序章:聖女の魂を持つ赤子
「全ての準備が整いました」
儀式を執り行う上級魔術師が、厳かな声で告げる。
黒衣の幹部魔術師たちが円陣を組み、その中心には純白の布に包まれた赤子が静かに横たわっていた。
魔術陣が淡く輝き、セレスティアの魂を受け入れる準備が整っていた。
「これより、セレスティア転生計画第一段階を執行する」
長老の宣言とともに、魔術師たちの詠唱が始まった。
「おお、至高の神よ……」
「我らが願いを聞き届けたまえ……」
「この器に、清らかなる魂を……」
詠唱が重なり合い、魔力が渦を巻く。
そして赤子の体が眩い光に包まれた。
「成功です!」
歓喜の声が上がる中、魔術師たちは互いに顔を見合わせた。
「生体反応、正常」
「魔力の流れも安定しています」
転生の儀式は成功を収めた。
15年前の大災害で、自らの命と引き換えに絶望の怪物ABYSSを封印したセレスティア・クララ。
その魂を人工的に宿した赤子、トリアの誕生である。
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「シルヴェスター様、本当にこれで良いのでしょうか?」
若手魔術師が不安げな表情で尋ねた。
窓の外では、雨が激しさを増していた。
シルヴェスターは儀式の興奮の中で、ただ赤子だけを見つめていた。
防護結界に包まれたゆりかごの中で、トリアは穏やかに眠っている。
「この子は人間兵器じゃない。一人の人間だ」
「でも、上層部の意志に反抗すれば……」
「分かっている」
シルヴェスターは苦しげな表情を浮かべた。
「だからこそ、私がやるしかないのだ」
彼はポケットから一通の手紙を取り出した。
それはマキシマスからの返信だった。
「マキシマス、頼むぞ……」
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深夜、嵐は一層の激しさを見せていた。
シルヴェスターは息を殺して研究施設の廊下を進む。
雨音が足音を消してくれているのは幸いだった。
しかし。
「誰だ!」
「不審者発見!」
「チッ」
シルヴェスターは舌打ちする。
「眠りの霧よ、汝が加護を」
詠唱と共に、廊下に青白い霧が立ち込めた。
護衛は次々と意識を失っていく。
トリアの部屋に辿り着くと、彼は熟練の技で手際よく封印を解除した。
「やあ、トリア。迎えに来たよ」
赤子は穏やかな寝顔を見せている。
シルヴェスターは封印の解けたゆりかごからトリアを救い出し、しっかりと抱きかかえた。
「すまない。少しの間だけ我慢してくれ」
だが。
「そこまでだ!」
背後から冷たい声が響く。振り返ると、数人の魔術師がそこに立っていた。
「セレスティア転生計画は、人類の希望だ。邪魔はさせない」
「違う」
シルヴェスターは毅然と答えた。
「人間を兵器として扱うような計画に、希望などない」
「では、力ずくで止める!」
魔法弾が一斉に放たれる。
青く輝く光弾が、廊下を埋め尽くすように迫ってきた。
「風の盾よ!」
シルヴェスターは片腕でトリアを守りながら、もう片方の手で防御魔法を展開した。
魔法弾が風の壁に弾かれ、跳弾のように壁や天井を破壊していく。
「急がなければ」
彼は窓に向かって走り出した。
トリアを守るように体を丸め、ガラスを突き破って外に飛び出る。
「追うぞ!」
「決して逃がすな!」
嵐の夜空に、攻撃魔法の光が乱舞する。
シルヴェスターは雨に濡れた中庭を駆け抜けた。
「風よ、我が足となれ!」
加速魔法が発動し、シルヴェスターの動きが一気に速まる。
しかし、背後からの追撃は止まらない。
「氷槍よ、貫け!」
「炎弾、焼き尽くせ!」
次々と放たれる魔法が、シルヴェスターの周囲に降り注ぐ。
「くっ!」
左肩に氷の破片が突き刺さる。
しかし、彼はトリアを守るために走り続けた。
「闇よ! 我を隠せ!」
シルヴェスターが通った後の道に濃い霧の闇が発生し、追っ手は一時的に視界を遮られる。
ただの一時しのぎだが、時間稼ぎにはなる。
「くそっ、なんだこの闇は!」
「おい、あそこにいるぞ!」
「回り込め! 包囲しろ!」
研究施設の正門が見えてきた。
しかし、そこには既に大勢の魔術師たちが待ち構えている。
「これで終わりだ、シルヴェスター」
「そうかな?」
彼は不敵な笑みを浮かべる。
「光よ!」
突如として強烈な光が辺りを包む。
魔術師たちが目を押さえる一瞬の隙を突いて、シルヴェスターは塀を飛び越えた。
「追え! 決して見失うな!」
冷たい風が頬を切り裂く。
シルヴェスターは森の中を駆け抜けていく。
枝が服を引き裂き、泥が足を重くする。
それでも、彼は決して立ち止まらなかった。
「もう少しだ、トリア」
トリアは驚くほど静かに、彼の腕の中で眠っていた。
「森に逃げたぞ! 焼き払え!」
「馬鹿か! 赤子が死ねば何もかも終わるのだぞ!」
敵が有効な策を打てないでいる間に、シルヴェスターはさらに速度を早める。
嵐は容赦なく二人を打ちつけ、霧が視界を遮る。
森を駆け抜け、小高い丘のふもとに、ついに一つの明かりが見えてきた。
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孤児院の裏門で、マキシマスとキャシディは静かに待っていた。
「来たわ」
キャシディが身を乗り出す。
「こっちです! 師匠!」
マキシマスが小声で呼びかけた。
シルヴェスターは裏門から滑り込むように入り、二人に伴われて部屋の中へと駆け込んだ。
「無事で良かった」
キャシディが温かな毛布を持って近寄る。
「大丈夫よ、もう安全だから」
彼女は濡れたトリアを素早く包み込んだ。
「本当にすまない」
シルヴェスターが深々と頭を下げる。
「手はず通り、この子を頼む」
「謝ることはありません、シルヴェスター師匠」
マキシマスが彼の肩を叩く。
「私たちは、いつでもあなたの味方ですよ」
「私たちに任せてちょうだい」
キャシディが微笑む。
トリアを抱きながら、揺りかごの準備を始める。
「この子は、きっと私たちが守ってみせるわ」
「ありがとう」
シルヴェスターは深く息を吐いた。
「では、私はもう行かなければ」
「お気をつけて、師匠」
マキシマスの言葉に、シルヴェスターは小さく頷いた。
嵐の音が少しずつ遠ざかり、東の空がわずかに明るくなり始めていた。
シルヴェスターはその足で孤児院を後にした。
「トリア、お前の人生に幸あれ」




