第2章:時間旅行者の沈黙
地球の深海探査船「ネプチューン号」の制御室が興奮と緊張に包まれる2100年とは対照的に、今から200万年前、ハワイ諸島の遙か西方に広がる太平洋上空は、穏やかな貿易風と青い空に包まれていた。雲一つない紺碧のキャンバスに、太陽の光が惜しみなく降り注いでいる。しかし、この平和な光景は、突如として発生した物理現象によって、一瞬にして打ち破られることになる。
空間が歪んだ。
通常の光の屈折や大気中の蜃気楼とは異なる、純粋な空間そのものの歪みが、一点から放射状に広がった。まるで巨大なレンズの前に立ったかのように、遠くの水平線が波打ち、上空の雲が不自然に引き伸ばされては圧縮される。周囲の気圧計は瞬時に異常な変動を示し、航行中の船の計器は狂ったように針を振らせたが、その異常を認識できる人間は、この広大な海域には存在しなかった。
その歪みの中から、銀色の巨体が突如として姿を現した。それは紛れもなく、21世紀初頭の技術の粋を集めたスペースシャトルだった。しかし、その姿は決して健全ではなかった。機体表面には、高熱にさらされたような焦げ付きと、鋭利な破片が抉り取られたかのような深い損傷が複数個所に見受けられた。主翼の一部は欠損し、熱防御タイルも広範囲に剥離している。本来、大気圏突入時には機体の底面を下にするはずが、シャトルは不自然な姿勢で、まるで重力に逆らうかのように不安定に漂っていた。
「ゴォォォォ…」
無人の空に、形容しがたい低音が響き渡る。それは、大気と衝突する機体から発せられる音であり、同時に、何らかの未知のエネルギーが放つ共鳴音でもあった。機体の損傷箇所からは、青白いプラズマのような光が時折漏れ出し、周囲の空気を歪ませる。明らかに制御を失い、完全にシステムが停止している状態だった。もしパイロットがいたとしても、この状態では脱出は不可能だろう。内部からの信号は一切検出されず、シャトルはただ、その巨大な質量と慣性によって、地球へと引き寄せられていた。
シャトルは急速に高度を失い、大気圏への再突入軌道に乗ってしまう。しかし、その軌道は通常の再突入とは異なり、異常な角度で、まるで何かを回避しようとしながらも、避けきれずに突入してしまったかのような、不規則な動きを見せていた。機体全体が高熱を帯び、空気との激しい摩擦によって炎に包まれる。剥離した耐熱タイルが火の粉となって舞い散り、まるで燃える流星のように天空を落下していった。通常のスペースシャトルであれば、この段階で完全に空中分解していただろう。だが、このシャトルの機体は、その損傷にもかかわらず、驚くべき強度を保っていた。使用されている合金は、当時の技術では考えられない耐熱性と強度を兼ね備えているかのようだった。
やがて、シャトルは炎の尾を引きながら、太平洋の広大な海域へと迫っていく。その目標は、偶然か必然か、マリアナ海溝にほど近いフォアアーク盆地の深海域だった。通常、このような高速での着水は、機体を完全に破壊し、残骸を広範囲にまき散らすはずだ。しかし、シャトルは奇妙なことに、水面に到達する直前、わずかにその姿勢を立て直し、垂直に近い角度で静かに水中に没していった。それはまるで、最後の瞬間まで、何らかの「指示」に従って行動しようとしたかのような、不自然な着水だった。
巨大な水しぶきが上がることもなく、シャトルは滑るように海面下へと吸い込まれていく。海水が、破損した機体内部へと猛烈な勢いで流れ込んだ。水の浸入がさらなる重量となり、シャトルは重力に引かれるまま、漆黒の深淵へと急速に沈降を開始する。その沈降速度は尋常ではなかった。まるで、水中で抵抗を受けていないかのように、驚異的な速さで数千メートルもの深さへと落ちていく。
深海の闇は、光を完全に遮断していた。水圧は想像を絶するほど高まり、陸上であれば一瞬で押し潰されてしまうような環境だ。しかし、シャトルは沈降中もその形状をほぼ完全に保っていた。機体の特殊な構造と素材が、この途方もない圧力に耐えうるように設計されていたのだ。
やがて、シャトルはフォアアーク盆地の海底、数千メートルの深さに到達した。海底は、数百万年にわたって降り積もった、非常にきめ細やかな泥と砂の堆積物で覆われている。シャトルは、その柔らかい堆積物の上に、ほとんど衝撃を与えることなく静かに着底した。着底後も、深海の流れや堆積物の沈降は止まらない。数日、数週間、数ヶ月…そして、途方もない200万年という時間の中で、泥や砂、そして遥か上層から降り注ぐプランクトンの遺骸や微細な海洋生物の死骸が、シャトルの周囲に降り積もっていく。
海底の冷たく、無酸素に近い環境は、有機物の分解を極めて遅らせ、金属の腐食も抑制する効果があった。時間の経過とともに、シャトルは完全に堆積物に覆い隠され、その存在を外界から遮断された。まるで、地球の歴史の分厚い層の中に、時間と空間の謎を内包したタイムカプセルが封印されたかのように。
誰にも知られることなく、誰にも発見されることなく、200万年の時が流れた。深海の底に眠るこの異質な存在は、地球の変動、プレートの移動、生命の進化の全てを、まるで夢の中の出来事のように静かに見守り続けていた。そして、その長い眠りの果てに、未来からの探査船「ネプチューン号」が、その上空へと姿を現す時が来ることを、シャトルは知る由もなかった。深淵の底で、その銀色の巨体は、人類が未来から過去へと送り込んだ、あるいは、別の時間軸から迷い込んだ、沈黙の時間旅行者として、静かにその秘密を守り続けていたのだ。