家庭事情
「森人、おはよう」
リビングの扉を開けると同時、こちらに背を向けて母さんがそういった。
今日もまた早いらしく既に服装はスーツだ。
鏡の前でネクタイを締めなおしている。
「おはよう母さん」
言ってから暫く母さんの背中を見つめ続けていた。
「食べないの?」
背中を向けたまま母さん。
その言葉で我に返り、
「ああいや食べるよ?」
言ってテーブルにつく、硬い木の背もたれに寄りかかり、待つ。
「おはようございます、雪さん」
「おはよう、岬ちゃん」
岬がリビングへとやってきて、俺の右隣に座った。
長方形のテーブルは大きく、イスは四つ。
朝食のトーストがおかれているのは俺のところと岬のところだけだ。
母さんはいつも通り先に食べたのだろう。
俺は、俺は……あと一つの席がうまったことを一度もみたことがない。
「……、いただきます」
「いただきます」
パンと手を合わせてからトーストにかじりつく。
ほのかに暖かいそれはカリっ、と音を立て飲み込まれていく。
「…………」
無言の食事、なぜならそれは本来あるべき人がいないからだ。
だからいつもはただ黙々と食事を進める、そういつもは。
「森人、本当にいくの?」
既に母さんの手は止まっている、それでも動かず、こちらに背を向けたままそう問うた。
ゴクリ、とトーストを飲み込む。
「うん、いくよ」
きっと母さんは崎守学園にいくだとか学生寮に住むだとかそんなことを聞いているのではない。
――引き返せなくなる
そういっているのだ。
「……そう、そうなのね」
いって母さんは言葉を止めた。
「いってらっしゃい森人、きっとお父さんもそう言うと思うわ」
「……そう、かな?」
いいつつ、思わず隣を見てしまった。
岬は瞳を閉じていた。
表情はない。
俺には岬がどのように思っているかが分からない。
そうよと母さんはいって、さて、と繋げた。
「私はもういくわ、貴方も――神野森人もいってらっしゃい」
「……っ、いってきます、その、母さんもいってらっしゃい」
視線を戻せば母さんは背中を向けたままドアノブを回し、やがてガチャンと玄関の扉が閉まる音がした。
「ごちそうさま」
「……ああ、ごちそうさま」
おそらく待っていてくれたであろう岬。
「なあ、岬――」
「待ち合わせは十分後でいいかしら?」
遮られた、馬鹿か俺は――いったい何を聞こうとしてたんだ?
「ああ、そのくらいでいいよ俺は男だからそんなに時間はかからないしな」
とはいえ歯を磨いて寝癖を整えて制服に着替えてというと割とぎりぎりなのだが。
多分岬としてはそれをねらったのだろうけど。
――さて、気持ちを入れ替えよう。
――――――――――――――――――
玄関から出ると岬がいた、お待たせというとあちらは今来たところだと言い、
「男女が逆だな」
「まったくね」
ふむ、といって苦笑しあい、
「さて、行こう」
「ええ、行きましょ」
言って並んで玄関を出る。
出た後に一瞬、ほんの一瞬だけ振り返った。
住み慣れた我が家。
その表札、
――霧島
「忘れ物は、ないよな……」
――神野森人の父親は霧島 五雄である
――神野森人と霧島 岬に血縁はない
――霧島 五雄は既に死んでいる
――霧島 岬は霧島 五雄及び霧島 雪に血縁はない
――己は霧島 森人ではなく神野 森人である
当たり前のことを思い出す、それ以上のことは思いださにないことにした。
「私はないわよ」
「ああ、俺もない」
そう返すと同時俺はゆっくりと歩だす。
並ぶように岬。
少しだけあるくと隣の家の表札が見えた。
――霧島
――神野 森人と霧島 岬は幼馴染である
とても大切なことを確認した、ああ今日も一日がんばれそうだ。