第4話 ズルい人
水の流れる音が、壁越しに聞こえていた。
どこか遠くの世界みたいに感じながら、私はトイレの個室の中で小さく息を吐いた。
——はぁ。やっと、一人になれた。
会議室の空気は、ピリッと張りつめていた。
伊達係長のプレゼンは完璧で、隣に座っていた私は、資料を配る手が震えとったくらい。
そりゃあ……いろいろあったけんね、最近。うちの中では、ほんとに、もう、大騒ぎっちゃけん。
ポケットからスマホを取り出して、指先で画面を撫でる。
無意識に開いたのは、例のアカウント。
気づけば、また開いとった。
《sou__srs》
……伊達係長の裏垢。
最近、ついつい覗いてしまうんよね。気にならんっちゅうたら嘘になるけん。
だって、あの完璧イケメン係長が――
裏では、うちのことを、こげん呟きよるなんて……。
信じられんような気もするし、でも、実際この目で見たし……
うち、なんであれを見てからこんなにドキドキしとると?
係長が……うちのこと、好きってことなんかな。
いやいや、まさか。んなこと、あるわけなか。
んもう、自意識過剰かっちゅうに!
……って自分で突っ込んでも止まらんけん困るっちゃ。
スマホの画面に目を戻して、今日の呟きを確認。
なに書いとるっちゃろ、今日は――
《会議でホタルちゃんが飲み掛けで置いてあったコーヒーカップ……もって帰りたい、もちろん真空パックで #推し》
……は?
眉間、ぎゅーってなった。指でぐいって押さえる。 真空パックて。
ばかちんが!なんでそんな変な保存方法チョイスすると!?
ああもう、これがなければほんとに完璧な人やとに……。
でも、やっぱ――
係長の目線の中に、うちしかおらんって思うと、ちょっとだけ……ううん、ばり嬉しい。
しかも、この裏垢のこと、うちしか知らんやろ?
そげん考えたら、ちょっとだけ優越感湧いてきて――
うわ、やば。トイレの中で小躍りしそうになっとる。
何しよると、うち……。
鼻の奥がツンとして、笑いそうになった瞬間――
「えー、マジであれはないよねー」
「しかもさ、アイツ絶対浮気してるよね?」
「うわ、それ思ってた〜〜〜!!」
ガチャッと入ってきたドアの音と一緒に、聞こえてきたのは――
総務課の女子社員の声やった。
げっ……。
声の主、なんとなく分かる。あの、いつもキャッキャしよる三人組。
うわ〜……。化粧直しかなんか知らんけど、なんで今日に限ってここなん……。
音を立てんように、スマホをそっとしまう。
下着を整えて、もう出ようと思ったんやけど――
その瞬間、聞こえてきた一言で、手が止まった。
「ねえ、広報戦略部の小鳥遊って子、知ってる?」
その声が聞こえた瞬間、うちは個室の中で息を止めた。
――えっ、今、名前……呼ばれた?
息を殺してそっと扉越しに耳をすませる。
「新入社員の?あの子さ、やけに伊達係長と一緒にいない?」
「そうそう!絶対ぶりっ子だよね~。あの声、なんか猫なで声っぽくない?」
「うんうん。しかも、男の前では可愛さアピールしてる感すごい。ああいうタイプ、真面目ぶってるけど裏では何してるか分かったもんじゃないよね」
……っ。
ズン、と心の奥に何かが沈んだ。
うち、そんなふうに思われとったん……?
「係長にも、うまく取り入ってるっぽくない?目立ってるの、わざとじゃない?」
「てかあの子、同期の男子にも結構話しかけてるらしいよ?ほら、営業の田崎くんとか……」
「うわ、それマジ?男の気配察知するの早そう~!職場の女を敵に回すタイプだね〜〜」
……聞いてしまった。
聞きとうなかったのに、耳に入ってきてしまった。
自分のことを、知らん人に好き勝手に言われるって、こんな気分なんやね。
漫画やドラマではよく見るシチュエーションやけど……まさか、自分のこととして降りかかってくるなんて思わんやった。
ついさっきまで、伊達係長の裏垢見てニヤついとった自分、ばかみたいや……。
胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
……やけに、懐かしい痛み。
——「小鳥遊さんってそんな奴だったんだね……こっちから告っといて悪いけど、俺そういう奴と付き合えない。二度と俺に話しかけてこないで、さよなら」
……その声が、また頭の中でこだまする。
真田くん。高校の時、唯一付き合ったことのある人。
告白されたとき、よく分からんまま「うん」って頷いて……その三日後に、ああやって捨てられた。
胸がずきずきする……。
足元がふらっとしそうになって、壁にもたれながら深呼吸する。
そげん言われるようなこと、したっちゃろか。うち……。
思考がぐるぐると回りはじめたそのとき、
「やばっ、もうこんな時間じゃん!」
「ほんとだ、ミーティング戻らなきゃ!」
「あ、ちょっと待って!」
三人の足音が、ぱたぱたと遠ざかっていく。
うちはようやく、そっと鍵を外して個室を出た。
鏡を見る余裕もなか。洗面台で手を流して、こっそり深呼吸してから部署に戻った。
自分では、平常心を装ってるつもりやったけど――
とりあえず次の準備せんと……。
席に戻り資料を探す。
「小鳥遊」
声に振り向くと、そこにはいつもの顔をした係長の姿があった。
「ぐずぐずするなよ小鳥遊、会議に遅れ……」
伊達係長の声が、うちの前で止まる。
……あ。目が合う。
いつもより一瞬だけ長く、こっちを見ていた。
「……どうした? 何かあったか?」
え、ばれとる? 顔、変やった?
やばいやばい、なんか言わな。
「い、いえっ!なんでもないです!ちょっと急ぎすぎて、息上がってるだけで!」
慌てて笑顔作って、取り繕った。
係長は、じっとこっちを見ていたけど――すぐに表情を戻して、いつもの声で言った。
「……ならいい。準備して会議室に来い。先に行ってるぞ」
背を向けて歩き出したその姿を見送って、胸のあたりをそっと押さえる。
ほんとは、ちょっと泣きそうやったけど。
係長のその一言で、すこーしだけ、助けられた気がした。
気持ち切り替えんと……。
自分の頬をぴしゃりと叩き、私は資料を手に取り会議室へと向かった。
「ただいま〜……」
返事がないのは分かっとるけど、つい口に出してしまう。
がらんとしたワンルームに、うちの声だけがぽつんと響いた。
電気をつけて、バッグをぽすんとソファの横に落とす。
そのまま、制服も着替えんままテーブルに突っ伏した。
……あのトイレでの話。
思い出すだけで、胸の奥がちくちくする。
「そげん言わんでも……よかろうもん……」
思わず呟いた言葉は、自分に向けたんか、それともあの人たちに向けたんか……。
ふと、スマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、肩の力が少し抜けた。
《早苗》
高校時代からの友達。
地元の田んぼの裏道を一緒に自転車で走りよった、あの子。
……こんなときこそ、声が聞きたいかも……。
「もしもし、蛍やけど」
『お〜〜!やっと出たぁ〜!ずっとかけよったんよ!元気しとると〜?』
「しとるしとる。ちょっと今帰ったとこやったっちゃん」
『あいかわらず働きもんやね〜!都会の女は違うねぇ』
「なんねそれ。うちまだ電車で寝落ちしかけて怒られたばっかよ……」
『あははっ、変わっとらんやん!安心した〜』
声を聞くだけで、なんか力が抜けて、笑い声が自然に出る。
『それにしても、蛍が東京で働いとるとか、ほんと不思議な感じするっちゃんね』
「うちもよ。まだちょっとだけ、夢みたいやもん」
『でもでも〜、蛍はなんか東京似合うっちゃけん。ほら、かわいかし〜!性格も明るいし!』
「ちょ、やめてって〜照れるやん……」
他愛のない話。春になって花粉が飛びまくっとるとか、地元のラーメン屋が潰れたとか、妹が彼氏連れてきてお父さんが泣いたとか。
懐かしくて、あったかい時間。
……そしたら。
『でさ、話変わるけど』
うん?って思ったときには、もう遅かった。
『東京で彼氏とか、できたと〜?』
「えっ!?いやっ……そ、そげな、なかって!」
『な〜んや、言いよるやん!あやしか〜!』
「なんもないって!ほんとになんもないけん!」
『ふーん……うち、思ったっちゃけど』
急にトーンが変わった。
『蛍、もしかして、まだ真田のこと引きずっとらん?』
名前を聞いた瞬間、心臓がきゅっと縮んだ気がした。
「……な、なん言いよっとね。そんなわけなかろうもん」
即答した。嘘じゃない。嘘じゃないけど——
それでも、胸の奥がざわざわしよるのはなんでやろ。
真田くん。
高校のとき、突然うちに告白してきたバスケ部の人気者。顔もよくて、勉強もできて、友達も多くて。
あんな子が、うちのこと「好き」って言うてきて。
びっくりして、でも、なんか悪い気もせんで。
よく分からんまま「……うん」って頷いた。
でも、その三日後。
「小鳥遊さんって、そんな奴だったんだね。こっちから告っといて悪いけど、俺そういう奴と付き合えない。二度と俺に話しかけてこないで、さよなら」
……その言葉だけ残して、うちは振られた。
私はただ、呆然として、何も言い返せんかった。
『あのとき、あんたショックやったっちゃろうもん。そりゃ恋愛とか怖くなるのも無理ないよ』
「別に……もう気にしとらんけん」
そう答えたけど、心の中ではその名前が、まだちくちく刺さりよった。
早苗の声が少しだけ低くなった。
『今思い出してもむかつく……真田のファンの子が蛍のこと、いろいろ吹き込んどったんよね。ぶりっ子だの、男とばっか喋っとるだの、男漁りしてるだの本当でたらめばっか。ほんと腹立つ』
「……っ」
『そんなん、うちらが知っとる蛍やないやん。本当最悪よ。あいつらも、真田もね!』
そう……当時真田君を好きだった子達によって、私の短い恋愛はあの時終わった。
……トイレで聞いた、あの声たちと、そっくりやった。
「うち、なんでそげん言われなあかんのやろね……」
ポツリと出た言葉に、早苗が静かに答えた。
『あんた、笑顔が明るいけんよ。目立つし、男にも好かれるし。それが気に入らん人がおるだけ。蛍は蛍のままで、よかとよ』
「……ありがと」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
さっきまでの重たか気持ちが、少しだけ軽うなった気がした。
『……なんか、嫌なこと思い出させてごめんね。ほんとは明るい話するつもりやったとに』
「ううん、大丈夫。早苗と話せてよかったけん」
電話の向こうから聞こえる早苗の声が、じんわり心に染みてくる。
うち、どこかで誰かに肯定されたかったっちゃろうね。
“蛍のままでいい”って言ってくれて、ほんとに、嬉しかった。
「また連絡するけん、身体に気ぃつけてね」
『あんたもやけん。無理せんごと』
通話が切れて、画面が暗くなる。
早苗の言葉はやさしくて、地元の空気みたいで、包んでくれる感じがした。
でもそれ以上に、心の奥底に沈んどった“自分”に触れられた気がして……ぐらりと感情が揺れてしまった。
……うちは、本当に気にしてなかったっちゃろうか。
真田くんのこと。
あの一言で終わった関係。何も知らんまま否定されて、飲み込むしかなかったあの時間。
気にしてないふりを、どれだけ重ねてきたんやろ。
「……うち、そんな子に見えてるんやろか」
声が出た瞬間、ぐっと喉が詰まった。
涙じゃない。ただの空気の塊みたいなもんが、胸に残っとるだけ。
枕を抱きしめてベッドに横たわる。
頭の中には、早苗の声、係長の顔、昨日のトイレの声……全部ぐるぐる回って、息がしにくくなる。
誰かの目が気になる自分もおる。
評価がほしくて笑っとる自分もおる。
でも、誰かに近づこうとしたら「媚びてる」って言われる。
じゃあ、うちは、どんな顔して仕事すればいいと?
「明日……ちゃんと行けるっちゃろうか、うち」
目を閉じても眠気は来んかった。
代わりに、静かな夜がずっとずっと続いていた。