53. 【番外編】執事のセドリックとメイドのコニーの事情 2/25
兄に婚約者ができた。
気が弱く、意見を主張しない兄を支えるために、両親は、後ろ盾が強い伯爵家の次女を次期マイヤー伯爵夫人として選んだ。
紹介を受けた時、セドリックは気が強そうだな、としか思わなかった。
1年後に結婚が決まり、マイヤー家に出入りするようになった兄の婚約者は、何故か邸内で出くわすことが多く、やたら親しげに話しかけてきた。
いずれこの家を継ぐ、兄の妻になる女性だ。
セドリックは将来家族になるのだから、と気を遣っているのかもしれないし、こちらが冷たくあしらって、兄の婚姻に瑕疵を作るわけにもいかない。破談になど、させられない。
兄が結婚し、爵位を継げば、スペアはこの家にいる必要がなくなる。そうすれば、自由だ。家を出て兵舎に移っても、今度こそ文句は言われないだろう。
あと少し。そう思って、兄の婚約者の行動を咎めることなく、受け流していた。
甘かった。
兄が原因不明の体調不良に陥った。
快復までは長期化するかもしれないと、マイヤー家のかかりつけの医師は診断した。
これで兄は婚姻も、爵位を継ぐことさえ危うくなった。
兄の婚約者は、それでも婚約破棄を申し出ることなく、マイヤー家に通いつめた。両親は感動していたが、兄の看護はそこそこに、やはり何かとセドリックがからまれることが多かった。
その頃、メイドが数名、突然ばたばたと辞めた。
ほぼ寝たきりになっている兄の看護も仕事に加わり、辛くなったのだろうと、両親は責めることなく多めの給金を手渡して送り出した。
何があったのかを、その時点で聞くべきだったが、それは為されなかった。
ある日、大事な話があると言われ、セドリックは兄の婚約者に呼び出された。自分だけでなく、両親も呼ばれていると、聞いていた。
時間帯は昼間。呼ばれた先は、自邸内の応接室。
とうとうマイヤー家に、兄との婚約破棄を申し入れるつもりなのかもしれない。
兄の体調は思わしくないと聞いている。だから、それも致し方ないのかも。
もちろん正式な取り交わしは当主同士で行うが、兄の婚約者はここに通っている状況だから、先に家族に一言あってもおかしくはない。
セドリックは、さほど警戒していなかった。
だが、応接室に両親は呼ばれていなかった。
「シグルド様は、もう長くないかもしれません」
両親がまだ来ていないようだが、とセドリックが尋ねる前に、兄の婚約者は切り出した。
シグルド、ああ、兄の名か。
セドリックにとって、兄は「兄」だ。両親は兄のことをそう呼ぶが、そういう場所に自分が居合わせることも、今はもうあまりない。
「シグルド様は、心身ともに弱っていらっしゃいます。私はもう、辛いのです」
憂いを帯びてうつむく兄の婚約者に感じるのは、肌の内側にピリつくような、不快感。
兄の婚約者は、セドリックを上目遣いに見上げた。
「シグルド様を、重責から解放して差し上げませんか? 私も、及ばずながらお手伝いいたします」
セドリックは、自分の甘さに吐き気がしそうだった。
この女は、要するに「兄から爵位を取り上げて、その上自分と結婚しろ」と言っている。
やたらと話しかけて来たその時に、兄の婚約者だからと、受け流したその自分の甘さが、今この事態を招いている。
いつから画策していた? 最初からか。
だとすれば、兄の体調不良の原因は。
「あなたは」
言いかけたセドリックの手を取って、兄の婚約者は続ける。
「名前で呼んでください、セドリック様」
いろいろ無理だ。
セドリックはその手を振り払った。
「呼べない。あなたは俺にとって、兄の婚約者でしかない。名前すら、覚えていない」
兄の婚約者は目を見開いて驚いた。
嘘ではなかった。
紹介された時に聞いたはずの名前は、本当に覚えていなかった。
そのことを信じてもらえたかどうかはわからないが、拒絶の意思は、確実に相手に伝わった。
兄の婚約者はわなわなと屈辱に震えながら、セドリックを睨みつけた。
「私は最初から、最初にお会いした時からセドリック様がよかったの。ほめられた行為じゃないとわかりながら、それでも思いきって話しかけてみたら、あなたは私にとても優しく接してくれたわ。そんなの、もしかしたらあなたも同じ気持ちかもって、思うじゃない! 私は、あなたのために!」
「俺のために?」
違う。この女は、自分のために兄を陥れた。
「そうよ、私はあなたの願いを叶えてあげようと思っただけよ。生まれるのが少し遅かっただけで、シグルド様に爵位を取られるあなたの願いを」
「俺は爵位が欲しいと思ったことは、一度もない」
セドリックは静かに遮った。
兄の婚約者は、セドリックの怒りに気付いたのか、口をつぐんだ。
ひと呼吸おいて、ふふ、と小さな笑みを漏らす。
セドリックは次に起こることの予想がついた。でも、止めることを、女性に手をあげて無力化することを、一瞬躊躇した。
「私を弄んだ報いは、受けてもらうわ。私だけ終わるなんて、許せない」
兄の婚約者は、涙に濡れた歪んだ笑いのまま、腹の底から甲高い悲鳴を上げた。
***
セドリックが、兄の婚約者に対する婦女暴行の容疑をかけられることは、なかった。
その直前に、彼女の犯行が明らかになったからだ。
セドリックを応接室に呼び出したメイドは、買収されていた。そのメイドが自供し、応接室の会話は、外にいた両親とたまたま居合わせた医師によって、盗聴されていた。
医師は、一向に快復しない兄のために呼び寄せた、かかりつけではない、専門医。この邸にいる誰とも関係のない人間、つまり、第三者。
この医師の証言が、セドリックの無罪と兄の婚約者の有罪を立証するのに有効な材料となった。
互いに伯爵家。
両家にとって醜聞でしかないこの件は、表沙汰にはされなかった。
当日中に両家が話し合い、婚約は破棄となり、賠償に関わる何らかの取引がされた。
兄の婚約者、いや、元婚約者がこの後どうなるのか、セドリックは知らない。
専門医は、兄に盛られていた毒を特定しており、多少時間はかかるが快方に向かうはずだと診断した。
両家の話し合いにセドリックが参加することはなかったが、話し合いの後、さすがに何もなかったようなふりはできない。
団欒室に、父と母と、セドリック。
セドリックは、この部屋に入ることすら幼少の頃以来だ。模様替えがされたのだろう、もはやセドリックの知る部屋ではなかった。
セドリックがこの部屋にいる時には、必ず兄がいた。兄のいない場所では、両親と接触しないようにしていた。
だから、この組み合わせでいるのは、落ち着かない。
「ロレインを、信じていたの」
母はぽつりと言った。恨めしげに自分の方を見るから、セドリックは落ち着かないまま、予想はついていたものの、とりあえず話をつなぐために疑問を口にした。
「ロレインとは誰です?」
母は心底呆れた顔をした。
「シグルドに毒を盛ってあなたと結婚しようとした、シグルドの元婚約者よ。あなた『名前すら覚えていない』って、本気で言ってたのね。私はてっきり、ロレインをわかりやすく突き放すためにあえて言ったのだと思っていたわ」
やはり、兄の元婚約者がロレインだったらしい。言われてもぴんと来なかったから、はなから覚える気もなかったのだろう。そして、これからも不要な情報だ。たぶん、すぐに忘れる。
そういえば、彼女との会話を両親と医師に盗聴されていたのだったか。
セドリックにとっては、そちらの方が気になる話だ。
「応接室の外に、人の気配を感じませんでした。どういう状況で、盗聴を?」
父は苦笑した。
「気配、か。お前はもう貴族というより、すっかり軍の人間だな。お前にシグルドを陥れるつもりがなかったことは、お前自身が証明している。この件については、関係者としてお前も知っておく必要があるだろう。最初から説明する」
セドリックは、事の顛末を聞くこととなった。
本編「6. 違和感」、セドリックの「女を簡単に信用したら痛い目に遭うぞ」発言の回収となります




