微笑の窓口 ―選別する怪物
王都ギルドの朝は、鐘の音が鳴る前から始まる——少なくとも、わたくしにとっては。
帳簿は昨夜のうちに締めてある。
今日の依頼掲示板に出す案件は、すべていったん、わたくしの机を通過したものだ。
紙の束。
文字の列。
数字の並び。
それらは一見ただの記録だが——わたくしには、もう少し違って見えていた。
(この数字の並び方なら、前衛の死人は一人で済む。
こちらは、うまくいけば誰も死なないが、誰かが一度折れる。
こっちは……依頼そのものを破棄すべき案件)
わたくしは、ペンの先で一件の依頼書の上をとん、と突いた。
新規地下遺構の調査兼制圧依頼。
報酬は、目が眩みそうなほど高い。
危険度の欄には「中〜高」と曖昧な文字。
添付されている一次調査報告書には、「既に一部踏破済み」「魔物の種類は低位」と穏やかな文言が並んでいる。
だが——数字が嘘をついていた。
「一次調査隊の布装備、損耗率七割……鉄製防具も二割損耗。
低位魔物相手に、そんなに布を破られるかしら?」
ひとりごとが、朝の薄明かりの事務室に溶ける。
負傷者の症状には、裂傷よりも「悪夢」「激しい頭痛」「錯乱」の文字が多い。
(瘴気は薄い、のではなく。
——“質の悪い何か”がある)
わたくしは、依頼書を掲示用の山から抜き取った。
ギルド長印、貴族家の紋章、地方支部の印。
どこも「形式上」は、完璧だった。
扉がノックされ、事務員の男が顔を覗かせる。
「マリアベル嬢, 掲示板更新の時間だ。……その束、まだか?」
「ええ、すぐに」
わたくしは笑顔を浮かべ、危険な一枚だけを下に回した。
紙の順番一つで、今日死ぬ可能性のある人間が変わる。
それが——窓口に座る者の仕事だった。
◆
午前の喧噪は、いつもと同じ色をしていた。
低ランクの若作りの少年たちが、剣をぶら下げて騒ぎながら列に並ぶ。
中年の商人が、物資輸送の安全保証契約の更新に訪れる。
地方から来たばかりの農夫風の男が、震える手で冒険者登録の用紙に名前を書き込む。
「おめでとうございます。これであなたも正式な“冒険者”ですわ」
わたくしは、登録を終えた少年たちに一番柔らかい笑顔を向ける。
口角は四度。目元は二ミリ。声音は半音高く。
彼らの肩にまとわりついていた不安の灰色が、少しだけ薄くなる。
「ただし、最初のうちは“これ以上向こう側へ行かない”と決めたラインを越えないようにしてくださいませね。
今日のあなた方に最適な依頼は——こちらと、こちらですわ」
掲示板の中から、わざと地味で退屈そうな依頼を二件、指で示す。
草食獣の駆除。
倉庫整理の護衛。
彼らの顔が、わずかに不満げに歪む。
「えー、もっと一発で稼げそうなのねえの?」
「ありますわよ」
わたくしは穏やかに微笑み、次の紙を抜き出した。
それは、海沿いの崖での採取依頼。
報酬はそこそこ、難度表記は「中」。
だが、風向きと潮の満ち引きを読み間違えれば、あっという間に転落死する類の案件だ。
「こちらも受けられなくはありません。
ただし——“誰かひとり、必ず滑る”タイプですわね」
少年たちの視線が、紙からわたくしへ移る。
「滑る?」
「ええ。経験の浅いパーティは、高確率で“仲間の足元”を見落とします。
……あなた方の中で一番足の遅い方を、今、この場で名前で言えますか?」
彼らは顔を見合わせた。
一瞬、沈黙。
その沈黙の色——迷い、照れ、軽い苛立ち。
わたくしは、その色を肯定する角度で微笑んだ。
「最初の数件で“滑らせる側”になると、その後、一生尾を引きますわ。
ですから本日は、地味で退屈で、しかし確実に経験になる依頼を……わたくしからの“おすすめ”とさせていただきますけれど、いかが?」
少年たちの顔が、次第に赤くなっていく。
プライドと、自分たちの未熟さへの自覚と、わたくしの言葉への信頼。
その混ざり具合が、程よい色になったところで——
「……わかったよ。今日は草食獣だ。な?」
「お、おう。次はもっとヤベえ依頼頼むぜ、お嬢さん!」
「“次も地味な依頼をおすすめする”に決まってますわ」
冗談めかして返すと、笑いが起きた。
軽い笑い。
命に直結しない笑い。
その背中を見送りながら、わたくしは内心で一本線を引く。
(——今日、この子たちは死なない)
救った、などとは思わない。
ただ、少し紙を動かしただけだ。
◆
昼前。
大広間が一段落し、空気がゆるんだ時間。
後方の事務窓口から、分厚い封筒が運ばれてきた。
「本部直通。新規高報酬案件だとよ」
封筒に押された印を見て、周囲の空気が一斉に色を変える。
王都ギルド長の封蝋。
そして、その上から押されている、貴族家の紋章。
わたくしは、いつもの微笑を崩さずにそれを受け取った。
「確認しておきますわ」
封を切ると、例の地下遺構の依頼書と、数枚の添付資料が現れた。
一次調査報告。
物資消費記録。
負傷者リスト。
さきほど朝に見たものと同じ。
だが今度は、そこに小さく追記があった。
《本件、王都ギルド本部としては“高名のパーティ”に優先的に割り当てる方針》
(……なるほど)
わたくしは、紙の端を指でなぞりながら、笑顔の内側でため息をついた。
高名のパーティ。
おそらく、ここ二〜三年で最も派手に名を売っている連中のことだろう。
武勲。
財。
噂。
女。
栄光と、少しの綻び。
彼らの戦歴を記した帳簿が、わたくしの頭の中で自然に開く。
死亡者が増えた時期。
離脱者の理由。
新規加入メンバーの能力。
数字は、静かに一つの事実を示していた。
(今の彼らがこの依頼を受ければ——成功はする。
だが、“誰かが死ぬ”確率は高い)
わたくしは添付の負傷者リストを見た。
一次調査隊の名前の中に、見覚えのある姓が一つある。
かつて辺境伯閣下の息のかかった支部にいた冒険者の姓。
名前の横には、小さく「精神失調:療養中」の文字。
数字と文字の並びから、見えない線が浮かび上がる。
地方支部。
貴族家。
王都ギルド。
誰かがどこかで、危険度を削った。
数字を整え、“扱いやすい案件”に見せかけた。
ギルド長は、その上で「高名のパーティにあてろ」と書簡を送ってきた。
責任を誰が負うのか。
誰の名前が帳簿の「承認」の欄に並ぶのか。
それを考えるのが、わたくしの役目だ。
背後から声がした。
「どう? あまりいい顔はしていないようだけれど」
リリアナ先輩だった。
今日も無色。
だが、以前よりも、その無色の縁がわずかに重く見える。
「数字が嘘をついていますわ」
「でしょうね」
先輩は、こともなげに答えた。
「けど、上は“通せ”と言っている」
「ええ。“誰かに渡せ”とも」
「誰に渡す?」
その問いは、わたくしの胸にまっすぐ落ちてきた。
(誰を、死ぬかもしれない場所へ送る?)
簡単な話ではない。
単純に弱者に渡せば全滅する。
強者に渡せば犠牲は抑えられるが、それでもゼロにはならない。
ギルド長は「高名のパーティ」と指定してきた。
貴族家も、その想定で数字を整えている。
——ならば。
「……来たときに、考えますわ」
わたくしは紙束を静かに重ねた。
まだ、誰もこの依頼を知らない。
誰かが掲示板の前で見上げる時刻が来るまでは、ただの紙だ。
わたくしが“口に載せる”までは、ただの案件だ。




