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第5話 ズルい人(2)

 アラームの音で目が覚めたとき、まだ外は少し薄暗かった。


 いつものスヌーズを三回は叩いたあと、ようやく体を起こす。


 眠れたんか分からんけど、起きれたから、まずは合格。


 ぼうっとした頭でシャワーを浴びて、服を選ぶ。


 会社用の制服に袖を通して、アイロンのかかったスカートを揺らすと、なんとなく背筋が伸びた。


 「……行こう」


 出かけるとき、玄関の鏡に映った自分に、小さく言うた。


 無理に笑わんでもいいけん、ちゃんと今日を過ごせますようにって、願いを込めて。


 会社のビルの前に立ったとき、心臓が少しだけ早く動いとるのが分かった。


 深呼吸して、エントランスの自動ドアをくぐる。


 「おはようございます」って挨拶を交わしながら、うちも声を出す。


「おはようございます……」


 ……思ったよりも普通に言えた。


 ほんのちょっとだけ、自分を褒めてやりたかった。


 デスクに着いて、パソコンを立ち上げる。


 昨日の資料の続きを開いて、作業を再開する。


 ――けど。


「小鳥遊さん、ここの数字、ずれてるよ」


 主任の声が背後から降ってきた。


 頭が真っ白になる。


「あっ……す、すみません……っ」


 どうやら、前のバージョンのデータが混ざってしまっとったらしい。


 慌てて直そうとしたけど、手が震えて、マウスもうまく握れん。


 焦りばかりが先に立って、思うように進まん。


 周囲の視線も、勝手に気になって、呼吸が浅くなる。


 それでも、なんとか直して提出した。


「……はい。修正しました。すみませんでした……」


 戻ってくるとき、うちの顔が引きつっとるのは自分でも分かった。


「蛍ちゃん、大丈夫?」


 佐々木さんの声がふわっと隣から降ってきた。


 目を合わせた瞬間、ぷつんと何かが切れた。


「……ありがとうございます……」


 小さく呟いた声が、涙ににじんどる気がした。


 だって……がんばっとるのに、なんで、こんなに空回りすると……。


「も〜〜、可愛い奴め!」


 佐々木さんが、うちの肩をぎゅっと抱いて、頭を撫でてくれた。


 髪がちょっとぐしゃってなるけど……でも、その手が温かくて、なんか救われる気がした。


 ……そしたら。


「小鳥遊にミスがあったのか?」


 あの、低くて響く声が、後ろから聞こえた。


 伊達係長。頭の中に最悪なパターンが頭に浮かぶ。


 心臓がまた、ひゅんってなった。


「えっ、あ、はい。すみません……」


 怒られる、そう思った。


 係長の視線が刺さる。


 冷たい声が飛んでくる、そう覚悟しとったのに。


「……そうか。その……大丈夫か?」


「……え?」


「え?」


 佐々木さんと、うちが同時に声を出す。


 係長は一瞬、言葉を選ぶように口を閉じてから、少しだけ目を伏せて言った。


「……元気なさそうだったからな。無理は……するな。それだけだ」


 そして、そっと背を向けて歩いていった。


「……珍しい。あんな係長、初めて見たわ」


 佐々木さんが信じられないものを見たような顔で、ぽそっと呟いて、うちもこくんと頷いた。


 声をかけたわけでも、慰めを求めたわけでもなかった。でも――


 ……あの人、うちが元気ないの……気づいとったんやね。


 涙は出んけど、胸の奥に何か温かいものがにじんできて。


 指先がじわって熱くなった。


 係長……うん。うち、もう少しだけ、頑張れるかもしれん……。





 午後、時計の針は静かに二時をまわっていた。


 少し前に終わった資料の確認を済ませ、ほっと息を吐いたところで、うちはそっと椅子から立ち上がった。


 「ちょっと、化粧室行ってきます〜」と周囲にひと声。


 誰にでもない、空気を割らないためだけの軽い挨拶。うちももう、そういう気遣いができるようになったっちゃね……なんて小さく自分に呟いて、廊下を歩く。


 気持ちはまだ、すこしふわついとった。


 さっきの係長の言葉が、胸の奥にじんわり残っとって。


 怒られるとばかり思っとったのに、まさか“無理するな”やなんて。


 不器用なくせに、優しかっちゃけん。あの人。


 でも――それだけに、うちもしっかりせな、って思った。


「いつまでも、くよくよしてたらいかん……仕事で、ちゃんと挽回せんとね」


 誰にともなく、そう呟いて、拳をぎゅっと握りしめる。


 だけん、まさか、その直後にあの声が聞こえてくるなんて……思わんかったとよ。


「マジであの子さ、また調子乗ってない?」


 足が、止まった。


 その声は、昨日と同じ。あの、トイレで……うちのことを笑ってた、三人組のうちの一人。


「うんうん!係長と一緒にいるの、あれ絶対狙ってるでしょ?」


「見た見た〜。資料室で声かけてたときの顔とか、もう、“計算づくです”って書いてあったもんね〜」


 ……はああああ。


 うち、深く息を吸い込む。


 心臓が、さっきまでと違うリズムで打ち出した。


 怒りとか悲しみやなくて、……なんか、空気がすうっと冷えてく感じ。


 このまま入ったら、またあの中に立ち会わされる。


 悪口の真っ最中に、自分が入っていくなんて……それはさすがに耐えられん。


 「……やっぱ、やめとこ」


 ここのトイレは、もう使わん。そう決めて、踵を返す。


 ——その瞬間。


 視界の端に、すっと現れた影。


 「っ……す、すみません!」


 反射的にぺこりと頭を下げた。ぶつかりそうになって、慌てて距離を取る。


 顔を上げると、そこには――


 ビシッと決まったスーツ姿の、伊達係長。


「っ……」


 びっくりしすぎて、息が詰まりそうになった。


 係長の顔は、相変わらず冷静で、でも……少しだけ眉が動いた気がした。


 その瞬間だった。


 「小鳥遊ってさー、絶対外ヅラいい子ぶってるだけだよね」


 「だよね!裏じゃ絶対計算高いし、男の前だけ猫かぶってるって感じ?」


 その“決定的な一言”が、トイレの奥からはっきりと漏れてきた。


 空気が、止まった。


 係長の横顔が、わずかに動いた。


 うちは、慌てて両手をバタバタさせて、必死に言うた。


「あっ、いやっ、あの、あれはっ、うちじゃなくて、別の……たぶん、似た名前の……!」


 ばたばたと手を振って、否定しようとするけど、声がうわずって上手く出らん。


 そんなうちの前で、係長が、すっと片手を差し出してきた。


 「大丈夫だ」


 その言葉だけ、低く、静かに。


 怒ってるわけでもない。責めてるわけでもない。


 ただ、明らかに“落ち着け”って意味を込めた、その一言。


 ……涙出そうになった。


 まもなくして、トイレのドアが開く音。


 スカートの裾を揺らして現れた三人組が、こちらに視線を向けた途端――


 「……えっ」


 「……嘘……」


 「やばっ……」


 瞬間的に顔が凍りついた。その場の空気が、音を立てて張り詰めたのが分かった。


 係長と、うちと、三人。誰も声を出せない、そのわずかな沈黙を破ったのは――


 彼女たちの、しどろもどろな言い訳やった。


「い、いや、あの、違うんです、今のはただの噂で……!」


「小鳥遊さんのことを悪く言ったわけじゃ……!」


「むしろ、尊敬してて、いい新入社員だよねって……あの、その……!」


 その言葉に、係長がふぅ……と静かに息をついた。


 そして、口を開く。


「……ここは遊び場じゃない。会社だ。そして君たちはそこの社員だ」


 その声音は、感情を一切含まない、ただただ事実だけを告げるような冷たさで。


「君たちはもっとその自覚を持つように……」


 係長の声は、淡々としとるのに、なんでか空気がピシッと引き締まる。


 声を荒げたりせんでも、こうやって一言一言が胸に響くって、さすがやな……って、変なとこで感心しそうになる。


 三人の女子社員たちは、青ざめた顔で「すみませんでした」と繰り返して、何度も頭を下げた。


 ペコペコ、ほんとにペコペコって感じで、もう必死。


 これが仕事じゃなかったら、正直ちょっと笑ってしまいそうな構図やけど――


 うちは、笑えんかった。


 だって、今ここに立っとる係長が、うちのために……うちを、庇ってくれたんやけん。


 その事実が、胸の奥にじんわり沁みて、言葉も出らんやった。


 女子社員たちはそそくさと身を翻して、その場を離れようとする。

 

 けど。


 「君たちに、一つだけ言っておくことがある」


 ……その声に、全員がピタリと足を止めた。


 背筋が凍ったみたいに、三人の動きが止まる。


 係長は、うちらの方に背を向けたまま、ほんの一瞬だけ息を整えて――


 そのまま、ゆっくりと振り返った。


 彼の左手の拳が、ぎゅっと握られとるのが見えた。

 

 その指先には、力が込められすぎて、骨ば浮き出るほどで。


 ……あんな顔も……するんや……。


 「小鳥遊は……お前たちが思っているような女性じゃない」


 低く、でもはっきりとした声音。


 「ひたむきで、何事にもまっすぐな子だ。その姿は、近くで一緒に働いている俺が、一番よく知っている」


 ……え?


 心臓が、跳ねた気がした。


 それは、怒りでもなく、皮肉でもなくて――ただただ、真っすぐな言葉。


 まるで、誰にも嘘のつけん人間が、そのまんまの気持ちを言葉にしたみたいな。


 「分かったのなら、今後二度と彼女に対して、くだらないイチャモンをつけるな。……分かったか?」


 鋭く、冷たい視線。


 それを受けた三人の女子社員は、全身から“すみません”が漏れ出そうな勢いで、深く頭を下げた。


 今度は、さっきよりももっと深く。


 たぶん床に頭つきそうなくらいの角度で。


「はい……!申し訳ありませんでした……!」


「本当にすみませんでした……!」


「以後、気をつけます……!」


 そのまま、顔も上げずに、早足で足音だけを残して去っていった。


 ……シーン、って音がした気がした。


 残された空間に、係長と、うち。


 だけど、あまりにも、頭が追いついていかんくて。


 さっきの会話が、ちゃんと聞こえとったのかどうかも怪しくなるくらい、鼓動ばっかりがドクドクうるさくて。


 係長の声。


 うちの名前。


「まっすぐな子だ」って言われたこと。


 それが、あまりにも不意打ちすぎて、体が熱くなってきた。


「……っ、あの、係長……」


 何か言わんといけんと思って、言葉を探そうとしたけど――


 なにひとつ、まともに出てこん。


 気の利いたことも言えんし、お礼もちゃんと言葉にならんし、


 ああもう、なんでうちは、こういうときに限って語彙力がゼロになると?


 でも、ひとつだけ。


 それでも――


 いま、あの人がうちのことを“守ってくれた”って、それだけは、間違いなく分かった。


 その事実が、胸の中にぽっと灯った火みたいに、ゆっくり、じんわりとあたたかさを広げていった。


 女子社員たちの背中が廊下の角に消えていって、やっと――ほんとにやっと、空気が少しだけ緩んだ。

 うちはずっと固まったままで、いまだに指先の震えが止まらんかった。


 ……でも。


 係長が、あそこまで言ってくれるなんて、思わんやった。


 “まっすぐな子だ”“俺が一番よく知ってる”

 あの言葉、ぜんぶ……うちのこと、見とってくれた人にしか言えんやろ?


 胸がずっとぽかぽかしとって、でもそれがじわじわ熱を帯びてきて、まるでストーブの前に座りすぎたみたいに、息が苦しかった。


 そんなうちの前を、係長が静かに通り過ぎていく。


 その背中を、何気なく目で追いかけたときだった。


「小鳥遊」


 ……名前を呼ばれた瞬間、びくんって肩が跳ねた。


「は、はいっ!」


 思わず声がひっくり返ってもうた。


 いかん、間抜けな声出ちゃった……!


 でも係長は、いつもの無表情のまんま、少しだけ視線を落としてこう言った。


「困ったときは、俺に言えって言っただろ……」


 その言葉、音としてはいつもと変わらんとに――でも、確かに分かった。


 あの声の中には、ちゃんと“優しさ”が込められとった。


「……は、はい」


 うち、ぎこちなく頷いた。心臓が、また変なリズムで跳ねよる。


 だって、ほんとに不意打ちすぎて……。


「俺は……そんなに頼りないか?」


 その言葉に、思わず目を見開いてしまった。


 え、いま、なんて?


 視線を向けると、係長は少しだけ、寂しそうな顔をしとった。


 どこか、自信なさげな、物哀しい目。あの完璧な表情に、ちょっとだけ“素”がにじんどる。


 ……そんな顔……ズルすぎっちゃ。


 それが、うちのため――うちに対して出た表情なんやって、思ったら、もう、顔から火が出そうで。


「い、いえっ、そんなこと……ないです……」


 思わず俯いてしまう。恥ずかしさと嬉しさがごっちゃになって、もうどっちがどっちか分からん。


「……良かった」


 その一言と一緒に、係長がふっと笑った。


 あのクールな口元が、やわらかく緩んで――


 ……もう、無理。


 顔が赤いとかそういうレベルやない。熱い。全身が熱い。


「迷惑だなんて思うなよ。俺はお前に頼られて、嬉しいと思ってる。だから、遠慮するな……」


 そう言って、また静かに背を向けた。


 スーツの背中が遠ざかっていく、その時――


 ……あれ?


 なんか……首、赤くない?


 思わずじっと見てしまった。


 襟元の肌が、じんわりと朱色に染まっていて、その色は首筋から、耳の裏までしっかり広がってた。


「……え、まさか」


 うち、ぎゅっと口を押さえる。


 ……係長、いま、照れとる?


 信じられん。あの無表情マシーンみたいな人が……うち相手に照れとるって、まさか、まさかの展開やないと?


 もう、顔が溶けそう。心臓がばくばくして止まらんし、背中に汗もかいとるし、どげんしたらええと!?


「……うぅぅぅ、顔が……顔が良すぎるだけやけん……っ!」


 悶えるように頬を両手で覆って、うち、完全にパニックモード。


 係長の笑顔、反則すぎる。ダメ。もう無理。保てん。


 ……ああもう、落ち着け私!


 なんとか深呼吸しようとして、ふと思い出した。


 そういえば、あれ。見とらんやった。


 スマホをこっそりポケットから取り出して、手に汗握りながらTwitterを開く。


 画面には、すでに例のアカウントが開かれとった。


 《@sou__srs》


 ……怖い。見るの怖いけど、でも、絶対何か書いとる。書いとるやろ、このタイミング。


 指が震えながらも、うちは最新のツイートを読み込んだ。


 《推しの窮地を救えた、ひゃっほう!でかしたぞ陰湿女子社員共!お前らの事は気に食わんが今だけは褒めてやる!#推し》


 ……は?


 スマホを持ったまま、うちの手が、ぷるぷると震え始めた。


「前言てっかーい!!もうなんなんこの人っ……!!」


 誰もおらん通路に、思わず叫んでしまった。


 その声が天井に跳ね返って、自分に返ってくる。


 でも、怒ってるんじゃなかった。


 むしろ、嬉しくてしょうがなかった。


 その一言が、たった140文字の投稿が、さっきまでぐちゃぐちゃやったうちの心を、ふわっと持ち上げてくれた……。


 胸の奥で、花が咲いたみたいに、ぽっとあったかくなった。


 ……やばい。


 むしろ、なんかもう――どうしていいか分からん。


 頭の中が真っ白で、でも胸の中はごちゃごちゃで、


 顔は熱いのに手足は冷たくて、心臓だけがずっと暴れよる。


 ……この感じ、なんなんやろ。


 うち、いま、どんな顔しとるんやろ。


 鏡があったら見たくない。でもちょっとだけ、見てみたかも。


 係長のこと考えると、変になる。


 声を思い出すだけで、さっきの目を思い出すだけで、


 ふわって胸の奥が持ち上がる。


 嬉しい、とか。


 楽しい、とか。


 そういう単純な言葉じゃ言い表せん、この感じ。


 ……分からん。


 でも――


「……なんかもう、ほんと色々ずるか……」


 ふと漏れたその言葉が、廊下に優しく溶けていった。


 自分でもまだ、うまく名前をつけられん感情。 でも、それが確かに芽吹き始めとる気がして――


 うちは胸の前でそっと手を重ねながら、熱をこらえるように、小さく深呼吸した。

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