第7話 タスマニアデビル
運転手さんに行き先を告げて、タクシーが走り出した。
外の景色が、春の日差しでやんわり流れよる。けど、うちの心臓はまだバクバクしっぱなし。シートの端っこで小さくなっとると、伊達係長は横で、何気ない顔してスマホをいじりよる。
……いや、どうせまた裏垢やろ?
さっきみたいなことがあった後やけん、余計に気になってたまらん。
こそっとスマホを取り出して、自分も「sou__srs」のアカウントをチェックする。
恐る恐る開くと、
《取引先の部長が推しの事をエロい目でずっと見てやがった……許せん。確かに推しは背は低いが胸はでかい。だからと言ってあんな目で見るとかマジで許せん。推しの良さはデカイだけじゃない。胸は確かにでかいがデカいといってもそれだけではなく——》
デカい、デカいってうるさかー!
思わず心の中で叫んで、私は隣の係長を睨んだ。
ついに我慢できず、スマホを膝の上に伏せて、係長をじーっと睨む。
「……胸、胸って、うるさか……」
小声でぼやいたら、伊達係長がちらっとこっちを見て「何か言ったか?」と涼しい顔。
「な、なんでもないです……」
声が裏返ってしもうた。
胸がどうとかやめてくれん!?ほかにも良いとこたくさんあるやろ!しかも、そんなふうに書かれても、うちは……いや、やっぱちょっと嬉しいけど……。
車内は沈黙。
でも、その沈黙の中で、係長の横顔だけがやけに意識に残る。
さっきまでの庇ってくれた姿も、今の“変な呟き”も、どっちも係長なんやもんな……。
会社のビルの前でタクシーを降りたとき、私の足は鉛のように重かった。
はあ〜……疲れたばい。
春の夕方の風が頬を撫でていくけど、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきとる。商談のことを考えとるだけでもドキドキやったのに、佐々岡部長の視線は気持ち悪かったし、係長の裏垢は相変わらず危険やったし……もう頭がパンクしそうやった。
エレベーターの中でも、係長は無言でスマホを見とる。今度は何を呟いとるんやろって思うけど、さすがにもう見る勇気はなか。きっとまた胸がでかいとかなんとか書いとるに決まっとるもん。
ちらりと横目で見ると、係長の横顔は相変わらず完璧で、疲れた様子も全然なか。こっちはもうへとへとなのに、この人はほんと体力あるっちゃんね……。
八階に着いて、オフィスのドアを開けると、まだ残業しとる先輩たちの姿が見えた。パソコンの画面が青白く光って、キーボードを叩く音があちこちから聞こえてくる。なんだか安心する音やった。やっぱりうちの居場所はここちゃんね。
私は自分のデスクまで歩いて、椅子にどさっと座り込んだ。
「ふ〜〜〜っ」
大きく息を吐いて、両手を上に伸ばして背伸びをする。肩がこりこりになっとるし、緊張で首も痛か。今日は本当に長い一日やった。でも、なんとか乗り切れたっちゃんね。
係長のおかげで大きな失敗もせんかったし、佐々岡部長の件も、ちゃんと気を遣ってもらえたし……。
そんなことを考えとると——
「おかえり、蛍ちゃん」
ふんわりとした優しい声が聞こえて、振り返ると佐々木先輩が笑顔で手を振ってくれとった。
「あ、ただいま戻りました〜」
私も手をひらひらと振り返す。佐々木先輩の笑顔を見とると、なんだかほっとする。やっぱり会社におって一番安心できるのは、この人かもしれん。いつも優しくて、お姉さんみたいで。
「お疲れ様!どうだった?初めての大きな商談は?」
佐々木先輩が心配そうに聞いてくれる。
「もう、緊張しまくりでした。でも係長がフォローしてくださったので、なんとかなったって感じです」
そう答えながら、私はもう一度背伸びをした。肩甲骨のあたりがぽきぽき鳴る。
「それにしても蛍ちゃん、最近よく係長と一緒にお仕事してるのね。羨ましいなあ」
「え、そうですか?」
「だって伊達係長よ?社内の女子の憧れの的じゃない」
佐々木先輩がくすくす笑いながら言う。確かに、係長は人気者やけど……うちが知っとる係長は、みんなが思っとるのとはちょっと違うとよ……。
そんなことを考えとると、佐々木先輩の後ろに人影が見えた。
同い年くらいの男性で、茶色い髪に人懐っこそうな笑顔。背は高めで、新しいスーツがピシッと決まっとる。
あれ?どこかで見たことがあるような……。
その顔を見た瞬間、記憶の奥から何かがざわめき始めた。この顔、絶対に知っとる。でもどこで会ったっけ?大学?高校?それとも……。
「あ、そうそう!蛍ちゃん、紹介したい人がいるの」
佐々木先輩が振り返って、後ろの男性に声をかけた。
「今日からうちの部署に配属になった新入社員なの。私が教育係を担当することになったのよ」
その男性が一歩前に出てきて、私の方に向かって軽く頭を下げる。
「須藤雄太と申します。本日からお世話になります」
須藤雄太——その名前を聞いた瞬間、私の脳内で電光が走った。
え、え、ええええええ!?
まさか、あの雄太?大学の……?
「雄太?雄太なの!?」
思わず立ち上がって、目を見開いた。椅子がくるくる回る音が響く。
雄太も目を丸くして、私の顔をまじまじと見つめる。そして、ゆっくりと笑顔が広がった。
「えええ?もしかして……蛍?小鳥遊蛍?」
「やっぱり雄太やん!なんでここにおると!?」
思わず博多弁が出てしまって、私は慌てて口を押さえた。
「マジかよ〜!お前、ここの社員だったのか!世の中狭すぎだろ〜」
雄太がけらけらと笑い出す。あの頃から変わらん人懐っこい笑顔と、お調子者の雰囲気。でもスーツを着とるせいか、なんだか少し大人っぽく見える。
「え、二人は知り合いなの?」
佐々木先輩が目をぱちくりさせながら聞いてくる。
「大学の同期なんです」
雄太が説明すると、佐々木先輩の顔がぱあっと明るくなった。
「えー!そうなの?すごい偶然ね〜!これは運命かも」
「運命って、そんな大げさな……」
私が苦笑いを浮かべると、雄太がにやりと笑う。
「でも本当にびっくりしたよ。まさか蛍と同じ会社で働くことになるなんて」
「うちもよ。雄太は確か経済学部やったよね?なんで広告業界に?」
「いろいろあってさ〜。詳しくは今度話すよ」
雄太が手をひらひら振りながら言う。相変わらず、核心の話になると逃げるっちゃんね、この人。
でも、こうやって再会できるなんて……世の中って本当に狭い。
「それにしても」
雄太が私を上から下まで見回して、にやりと笑った。
「蛍、お前相変わらずちっこいのに胸でっけえなあ」
その視線が胸元に向かった瞬間、私の頭に血が上った。
はああああ!?また胸の話!?
今日一日、佐々岡部長に変な目で見られて、係長の裏垢でも胸がでかいって書かれて、もうそれだけで十分やったのに、今度は雄太まで!
「こら!変なとこ見るな!」
私が頬を膨らませて抗議すると、雄太がけらけら笑う。
「だって目立つんだよ。大学の時よりさらに……」
「もう!うるさか〜!」
思わず両手を上に挙げて、威嚇のポーズを取ってしまった。もう我慢の限界やった。
雄太がその姿を見て、懐かしそうに笑う。
「ああ、そうそう!その威嚇のポーズ!」
「威嚇って何よ威嚇って!」
「大学でもよくやってたなそれ。みんなでタスマニアデビルって呼んでたの、覚えてるか?」
タスマニアデビル——そのあだ名を聞いた瞬間、私の顔が真っ赤になった。
「あー!そのあだ名禁止!絶対禁止やけん!」
「タスマニアデビル?」
佐々木先輩が首をかしげる。
「蛍がキレると、こんな風に両手を上げて威嚇するんすよ。それで動物園のタスマニアデビルみたいだって」
雄太の説明に、佐々木先輩がくすくすと笑い出した。
「ああ、確かに似てるかも!でもかわいい〜」
「可愛くない!恥ずかしいだけやけん!」
私が両手をばたばた振ると、佐々木先輩がますます笑い出す。
「蛍ちゃん地だと博多弁なんだ?かわいい〜!」
佐々木先輩が私にぽんぽんと抱きついてくる。
「さ佐々木さん!くすぐったいです〜」
そんなやり取りを見ながら、雄太がぽんと手を叩いた。
「そうだ!せっかくの再会だし、今日飲みに行かない?俺の入社祝いも兼ねてさ」
飲み会——その提案に、私は少し身構えた。
「え~、でもうち、そんなにお酒強くないし……」
「別にお酒飲まなくてもいいじゃん。久しぶりに話したいこともあるしさ」
雄太が人懐っこい笑顔を向けてくる。確かに、久しぶりに会った友達と話すのは楽しそうやけど……。
「一応、先輩なんだろ?後輩の歓迎会くらい付き合えよ」
「せ、先輩って……」
その言葉に、私は少したじろいだ。確かに、入社は私の方が早い。でも雄太に先輩面するのは、なんだか照れくさか。
「う〜ん……」
迷っとる私を見て、佐々木先輩が手を叩いた。
「それいいわね!私も参加させて。大学時代の蛍ちゃんの話、ぜひ聞きたいの」
「佐々木さんまで……」
私が困った顔をしとると、周りにいた他の社員たちも興味深そうに近づいてきた。
「飲み会?俺も混ぜてよ〜」
「新入社員の歓迎会なら私も参加したい!」
あっという間に、参加希望者が増えていく。なんでこんなことに……。
そんな騒がしい雰囲気の中で、ふと低くて落ち着いた声が響いた。
「俺も……参加させてもらうか」
その声に振り返ると、いつの間にか係長が近くに立っとった。
え……?係長が飲み会に?
「係長も参加されるんですか?」
私が驚いて聞くと、係長が少し眉をひそめる。
「なんだ?俺が参加すると何かまずい事でもあるのか……?」
その言葉に込められた微妙な圧迫感に、私は慌てて首を振った。
「い、いえ、そんなことないです!ぜひご一緒に……」
でも、なんで係長が急に飲み会に参加したがるとやろ?いつもは職場の飲み会とか興味なさそうやったのに。
そのとき、ふと雄太と係長の視線が交錯したのが見えた。なんか、空気がピリッとしたような……。
「よし、じゃあ決まりな!蛍、約束だからな〜」
雄太が指でぴっと私を指しながら言う。
「え、約束って……」
「後輩の歓迎会、先輩として盛り上げてくれよな?」
雄太のその言葉と笑顔に、私はもう逃げられんなって観念した。
「は、はい……がんばり……ます」
そう答えながら、私はそっと係長の表情を盗み見た。
なんか、いつもより険しい顔をしとるような……。眉間にちょっとしわが寄っとるし、口元も少し下がっとる。
もしかして、雄太のことが気に入らんとやろうか。それとも、飲み会自体が嫌なんやろうか。
でも、だったらなんで参加するって言うたとよ?
私は不安になって、こっそりスマホを確認してみた。
《新入社員が推しと馴れ馴れしい。大学の同期とか言ってるが、絶対に油断ならない。監視が必要だ。#推し》
ぎゃあああああ!
やっぱり!係長、完全に警戒モードやん!
でも雄太は昔からお調子者やけど、悪い人じゃないとに……。ただ、確かに女の子と仲良くなるのは上手やったかも。
これは……今夜の飲み会、とんでもないことになりそうな予感がする。
夕日がオフィスの窓から差し込んで、係長の横顔を照らしとった。その美しい輪郭の中に、普段は見せない何かが宿っとるのが見えて、私の心臓はドキドキしてきた。
雄太という予想外の再会と、係長の謎めいた参加表明。
春の夕暮れがゆっくりと更けていく中で、私の一日はまだまだ波乱含みやった。
今夜は一体、どんな夜になるんやろう……。