白き怪物の誕生 ―秩序を読む朝―
王都ギルドの大扉が開き、朝の光が大理石の床に鋭い線を引く。
その線がちょうどわたくしの足元まで届いたとき、鐘が一度だけ鳴った。
始業の合図。
王都の“心臓”が、今日も規則正しく鼓動を打ち始める。
わたくしは、一度だけ深く息を吸い、表情筋を確かめた。
頬——問題なし。
口角——二度。
眉の角度——僅かに上げる。
もはや鏡は見ない。
もう、必要がないから。
視線を上げると、同僚たちがぞろぞろと持ち場へ散っていくところだった。
誰もがわたくしを見ると、ほんの一瞬だけ目をそらす。
嫉妬でも、露骨な反発でもない。
それは、危険物から自然に距離を取るときの、あの無意識の動きだ。
(……ようやく、ここまで来ましたわね)
十二でこの窓口に立ち、
二十を越えた今。
わたくしは、王都ギルド本部の「第一窓口」に座っている。
名目上は受付嬢のひとり。
だが、書類の流れも、顔ぶれも、金の向きも、すべてが一度ここを経由する。
辺境伯閣下がお望みになったとおり。
——「目」としては、最適な位置だ。
カウンターの上に、最初の書類束が置かれる。
本日の予約客一覧、貴族来訪予定、地方支部からの定期報告、緊急案件のフラグ。
ざっと目を通す。
一枚につき、一秒も要らない。
三行読めば、だいたいの“景色”が見える。
この貴族は、護衛の数がいつもより多い。ということは、今日の話し合いは「譲歩したいが、弱みは見せたくない」類。
この商隊は、午前ではなく午後に予約を入れている。昼までに街道で何かの確認が入る予定なのだろう。
こちらの冒険者は、前回の依頼報酬の受け取り時に「次は大きい仕事を」と口にしていた。つまり——少し危うい依頼にも手を伸ばしたい心理状態。
一枚一枚が、静かな脈拍に思える。
(さて。今日、どこで詰まるかしら)
ギルドは生き物だ。
人と金と情報が通過する限り、必ず“詰まり”が生まれる。
書類が停滞し、誰かが怒鳴り、誰かが泣き、誰かが諦める。
その瞬間に、受付嬢がどう顔を作るかで、後の一ヶ月が変わる。
わたくしがすることは、いつも同じだ。
——詰まりを読む。
——詰まりを見越し、手を打つ。
それだけ。
それだけを、誰よりも速く、深く、正確に。
それを人は、時に「才能」と呼び、時に「怪物」と呼ぶ。
どちらでも構わない。
役に立つほうで呼んでくだされば、それでいい。
◆
最初の“匂い”が変わったのは、正午前だった。
朝から続く喧噪は、いつもどおりだ。
冒険者たちの笑い声、怒鳴り声、皮鎧の擦れる音、金属のぶつかる音。
それらは、もう背景でしかない。
だが、その波に、別のリズムが混じった。
規則正しい足音、革靴の乾いた音。
歩幅は一定。歩く速度をわざと少しだけ落としている。
周囲に自分を見せたい者の歩き方だ。
(……来たわね)
顔を上げる前から、だいたいの階級がわかる。
この幅の革靴、この質の外套、護衛の配置の仕方。
——中級貴族。家格は高くも低くもなく、しかし本人が「自分は特別」だと信じている系統。
窓口に近づいてきたときには、もう“どう扱うか”は決まっていた。
わたくしは少しゆっくり立ち上がる。
その動きだけで、周囲の受付嬢たちの反応をわずかに遅らせる。
先に声をかける権利を、自然に自分のものにするために。
「ようこそおいでくださいました。
本日はどのようなご用件でいらっしゃいますか?」
声は半音上げる。
しかし、いつもの“上客用”よりはほんの僅かに抑える。
過度に持ち上げると、自尊心の強い客は逆に疑いを抱くからだ。
男は鼻で笑った。
「ふん。辺境伯家の関係者がいると聞いたが……お前か?」
(話が早い)
ギルドの受付に立っている時点で、わたくしが「辺境伯家の駒」であることを嗅ぎ取る者は多くない。
大抵は、半年以上こちらを観察してからようやく気づく。
この男は、まだ最初の一言なのにそこへ触れてきた。
少しだけ、興味を覚える。
「辺境伯閣下から推薦をいただき、この窓口に立っております。
マリアベル・エーメルトと申します」
あえて、「駒」という言葉は使わない。
この手の客は、他人を駒扱いすることに慣れている。
自分でその言葉を口にする機会を与えてやったほうが、油断してくれる。
案の定、口の端を吊り上げた。
「なるほどな。やはり“辺境の犬”か」
(犬、ですって)
心の中でだけ、肩を竦める。
この類の人間は、相手を低く呼ぶことで、自分の立ち位置を確認したがる。
ここで怒れば、「図星を突かれた」「自分と同じ土俵に降りてきた」と解釈する。
だから、怒らない。決して。
「犬であれ、猫であれ。
ご主人様に役立つ限りは、どちらでも構いませんわ」
にっこりと笑って返すと、彼の目の奥が一瞬だけ揺れた。
予想していなかった返答をもらうと、人は一瞬“無防備”になる。
そこに、情報を差し込む。
「本日は、辺境伯家の管轄地区に関するご相談でいらっしゃいますか?」
問いというより、ほとんど断定のように口にする。
導線をこちらが先に敷いてしまうのだ。
男は、短く舌打ちした。
「……まあいい。第七封鎖区画の件だ」
(また、そこ)
数年前、あの区画を巡ってギルドと辺境伯家の間で小さな騒ぎがあった。
封鎖するべきか、調査を進めるべきか。
結局、暫定封鎖と定期観測という妥協に落ち着いたが、その後も折に触れて“餌”にされる。
政治家にとって、都合のよい曖昧さは、いつだって交渉材料なのだ。
「こちらで詳細をうかがっても……よろしいのでしょうか?」
わざと、ほんの少しだけためらいを混ぜる。
貴族は「機密」を口にするとき、その機密の価値を誰かに確認したがるものだ。
男は、待ってましたとばかりに顎を上げた。
「ギルド本部の第一窓口だろう? 辺境伯家の差し金ならなおさら話が早い。
封鎖区画の“危険度評価”を、王都の都合のいいように書き直させたい者がいてな」
彼が“書き直させたい”と言うとき、その裏には必ず別の主語がある。
——誰が得をするのか。
——誰が損をするのか。
会話をしている間に、その構図を頭の中で組み立てていく。
今の一言で、おおよその輪郭が見えた。
王都議会の中堅派閥。
辺境の軍備縮小を唱えながら、自領の防衛費だけは増やしたい者たち。
彼らにとって、第七封鎖区画は「辺境伯が危険を誇張している証拠」にしたい案件だ。
「なるほど……。
つまり、“危険度は低いが、辺境伯が封鎖を続けている”という絵を、お描きになりたいわけですわね?」
敢えて、さらりと言ってしまう。
男の目が、わずかに細くなった。
「……口が軽いな、“辺境の犬”は」
「申し訳ございません。
ただ、わたくしには“裏の目的”を理解しておかないと、表の書類を正しく処理できませんもので」
そう言って、静かに一礼する。
今ので、この人は二つ学んだはずだ。
一つ、わたくしが話を飲み込む速度。
一つ、この窓口で「飾った嘘」を通そうとしても、すぐに剥がされるという事実。
彼は、しばらくわたくしを見下ろしていた。
視線は、刃物のように冷たい。
それでも、わたくしは笑顔を崩さない。
(さあ、どうなさる?)
わたくしに向けて刃を振るうのか。
それとも、「利用価値あり」と見て懐に入れようとするのか。
彼が選んだのは——後者だった。
「……いいだろう。
お前のような“犬”は、一匹くらい懐に置いておくのも悪くない」
言葉は粗雑だが、意味ははっきりしている。
——この貴族は、わたくしを“自分側の駒”にしたい。
わたくしは心の中でだけ、薄く笑った。
(残念ですが、すでに席は埋まっておりますのよ)
「ありがたいお申し出ですわ。
ですが、わたくしにはすでに“ご主人様”がいらっしゃいます。
辺境伯閣下おひとりで、手一杯でして」
軽口のように返しながら、手元では別の作業を続ける。
彼が差し出した封筒に視線を落とす。
封蝋の紋章、紙の質、宛名の書き方、インクの濃さ。
そこから、その派閥がどの程度の資金力と人脈を持ち、どのくらい焦っているかを推測する。
焦っている者ほど、封蝋の位置が微妙に歪む。
最後に押すとき、どうしても「力」が入るからだ。
この封蝋は、わずかに右下がりだった。
(お急ぎ、というわけですわね)
ならば、こちらが優位。
急いでいる者は、待たされると弱みを見せる。
「書簡の内容は、こちらで一度お預かりいたします。
危険度評価の見直しの件も含めて、王都本部の内部で“きちんと”検討させていただきますわ」
“きちんと”。
この一語に、彼が顔をわずかに歪める。
丸め込まれたくはない。
だが、ここで怒鳴れば、自ら立場を悪くする。
貴族というものは、本当にわかりやすい。
「……いいだろう。
だが、あまり時間はかけるな。
——次に来るときまでに、な」
そう言い残し、彼は踵を返した。
護衛たちが慌てて後を追う。
扉が閉まる音を聞きながら、わたくしは静かに息を吐いた。
「……マリアベル」
背後から、小さな声がした。
振り返ると、同僚のひとりが所在なげに立っていた。
若い子。王都出身。まだ田舎者の扱いにも慣れていない。
「さっきの……ああいう人、怖くないの?」
「怖い、ですわよ?」
素直に答える。
「ただ、“怖いから何をするか”を先に決めておけば、少しだけ楽になるのです」
「先に、決める……?」
「ええ。
怒鳴られたら、この書類を見せる。
脅されたら、ここの条文を指さす。
泣かれたら、この話題を振る、など」
カウンターの下には、わたくしだけがこっそり作っているメモがある。
「こういう人には、この対応表」。
顔を見て、靴を見て、袖口を見て、第一声を聞けば、だいたい分類できる。
それを、三年かけて集めてきた。
「……それって、“未来を決めてる”みたい」
「ええ。わたくしは星占い師ではありませんから、未来は見えません。
ですが、“この人ならこう動く”という見込みは立ちますわ」
「じゃあ、外れたらどうするの?」
良い質問だった。
「外れたときの自分の顔は、もっと前に決めてありますの」
そう言うと、彼女は目を丸くした。
「外れたら——“嬉しそうに笑う”。
だって、自分の世界が広がったということですもの」
本心だ。
計算が外れたとき、それはわたくしにとって“未知との遭遇”だ。
知らない動き、知らない反応。
それを知るためなら、少々痛い目を見るのも悪くない。
もちろん、死なない範囲で。
同僚は、どこか納得したような、していないような顔をしたあと、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、マリアベルって、怖いね」
それは、わたくしにとって最上級の褒め言葉に近い。




