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白亜の揺籃——音を数える赤子


 わたくしが最初にこの世界を「眺めた」のは、天井のひびでした。


 泣き声を上げる前に、白く塗られた天井板の継ぎ目を見ていましたのよ。

 産婆の荒い息づかい、母の浅く速い呼吸、父の喉が鳴る小さな音。

 それらが、天井のひびよりもずっと「うるさい」と思ったことを、いまでも妙に鮮明に覚えております。


 もちろん、生まれたばかりの赤子がそんなことを考えていたはずがない——と、理屈では理解しています。

 けれど後になって振り返ると、あのときの感覚を言葉にするなら、どうしてもこうなってしまうのです。


 わたくしは最初から、「自分」より「他人の音」のほうを先に数えていたのだ、と。


     ◇


 エーメルト家の次女として生まれたその日から、周囲の大人たちは頻繁にこう言いました。


「この子、よく目が合うわねえ」

「泣き声が変だ。様子を見てるような……」


 赤子というものは、本来もっと無差別に泣きわめくものらしいですね。

 お腹が空いたとき、寒いとき、暑いとき、理由などなく不機嫌になったとき——それが普通。


 けれどわたくしは、どうやら少し違っていたようなのです。


 誰かが部屋に入ってくる。戸口の軋む音。

 その足音がじっとりと重い日は、泣きませんでした。

 むしろ、黙っていました。

 泣くよりも、「どんな顔をして近づいてくるのか」を見るほうが優先順位が高かったのです。


 逆に、母が少しだけ泣きそうな声で子守歌を口ずさむ日は、わたくしはわざと大きな声で泣きました。


 そうすると、産婆が飛んできて、母に熱い茶を飲ませる。

 母の顔色がほんの少しだけ良くなる。


 ——この一連の因果関係を、わたくしは感覚で理解していました。


 その仕組みを「利用」していたと断じるには、あまりに幼すぎた頃の話です。

 けれど、泣くことがただの感情の発露ではなく、「周囲の反応を変える手段」として働いていたのは確かでしょう。


 泣いて、観察して、また泣いて。

 わたくしの揺籃期は、そんなふうに過ぎていきました。


     ◇


 三歳になった頃、ようやくわたくしは「言葉」という武器を手に入れました。


 その日、父の友人が屋敷を訪ねてきました。

 現役を退いた軍人だと紹介され、肩口には古い傷が覗いていたのを覚えています。

 足音は重く、膝を少し引きずるような歩き方でした。


「おお、これが噂の次女嬢か。マリアベル、だったな?」


 彼の口の端は笑っていました。

 けれど、目じりの皺の寄り方と、喉奥で潰れた音だけが、妙に刺々しい。


(……楽しくはなさそう)


 わたくしは、椅子の脚をきゅっと握りました。


 彼は父と酒を酌み交わしながら、仕事の愚痴をこぼし始めました。


「いやあ、最近の若いのはさっぱりでね。命令も守らず突っ走るかと思えば、いざってときに腰が引ける。

 士気を上げるのも一苦労だ」


 父は適当に相槌を打っていました。

 わたくしは、その声の波形だけを聞いていました。

 父の「わかるよ」という言葉のたびに、父の視線は窓の外へ逃げている。


(お父様は、わかってなどいらっしゃらない)


 けれど、そう口に出す必要はありません。

 この場で重要なのは、「父の友人が、何をしてほしいのか」だけです。


 “愚痴を聞いてほしい”のか、“慰めてほしい”のか。

 どちらの色も、その人にはほとんど見えませんでした。


(この方は——“正しいと認められたい”のですわ)


 何度も同じ話を繰り返す。

 そのたびに、部屋の空気が少しずつ重くなる。

 父は話題を変えようとして失敗する。


 耐えかねて、わたくしは口を開きました。


「でも、その方々は戻っていらしたのでしょう?」


 男の視線が、驚いたようにこちらを向きました。

 父が慌てて「マリアベル」と名を呼び、わたくしを制そうとする。


 けれど、もう遅い。


「命令を守らない人は、前に出過ぎて死ぬこともありますし、

 腰が引ける人は、後ろに下がりすぎて誰かの背中を押せないこともあります。

 ——それでも、生きてこちらに戻ってこられたのですよね?」


 男は黙りました。


 わたくしは続けます。


「でしたら、その方々は“未熟”かもしれませんけれど、“役に立たなかった”わけではありません。

 死んだ兵より、生きている兵のほうが、きっとお役に立つのではなくて?」


 男の肩から、ぎゅっと力が抜ける感覚がしました。

 父は完全に固まっています。


「……はは」


 男はやっと笑いました。


「お嬢ちゃん、手厳しいな。——そうだな。確かに、生きて戻っただけでも、あいつらは仕事をしたってことか」


 その瞬間、部屋の空気の重さが少し軽くなりました。

 それが心地よくて、わたくしは自分の胸の内でひっそりと満足します。


 それからしばらくして、母がこっそりとこう漏らしました。


「……三歳で、あれだけ相手の話を“調整”できるなんて。

 あの子は、きっと神童ね」


 神童。


 その言葉は、最初は褒め言葉としてわたくしの耳に届きました。


 けれど、その響きはすぐに変質します。


 神童は、「普通の子ども」とは違う子ども。

 大人たちが期待を押し付け、同時に距離を置くための便利なラベル。


 わたくしの物語は、そこから少しだけ、軌道をずれ始めました。

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