している》 《魔獣出没地に現れ、被害を最小に抑えて立ち去るとのこと》 《年齢は十代前半と推定》 《いずれ王都に上るなら、第七封鎖区画の任務対象者として検討に値する》
わたくしは、その一文だけを何度も読み返した。
ライトメイス。
十代前半。
無名。 未登録。 村の噂。
そして——「第七封鎖区画の任務対象者として検討に値する」。
(……閣下は、本気でおっしゃっているのですの?)
心のどこかで、そう問いかけてしまう。
死の砦は、わたくしにとって「終点」でしかなかった。 そこに送られる者は全員、盤上から消える駒だ。
しかし、辺境伯は違う見方をしているのだろうか。
——あの方の目には、「生還する可能性」が見えているのか。
そんなはずはない、と即座に打ち消しながらも、頭の片隅で別の声がささやく。
(わたくしは、これまで一度も“読み違えたことがない”)
辺境伯の邸でも。 王都ギルドでも。 わたくしの分析と予測は、これまでほとんど外れてこなかった。
だからこそ、今のわたくしがある。
第一窓口。 辺境伯の目。 白き怪物。
どれも、わたくしが「外さなかった結果」として与えられた呼び名だ。
けれど——閣下は、そのわたくしに向けて、
「それでもなお、死の砦に送る価値がある」と告げてくる。
それはつまり。
(閣下は、“わたくしでは読めないもの”を、見ておられる?)
胸の奥が、静かにざわめいた。
* * *
死の砦。
旧協約施設。 翼持つ者との破棄された契約。 その上から築かれた砦。
王家は、そこを「歴史から消したい」。
軍は、そこを「二度と開きたくない」。
教会は、そこを「神の怒りとして封じ込めたい」。
だから、ギルドに与えられた役割はひとつだけ。
——その場所に、二度と「証人」を生かして戻さないこと。
契約の内容も。 研究の痕跡も。 誰が何をしたのかも。
すべて、砦の石壁の内側に埋めてしまうための装置。
それが、死の砦だ。
(……そこに、“少年”を送る)
整わない。
常識が拒絶する。
規約は、参加者を成人に限ると定めている。 政治的影響力のない者に限ると定めている。 ギルドの内部でも、未成年を危険度の高い任務に送ることには慎重だ。
それでも尚、閣下は「その価値はある」と言っている。
(わたくしなら、“送らない”と判断しますわ)
それが、現時点でのわたくしの結論だ。
死の砦は、死ぬための場所であり、死んだことにされるための場所。
そこから生還するなど——
それ自体が、「秩序の外」である。
わたくしは、秩序の中でこそ怪物たり得る。 盤上の駒と、線と、数字と、人の心理を読み解き、その範囲で世界を調整する。
盤の外にいるものは、読めない。 読めないものに、理屈を与えるべきではない。
だから——
(あの砦から、生きて戻る者など、いるはずがありませんわ)
そう、わたくしは結論づけた。
その上で、文書にペンを走らせる。
《第七封鎖区画“封鎖機構確認任務”に関する件、王都ギルドとして受諾》 《参加候補者として、以下の者を選定》 《いずれも成人、過去の任務達成率及び精神安定度に問題なし》 《家族・後援基盤においても、政治的波及が最小限と見込まれる》
名前を選ぶとき、わたくしはあえて「優秀すぎず、無能でもない者」を選んだ。
死の砦に送るのに“ふさわしい”という、残酷な意味で。
紙の上で人を選び、 紙の上で人を消す。
そんな作業に慣れてしまっている自分自身に、薄い嫌悪を覚えながらも——
手は止めなかった。
* * *
その夜、ギルドの外階段から街を眺めた。
王都の灯りは、いつもどおりだ。 家々の窓には暖かな色がゆらぎ、酒場からは笑い声と歌が漏れている。
誰も、死の砦のことなど知らない。
西方の空の下で、かつて天使族と人間が交わした契約が破られ、 その痕跡を地中深くに埋め、 その上に砦を築き、 そこを「死ぬための箱」として使っていることなど——誰も。
(知らないからこそ、平和でいられる)
そう思えば、わたくしの役目にも、わずかな意味があるように思えた。
わたくしは秩序の側にいる。 秩序が正しいとは限らない。 しかし、秩序がなければ、もっと早く壊れる。
だから、壊すべきでない綻びを縫い合わせ、 壊すべき綻びがどこに生まれつつあるかを見張る。
死の砦は、その“綻び”のひとつだ。
(あそこは、“終わり”の場所)
終わりから戻ってくる者などいない。
そう信じるほうが、楽だったし——
そう信じるほうが、合理的でもあった。
この時点のわたくしは、まだ知らない。
やがて西方の小さな村から、 ライトメイスを手に、妙に静かな目をした少年が王都へ上り——
その少年が、 わたくしが「盤の外」と切り捨てた死の砦へ送られ、
そして、戻ってきてしまうことを。
それが、わたくしの人生で初めての“読み違え”になることを。
いまは、まだ知らない。
「……生還者など、いるはずがありませんわ」
その夜、最後に口にしたその一言が、
未来の自分の頬を、どれほど強く打つことになるのかも、知らないまま。




